2009年4月29日水曜日

高橋愛 - Ai Takahashi



さくらの枝を持つ愛ちゃんのワンピースの花のうねりが素敵だった。

加護亜依 - ai kago



あれはハロコンだったのかパーティの方だったかは思い出せないけど、名古屋か大阪の新幹線のホームで娘。たちを待つことを僕がまだやめてなかった頃で、コンサートが終わってもまだ娘。に会いたくて、東京行きの最終まで待つなんて事を散々やって、そんなある日に新幹線のホームで、加護ちゃんは僕の数メートル先に居て、キティーちゃんの顔のぬいぐるみだろうかクッションだろうか、加護ちゃんの手には大きすぎるくらいの大きさのキティーちゃんを大事そうに持っていた、その姿がずっと忘れられない、加護ちゃんが持ち歩くキティーちゃんの顔のサプリケース、加護ちゃんのちいさなかわいい手のひらにおさまるくらいの大きさのキティーちゃん、この小さなキティーちゃんが加護ちゃんを護ってくれることを心から願う、当時、本当に加護ちゃんはキティちゃん好きなんだなぁって事が伝わってくるような顔を加護ちゃんはしていたなぁ、言葉とかじゃなく、それこそ、加護ちゃんがキティーちゃんに憧れているなんて事を世界一うれしい出来事のように書き立てたりもしてしまった、キティーちゃんのつぶらな瞳、加護ちゃんのつぶらな瞳、あの時、新幹線のホームで大きなキティーちゃんを大事に抱えていた加護ちゃんがきょう手のひらに小さなキティーちゃんを抱いてる事をブログで教えてくれた、おもひで…ただそれだけ。と加護ちゃんは言う、そんな加護ちゃんのキティーちゃんを持つ指のまん丸はまるであの頃髪に飾っていた赤いボンボンみたいにまあるくてかわいい。

2009年4月26日日曜日

ジャニーズの男の子たち

僕はジャニーズが大好きだ。幼少期からずっと大好きだ。恥ずかしい告白だけど、ジャニーズに本気で入りたいと思った事だってあった。強烈なやさしさと憧れを抱いた。それはサッカーに出会った時と同じくらいの衝撃だった。中学でクラスの女子がジャニーズの話をしていた時、僕はそれに混ざってタッキーを讃えた、たぶん、鈴木あみの事なんかよりもタッキーの話をしてる方が多かった気がする、同性とか異性とかそういうの、僕にはわからなかった、僕は初潮を知ってる、中学一年になったばかりの時、まだ自慰行為もなにも知らない時、おしっこをしったら血が出てきたのだ、僕は怯えて、担任の先生に「ちんちんから血が出たー!」と言ってやさしく対処してもらった、その日の夕方に病院に行った、あの時、看護婦さんに触れられた時、僕は男になった気がする。歌番組で娘。が同世代のかわいい男の子たちジャニーズと共演する機会を真の当たりにした時、はじめてジャニーズが嫌いになった。けれど、僕は、SMAPもV6も嵐もKAT-TUNもNEWSもYa-Ya-yahも今だって好きだ。NEWSの手越くんは衝撃だった、嵐の二宮くんには敵わないと思った、岡田くんは永遠の憧れだ、赤西は新世代と言うか僕には理解できないと思っていたが、彼は、時折とても悲しい瞳をしてる、その瞳が美しいと思った、今は好きだ。Hey! Say! JUMPを少年クラブだろうか、なにかで知ったとき、その名の素晴らしさと少年たちの無垢な輝きに度肝を抜かれた、山田くんすげーなぁと思った、あの年頃の少年というのはあの年頃の少女よりもずっと純粋で無垢な魂だ、同い年の女子にかわいいと言われる恐怖はとても恐ろしい、親戚に会えば顔の事を言われる、自分が鏡のなかに自らを見つけ出すずっとまえに、少年たちは女たちに発見されてしまう、年上の女のやらしい目つきをまだ性が確定していない時から浴びてしまう、女子に姉に勝手に履歴書を送られる危険性もある、君は美しいと言われてなおも、その恐怖を超えて、その美しさのなかで戦う勇気を持っている少年がジャニーズになれる。

草彅くんが泥酔して警察に保護された事を知った時、自分はとてもショックを覚えた、少し笑ったあとでただ悲しくなった。
草彅くんは夜の公園の芝生のうえで裸でなにかを叫んでいたようだった、僕はその光景を思い浮かべた時、裸になって叫ぶ草彅くんが裸の少年に見えた。ジャニーズは時折、泥酔しては叫んでしまう子が現れるが、僕にはその叫びが彼ひとりだけのものだとは思えない、なにか、少年たちの叫びに聞こえるのだ、シンゴと叫び呼んでいたあのとき草彅くんはきっと何歳でもなかった、罰を受ける事はあたりまえの事だ、大人として恥ずかしい事をしたという事に間違いはない、けれど、この世界が裸になる事への罰や泥酔する事への罰則を遂行するためだけに存在しているのだとしたなんてくそつまらない世界だろうと思う、SMAPって存在は偉大だ、僕が生きることに意識を持ち始めたときからきょうまでずっと存在している、SMAPの曲を僕は未だに聴いている、辻ちゃんに恋をしていた時にいちばん聴いていたのは「はじめての夏」かも知れない、SMAPは娘。と番組に出ることも多かったし、辻ちゃんが「SHAKE」が好きだと知った時はとてもうれしかった。SMAPはある数曲では女の子の欲望の汚さを歌ってみせた事だってある、あの時の、男の純粋さの迸りが僕は大好きだった。キムタクに坊主、女には気をつけろよ、と言われてる気がした。

「夜空ノムコウ」が発表された時は、僕はまだぜんぜん子供で、「あれから」なんてものの存在にすら気づいてはいなかった。
だから、なんか、大人になってしまった男の子たちの悲しさだけが漂っているように思えて、嫌な気分になって、嫌いだと思った。
いつしか、夜空ノムコウを良く聴くようになっていた、僕は冒頭の、少年が少女と誰もいない夜の公園に忍び込む描写が大好きだ、
僕は夜空ノムコウを聴きながら何度も女の子の手を握った、草彅くんの事件のあとに聴いた「夜空ノムコウ」にはそれまでのものとは違っていた、冒頭に歌われる描写が、あの夜の草彅くんに重なって響いた、どこに帰ればいいのかさえわからない少年は夜の公園に忍び込む、
ガスヴァンサンとの映画のなかの少年はただひたすらに学校を道を街を彷徨い歩く、どこかに身を置いたとしても少年たちはずっと彷徨い続けてる、スケードボードで壁を上る時この世界を彷徨う事から抜け出せそうなどこかへ行けるような気がした、おれは部屋で泥酔して娘。の名を叫ぶ、唸るように叫ぶ、AVで自慰をして、少年ではなくなった肉体に縛られ、純粋ではなくなった魂に首根っこを絞められて、僕は裸になって草むらで叫びたかった、草彅くんはあの頃の少年たちのかわりに叫んでくれたんだ、僕らは大人になるしかなかった、
少年は大人になるしかなかった、僕は草彅くんをより強く信じるだろう、シンゴと叫んだ草彅くんが居るSMAPを信じるだろう、僕はジャニーズが大好きだ、少年たちが、少年だった大人たちが、彼らが大好きだ。

2009年4月22日水曜日

娘。

名古屋コンの夜の最後の最後に顔を寄せ合った愛ちゃんとれいなちゃんの髪と髪が髪留めでつながってしまったんだ。


1.夢から醒めて

僕はデュラスの緑の眼を読んでいた。
以下の一文を見つけたのだ。

「それを見たあとの時間のなかに消え去ってしまう映画もあれば、ずっと残っている映画もある。
そうやってはじめて、自分が映画館に行ったのかどうかが分かるの。
つまり、翌朝、前夜に見た映画が、わたしにとってどういうものになっているか、一晩置いたあとの状態、
それが私が見たことになる映画。

デュラス

ならば、その思いを、言葉にできなくて本当に申し訳ないと、謝ることから文章をはじめる事でどうにか少しでも書き進める事ができないだろうか、部屋のテレビも音楽も消して、PCのまえで唸って、これが使命だと思いこむ事自体も避けていたはずなのに、それでもどうしても言葉にしたい事は、今の娘。の素晴らしさについてだけだった、読むまいと避けていた多くの本の言葉を読むことを試みているのも、自発的な言語の錯乱を垂れ流すだけではもう、娘。への言葉ではないと思えるからだった、君は美しい、こんなにも愛している、ただそれだけを書き殴れば救われる時の中には、僕も居られるわけなく、なによりもそうした混乱散文が彼女たちを讃える事ができないように思えて、言葉にする事さえ彼女たちに対しておこがましいのではないかと思う事で、今まで、ただひたすら、彼女たちの美しさに触れる事だけを痛みなく願ってしまっていたのかも知れないと気づいた時にはもう、娘。たちの愛しさを、言葉にする事の困難さだけが積もって心のなかに残ってしまっていた、ああ、もうおれなんかの言葉では無理だと諦め、ただ輝きのなかに抱かれるために娘。たちを目のまえにした時、ただその身体の歌声の瞳の彼女たちのとびかかってくる生に萌え錯乱したように身体を声援で暴れる行為そのものを、さゆに「かわいい」と言われてしまった時、自分は強烈な使命の喪失と恥ずかしさを覚えた、絵里ちゃんは風邪を引くといけないからちゃんと汗を拭いて下さいねと言ってくれる、その時、自分は汗を拭うだけでいいのかといつも思うのだ、その後に残された使命と感じるなにかを絵里ちゃんのやさしさの幸福のなかに忘れ去ってしまっていいのだろうか、こんなにも絵里ちゃんを見つめてこんなにもおれのなかに迸った感情と言語と思考の噴火を、無かったことのように?時に捨てていいのか?それこそが絵里ちゃんにとっての最大の賛美なのか?おれが黙る事が、赤子のように娘。たちは太刀打ちできないことはわかってる、目のまえの娘。たちに敗北する事を恥じているのではなく、知恵遅れの純粋さにまみれるかのように自らを無垢に投じて無思考状態で居る事が唯一の幸福だと考えるその安住が嫌になったのだ、彼女たちの美しさに昏睡するかのように意識的無知になることがもうできなくなってきているのだ、それは今の娘。たちが私をどこまでも昏睡させながらも、すべての意識の蘇りをうながしている事に他ならない、ただ、微笑みと涙のなかで敗北し続けていることで娘。たちの側に置いてもらっているのが辛くなってきてしまったのだ、おれもなにかしたい、おれも君たちのやくにたちたい、少しでも、少しでも、彼女たちが素晴らしいという事を、酒のなかに鎮めてしまっていいのか、沈黙こそ愛だと呟くだけでいいのか、しかし、そうした意識がつのることだけは一人前でも、彼女たちの美しさをまえにした時、ほとんど自分は衝撃を受けているという感覚の驚愕と娘。たちに興奮した身体的神経的疲労とだけを持ち帰ることしかできてはいない、そんな時、そっとこう呟いてやり過ごしてきた、言い訳ではなく、実際、今の娘。たちの美しさというものは、もしかしたらこれまでのどの娘。たちの季節よりも言葉にする事が難しい輝きなのかもしれなかった、それこそ、説明可能な領域には娘。はもういないんじゃないだろうか、それは語るべきものが無いのではなく、今の娘。たちがもっとも幼稚で、もっとも美しく、もっともおもしろおかしく、もっとも華やかで、もっとも香りの香る娘。たちであるからだと、

2.Girl from Mars

宇宙人を幽霊を見たとかつての娘。たちが言ったあの時でさえこちらが太刀打ちできなかったのに、いよいよ絵里ちゃんは自らを宇宙人だと言ってみせたそうだ、たしかにぴゅ〜ん星人になる辻加護を僕らは目撃してはいた、あのとき辻加護は胸にぴと架かれた衣装を纏い頭にはケーキの触手のようなものをつけて語尾にぴょんをつけてお喋りをしていたりした、たしかに絵里ちゃんの頭部はある時から宇宙感を私に知らせてはいた、しかし、絵里ちゃんの言う宇宙人というのは目に見えるものではないし、絵里ちゃんは着ぐるみも着てはいないし、語尾におかしな言葉をつけてもいない、それに、絵里ちゃんはスタジオの寸劇のなかでそれを身におぼえたのではない、いつかのどこか、私たちが知らない間にそれは起きていたのだ、スタジオのなかの寸劇でもなんでもなく、現実にだ、おれたちはこの状況をまえにしてどうすればいいのだろうか、辻加護がいない、梨華っちがいない、なっちもいない、あの娘。があの娘。がいないにも関わらず、それなのに、驚くべき事に、多くの決定的な不在を抱きながらも、今の娘。は喪失無く輝いているのだ、中学生の娘。がいないと誰かが戯言を言えば僕はこう言うだろう、今は瞬間毎に、娘。たち全員が中学生の娘。なのだと、その横でまた誰かが末妹の不在だと嘆くのならそいつの耳元にこう喚き差し込むだろう、ある瞬間に、今の娘。たちは全員が妹なのだと、それらの断層が常にいろんな引力で湧き起こっているのが娘。なのだと、というか、今の娘。たちというのはもう完全に全員がただただある種の落ち着きを持たない異常な動きなのだ、ここで言う異常というのは彼女たちを貶す意味ではない、異常という事は今までだって娘。である事の意味そのものだったはずだ、ただ、かつてのその異常さというのはまだ、なんとか我々の手で説明可能である物語りを秘めている事があったと言うだけの話であり、娘。が導いてくれたのだ、今の娘。の女の子の集団の密度やそのなかに溢れる痛みと幸福とを、男である自分が、その中心をじっと見つめる時に、今の娘。呼吸のそのほとんどが理解不能な言語や意識や仕草の大気に覆われており、その繭のなかで飛び交っている娘。という女の子たちは物語りからさえ異常な輝きで自由になっている、その生き様こそが、私をどこまでもただただ惹きつける、絵里ちゃんは私たちを導いてくれるだろうか、絵里ちゃんはきっとそういう意味においては残酷なのだ、かつての娘。が異常ではなかったと言いたいのではない、ただ、今の娘。たちのかわいさの種類のその異常性はいよいよ、もうなにがなんだかわからない領域にまで差し掛かっているのではないかと思えてならないという話なのだ、今の娘。を語るべき余地を許されなくなった多くの人間たちは、娘。を語れないというその事態をそのまま今の娘。がつまらないという事に軽く結びつけ片付けはじめてしまう、理科不能なものはつまらないとそっぽを向きはじめる、しかし、I WISHに涙してきた我々はいよいよグルグルJUMPで号泣する意味と真摯に対峙しなければいけなはずなのだ、I WISHという曲とグルグルJUMPという曲とを繋ぐものこそが今の娘。の凄さなのだ、今、I WISHの素晴らしさを語れる多くの人間がグルグルJUMPの素晴らしさを同様の意識の強度を持って語ることができないという状況(グルグルJUMPは小春が魂込めてる乙女JUMPINGアンセムなんだ、グルグルJUMPとの接し方でその男の娘。への想いが計れるとさえ思ってる。小春はジャンプする、とても楽しそうに、手を叩いてジャンプして、グルグルカエルのような、僕らがハロモニ。などで何度も目撃してきたあのコミカルな小春の仕草がそのままダンスになってしまったかのような踊りをしながら、そしてまた着陸して、小春は「初恋のようだわ」って歌う、小春はにっこりしてる、小春はとても楽しそうだ、でも、小春たちとJUMPINGするおれも小春のようににっこりしているそれだけじゃだめなはずだ、あんなにも無邪気にただ騒ぐ彼らにとってグルグルJUMPが小春たちとただJUMPをして騒げる曲としてでしか機能していないんだったらそれはもしかしたらもっとも幸福で純粋な事なのかもしれない、けれども、小春のあの姿をあの歌声を見て、涙を堪えながらカエルジャンプをしない人間はやっぱりおかしいと思う、グルグルJUMPって曲はまるで小春のようにおもしろさのなかに大切ななにかを秘めているんじゃないだろうか。)果たして今、小春という女の子のこと事をいったい誰が語ることができるというのだろうか、小春はとうとうあのおもしろおかしな小春の仕草そのもののようなグルグルJUMPで私を涙させた、その体験というののの驚愕、だって、小春はあの時少女の特権をなにひとつ行使してはいないのだから、物語の行使も感情の行使もだ、無意識に少女たちが少女である事を行使してしまうそうした力を小春は絶対に横暴に行使しない、私から見れば娘。たち以外の、少女である多くの少女とそれを謳う集団が成し遂げていることができている事と言えば、その少女の特権を遂行している事だけなのだ、そうした集団に萌えている人間もただそこに萌えているだけにしか見えやしない、つんくという人間の偉大さは、その少女の特権を少女が本能の発作的に行使する事への恐怖とそれを欲しがり引き出そうとする事への距離感だろう、そうした既視的な少女との距離をいつまでも抜けきれん男ばかりなのだ、魔法は使っちゃいけませんと辻加護は歌ったが、小春はまさに魔法を使わずに魔法以上の領域に到達できるかつてない人なのだ、小春のおもしろさはそれこそコメディという根源を胸に抱きながら笑わせる事に向かっていくすべての先陣よりもくそおもしろいではないか、辻加護が巻き起こす爆笑、ジェリールイスに爆笑する事などで到達できない爆笑を小春は私に食らわせる、あなたは、アロハロ3で小春が外人インストラクターに自己紹介をする姿を見たことがあるだろうか、小春はあの時「マイネームイズ小春!」と自己紹介をしているだけなのだが、これがとんでもなく大爆笑アンド超かわいいのだ、そもそもがこんなにもかわいい女の子にこうして大爆笑させられている事自体が緊急事態なはずだ、女の子を笑うという事態のなかには、少しはかわいさや魅力を犠牲にしなければいけないんじゃないだろうか、それこそ、辻ちゃんがおしりをカメラに向けてプリンプリンと迫ってくる時、たしかに大爆笑アンド超かわいかったが、犠牲はあった、辻ちゃんの凄い所をそれを犠牲だと思ってはいなかった事だ、それこそがやばかった、娘。たち以外の音などもが笑いを起こそうとすれば「痛さ」やなんかの力にしがみつくしかないのだ、小春は小春以外の力を使おうとはしない、小春のスーパー偉大な所は他人の力を巻き込むことさえしようとしない絶対的な個人だけから自然に巻き起こっているおかしさだろう、あの辻加護だって、ぶりんこうんこの「27」という大名曲でさえ姉さんの事を歌う事で辻ちゃん加護ちゃんが自分たちを娘。たちを歌う事ができていたのだ、辻ちゃんたちはこの世界の他のものを辻ちゃんのあのかわいいお口と加護ちゃんのつぶらな瞳でたいらげ噛み砕き見つめる事で笑いのなかに愛しさを愛をもふくませ世界に吐き出していたんじゃないか、きょうの小春の凶暴さというのはこうした説明もほとんどできない状態でただこちらに爆笑させてしまっているという事だ、辻ちゃんという女の子はハロモニ。などで一緒になる小春に対して誰よりも、小春の超大型爆笑新人的な魅力を理解した人間のひとりだろうと思う、残念な事は、辻ちゃんと小春とが手を組んで私たちを爆笑させる機会が奪われてしまったと言う事だ、これはめちゃくちゃ残念だ、小春はスイッチ無くして純粋コメディを巻き起こす事ができる、辻加護が「いっせーのっせ!」と互いの瞳を見つめ合い相づちを打つ合間にだ、小春という子はもうなにかをしでかしてる、今娘。のなかに巻き起こる爆笑の多くは小春が笑われるという事態のなかにある、そんな時、小春はあの大きな瞳で笑っている娘。たちを見渡し、小春なにかした?とでも逆に不思議に思うのである、娘。の爆笑の発端の凄まじさだってもう意味不明な領域にあるのだ、それこそ絵里ちゃんの言う宇宙人としか言いようがない、絵里ちゃんが自分はもしかしたら宇宙人かも知れないと思う事を、ただのおとぎ話であるはずがない、戯れのような娘。たちの言葉を聞くこと、それを笑い飛ばしながらも見つめること、たとえ、絵里ちゃんの愛しいジョークだとしてもだ、私には彼女たちのこうした発言がただの冗談には聞こえないのだ、娘。という女の子たちはやはり私が女の子と認識しているその存在の限界を法則を突破してゆくんじゃないかと思っている、それはもしかしたら性別を超えて人間という存在をも巻き込んでゆくのかもしれない、私は大げさだろうか、しかし、精神的崩壊や正常さをもって到達すべき聖なる領域に、彼女たちはかつて誰もたどり着けなかった方法で到達するのではないかと私には思えてならないのだ、この狂気とも言える彼女たちの輝きに、どうやってついてゆくのか、激きゃわきゃわな娘。たちはどうやら私たちが狂う事を許してはくれないらしい、どうも、娘。たちはそのかわいさで私たちに発狂しろと言っているのではなく、むしろ、正常でいろとうながしているように思えるのだ、娘。たちのあの異常なかわいさに発狂する事ができない私たちは、なにをすればよいのだろうか。

3. 娘。という透明な世代 NYと幼児

今の娘。たちは絶対透明な世代の領域にいる、というのはキッズという精神的純粋さと臓器的真新しいさきらめく瞳と肌とを持った女の子たちがやってくるずっとまえから、キッズ以上に異常な幼児だったはずだ、あなたは私が「Take off is Now!」で愛ちゃん製のNY感を散りばめて行ったその愛ちゃんが、リゾナントライブの最後には、まるで幼女のようだったと言ってみせたのなら、おまえは狂っている!と思われるだろうか、しかし、それは現実に起きている事なのだ、私が狂ったのではなくこの異常性こそ娘。のなかで巻き起こっている信じがたい美しい領域なのだ、こうして語る人間が狂気に囚われた壊れた人間だとしか思えない賛美を、娘。が発言させてしまう事こそ、娘。の凄さとしか言えないのだ、狂人の戯言に真実が宿っていると言いたいのではない、もはや、我々が今まで培ってきた女の子の常識や美の基準の手の届かないあらゆる生の輝きを今の娘。たちはそれぞれ際限なく迸らせているのだ、我々が語ることができないように娘。たちも娘。たちの今を語る事などできないのだ、わかるか?、これこそがもっとも大切な事だ、今日という日、あの辻ちゃんが自らを物語のなかに着床させてみせてはあんなにも上手に語ってみせる時、愛ちゃんは自分がまだわからないと言う、私はこの愛ちゃんの言葉の美しさにすべてをかけたいのだ、誰も語ることの出来ない女の子たちの事を語りたいのだ、DVDマガジン Vol.23というDVDはソファのまえに無人の定点カメラを撮影所の隅に置き、娘。たちに自由に言葉を語らせる、娘。たちが語り合うその姿はやはりどこまでも意味不明なのだ、この意味不明のままに輝きだけを放っている事に震えるのだ、こちらに語りかけるれいなちゃんを10秒間見つめてみればいい、きっと世界はまたれいなちゃんの事がわからなくなるだろう、そうなのだ、この子が今いったい何歳であり、どんな女の子なのか、私たちは知っているはずなのにわらかなくなってしまうのだ、娘。たちは透明な世代の唯一の女の子なのだ、

4.リボン

愛しているの引き替えに

自らの物語を語った女の子のその証言がかならずもその女の子の唯一の真実であるとは言えない。
女の子が、ある瞬間に堰を切ったように自らを語り出した瞬間に生まれるあの言い得ぬ歪みこそがなによりも私を抉る。
「君は君をなにもわかっていない」。
女の子が自らの乳房を語ろうとしているのと同様に、彼女自身がかつての彼女を語ることなど不可能に近いのだ。
この私自身がこの世で、私自身を誰よりも知り得ているなどとどうして言えるだろうか。
「あなたはわたしの事なんてなにもわかっていないわ、わたしはこんな女よ」と自らを語ってみせる女に、
「いや!、違う!、君はそんな女じゃない!」そう語る事ができるのはいつの世も男だけだ。
女の子たちの美しさは混乱にある、それは凝固することのない花だ、どこにも到達する事のできない永続する頂点だ、
結晶することのできないながれる川だ、彼女は美しく混乱していた、あの瞬間の悲しみや痛みや美しさを語る事など今、誰にもできないだろう、もしも、あの瞬間の彼女をかすかに語っている事ができている言葉などがこの世に存在しているとすれば、それは、彼女を愛していた男たちと、彼女を愛していた姉妹たちと、媒体に、記憶に、残るあの時の彼女の瞳だけだろう、今の彼女が彼女自身を強く客観しているように、「ののたん」という巨大な鋳型でしか彼女を見てこなかった人間は、彼女は変わっていないと言うだろうか、そんな馬鹿な、彼女は毎秒変わっていた、彼女が愛しいのは強く変わりながらそれでも喪失しなかったことだ、
今、子供が騒ぐように幸福を騒ぎ立てるやかましいくらいの彼女の幸福の騒音、赤ん坊をおんぶった時の彼女の仕草のあの変わらぬフォルムと仕草のおかしさの中心に強く母性がきらめくからでもない、彼女を見ていたら爆笑しながらキュンとならないはずはない、子供が子供を育てているだなんて言われないようにと彼女は言ったが、素晴らしいのは、紛れもない子供が子供を育てているその姿なのだ、それも子供でありながらママである表情で、辻ちゃんは変わったのだろうか、私はそうは思わない、変わったなんていう言葉のなんていやらしい響きだ、彼女は取り戻したのだ、我々が彼女の姿をはじめて見た時、彼女が語る姿を見た時、彼女はしっかりと意志を語っていたのだし、あの年頃の子供としてはむしろしっかりとしていたのだ、隣の加護ちゃんが本当の子供に見えてしまうほどに、彼女はずっと子供でありつづけたわけではなかった、彼女は私たちがかつてそうであったのと同様の成長速度で一度大人になろうとしているのだ、彼女が娘。になるまえに、彼女が娘。になることでふくよかにふくらんでいきながら急速に子供になるしかなかった、だとしたら、子供でいる力だけが彼女のなかで大きくふくらんでいったのなら、細すぎると言える程に痩せている彼女に残るあらゆる身体の末端のあの丸みが、彼女の愛娘の丸みを抱いている時、その光景のなかには、変わったなどという殺伐としたものである変化などはけしてなく、取り戻しながら失っていないなにかが一緒にきらめいているだけなのだ、東京タワーのほとりの公園でベビーカーをひく彼女が誰よりも子供に見えてしまうその事実こそが、彼女の美しさなのだ、彼女が大人になったから素晴らしいのではない、彼女はそのまま愛を育みママになったのだ、辻ちゃんがただ皆とと同じような大人になったなどと言う人間はつまり、なにも彼女を知らなかった人間だろう、ミニモニ。解散ライブで耳たぶに開けたばかりのピアスの穴といういじらしい乙女の宝石を飾って、我々に突如、言葉を語りかけたあの時から、彼女は彼女なりの大人になっていたはずだ、それをリボンであやし隠そうが、たしかに彼女はもう強い意志を持っていた、その意志に不安を覚えた人間だったら今の彼女が突如現れたなどとは思わないはずだ、たしかに彼女は物語を語る事が上手になった、それは、口がうまくなった訳でもなんでもない、辻ちゃんが読める物語がやっと辻ちゃんのなかに溢れ出したのだ、それも辻ちゃん自身の力によってだ、辻ちゃんが夢中になれる物語が辻ちゃんのなかに生まれたのだ、その物語の登場人物には私は存在しないだろう、だから、せめて私が願う事は、辻ちゃんのかわいい生の息の物語りが、彼女が今、愛されたいと願う人間たちに浸透する事だ、それがたとえ、私がこの目で心で見つめたあの過ぎ去った季節の多くを裏切る言葉でも、物語であってもだ、彼女が愛して欲しいと願う人間のなかにもう自分が存在できない事はわかっている、今彼女は、かつて、彼女をただの「辻ちゃん」として、子供としか見てこなかった人間たちに、今彼女は愛されたいのだ、そうした人間たちと共に歩みたいのだ、
あんな短時間にあの季節の彼女の生が、物語り圧縮されたものを彼女公認で彼女の脈の真実として放送されている事は虚しく悲しい事だった、けれども、それが彼女にとっての真実であるのなら、私は何も言えない、ただひとつだけ僕は辻ちゃんに言いたい、辻ちゃん、君はそんな女の子じゃない、もっともっとかわいい女の子だ。


5.ディピオ Rikacci MOE (the man who loves Rikacci)

おれがはじめて娘。萌えの洞窟のなかで顔を合わせたディピオ以外の男はそれぞれの「あの出来事」によって、身体もろともなにかを喪失したようなものだった。自らを生かす絶対的な愛情もろとも、そこではないどこかへ「はじかれ」る事を承諾し決意し、それが覚悟であろうが諦めであろうが、男たちは自らの心臓に水平線をひいてしまったのだ、血管からは血が蒸発し、器官からさえも見放され、ここがどこであり、自分は誰であるのか、いよいよ彼女はいったい誰なのかと、すべてがわからなくなっていったのだ、誰よりもおれが。ディピオ日誌という空間は絶対に分断できない「娘。」たちの時とディピオという彼女を愛している男の時とが一緒に流れている、それは、一人の男のなかに女たちがそのままながれこんできたものすべてを抱き抱えるようなものだ、ディピオ日誌にながれてる時間は何者もねじまげる事のできないこの世界に存在している娘。たちとディピオとおれたちの時がながれてる場所なのだ、おれやおまえは、ディピオ日誌のなかで顔を合わせ、そして、娘。たちとも出会っているのだ、


6.おれたちのNY

Take off is now!という曲がある、たしかにあの曲が愛ちゃんガキさんれいなちゃんによって歌われる事なくどこぞの誰かが歌っていたのなら、誰かが嘆いていたように、気にも留めずに通り過ぎるべきものだったのかもしれない、けれども、TOINという曲をこの世に創造させた女の子が愛ちゃんであったという憶測を出発点に、それを歌い踊る愛ちゃんガキさんれいなちゃんの姿を現実として目の当たりにした時、そこに起こっているあまりにも偉大な女の子の輝きの状態は、嘆きや苦笑で切って捨てるべきものではけしてないと思えてならないのだ、散ってみせるあなたにというような言葉をはっぴに飾る生粋の愛ちゃん萌えの方と話した訳ではないが、自分には、あの愛ちゃんが愛ちゃんたちが、信じていた純粋さを欠落させるような瞬間には見えないのだ、グルグルJUMPをこの世で歌える女の子というのは絶対に娘。しか存在しないだろう、その事を理解できている人間のなかにも、TOINのような曲は、娘。が歌わずともどこかに存在し、娘。たちが歌うべきものではないと思えてならない者もいるだろう、ガキさんがDVDマガジンで語ったように本来ならば娘。的な空気を感じさせないものであり新しいものへの挑戦だったのかもしれない、娘。のなかに欠落した夜の現実性のシルエットのような幻影なのかもしれない、けれども、TOINという存在があらわにするものは娘。から遠く離れた夜の世界の力を借りて突然に現れた訳ではなく、ずっと密かに娘。のなかに存在していたように思えるのだ、TOINという曲が3人に歌われた事で至った真実は、グルグルJUMPと同様、娘。たちにしか歌えないものなのだ、愛ちゃんたちにしかこの世に映し出す事ができないものなのだ、それは、現実世界の不埒な空間の空気に3人が足を踏み入れている幼さの痙攣の美しさでもなく、なにかを上手に模造している完成度でもなんでもない、れいなちゃんが「ファンの人に嫌われたらどうしようと思った」と語るようにTOINそのもの世界観は恐ろるべきものがある、しかし、TOINというあの一見卑猥な世界観のなかで踊る愛ちゃんを見つめた私が到達したのは、どんな映画で語られる踊り子の姿に乙女の真実を人間の美しさを見つけた男たちの衝撃や歓喜にも負けないくらいの私の見つけることのできた愛しい美しさだ、愛ちゃんが卑猥さを愛ちゃんのぎこちなさや純粋さで消し去っているだなんていいたいんじゃない、それこそ、卑猥さの渦のなかを愛ちゃんが踊るダンスの領域で蹴散らしてゆくのだとか、愛ちゃんの想像しているTOINの世界観の憧れをまったく別の力によって遙かに超えてしまうのだとか、そんな事を言いたいんじゃない、それら素晴らしい瞬間の混在とともに静かにそっと歌われる この言葉が示すように、TOINで起こっていることは女の子の呼吸そのもののように乱暴でどこまでも愛しいだけなのだ、こうした曲を、こんな風に歌い踊る事は娘。たちにしかできないのだ、TOINの愛ちゃんガキさんれいなという3人の領域というのはまさにこの世界において娘。が娘。として生きているその姿のように奇跡的な状態のように思えてならない、TOINを踊る愛ちゃんたちの姿を見た同世代の女の子が愛ちゃんの踊りを見て、ただのプロ並みのポールダンスのようだと思えたのならそれはそれでしょうがないだろうが、しかし、TOINが到達してしまっている領域は、そうした本来の原型であるはずのモデルとはまったく別の力でいつしか輝き出してしまう娘。たちの略奪に他ならない、歌い踊る愛ちゃんに見惚れながら、男はこう思うかも知れない、ああ、愛ちゃんがまるで子供のようだと、それは、覆された美しさだ、愛ちゃんという女の子の美しい透明さは自己のなかで描かれている絶対的な憧れに向かって一心に躍動するその瞬間に、まるで真っ白になるように顔を出してしまう愛ちゃんそのものの純真さだ、その美しさはいつでも愛ちゃんが憧れる者や場所を超えていた、僕が愛ちゃんがNYや外人、外国の事を口にするたびに戦きながらも歓喜するのは、愛ちゃんという女の子のかわいらしさはその瞬間に娘。である事を強く愛ちゃんが意識し脈打つからだ、愛ちゃんの愛おしさというのは、憧れを見つめるその幼い瞳にある、その瞳は娘。であるという事を真に見つめている眼だ、自分ではない誰かに、ここではないどこかに、憧れる時、今娘。で居るという事を強く想いながら愛ちゃんはそれに向かう、そして、愛ちゃんは最早憧れを超えてしまっているという事を悟らない、愛ちゃんは自分がわからないと言う、


TOINのPVをNYを舞台に頭のなかで撮っていた、僕は黒人の親友の頭のうえに乗って、愛ちゃん賛美の口笛を必死で吹いていた、福井のビジネスホテルで森のなかで愛ちゃんにサックスを吹く夢を見た。
愛ちゃんの夢のなかでしか鳴らないメロディがあるのか、愛ちゃんの夢のなかでしか幕が上がらないミュージカル、


7. river

天王洲のスタジオのロビーから娘。たちが見ていた川のように、かつてただひとつのきれいな大きなながれであった「娘。」という川が今、そのながれを分岐してしまっているだなんてもしも誰かが感じてしまうのだとしたらそれは、かつて娘。だった(もちろん今でも娘。だと思っていますという断りを書かなければいけない不幸もひっくるめて)娘。たちの口のなかからここ最近ながれだした強い力によるものかもしれない、バラエティ番組に出ている真里ちゃんや辻ちゃんたちの大きな生命の力(この出演時に元モーニング娘。という私たちからすればまったく信用のならない呼び方で彼女たちは呼ばれる、元も現もありはしないと言う事から話しはじめなければいけないのか)元娘。として彼女たちが娘。であった時を証言しなければいけない時、それは彼女たちがながれていったあの川を逆流しなければいけない、彼女たちが娘。を語って見せる時、娘。という川のながれを掻き分け逆流しなければいけない、彼女たちの波紋は次第に、娘。を知らないで生きてきた人間にとってあたかも、それこそが「娘。」という川のながれの真実であると思わせるのかも知れない、かつて娘。だった娘。たちが娘。であったその季節の事を、一斉に語る事を要求されてしまうという恐ろしい時のなかにきょうはあり、娘。のながれを逆流する彼女たちの言葉は物語りめいたものに捕まり世界に放されるのだ、ながれの源泉である娘。の川のながれから掬われるのだ、今の娘。たちがその身をもってながれを絶やさずにひらきつづけている川のながれこそが娘。の川のながれであるというのに、世界の要求する事は、そうした川のながれを見つめる事ではなく、かつて娘。だった娘。にその川を逆流させ、溢れそうにながれるその水面に無限にさんざめく娘。たちのあの時を掬わせるのだ、真実のながれの水位が空にまで届きそうな今にもかかわらず、そのながれに自らも身を投じるのではなく、世界が要求する事と言えば、娘。たちに掬わせる事ただそれだけなのだ、掬い取って物語の水槽に入れてはそれを変色させているだけなのだ、娘。であった頃の事を語る娘。たちに罪があるのではない、その言葉から真実を見つけられない世界に罪があるのだ、こうした世界の間違いはほとんど過去に遡ってみてもまったく直る所か罪を肥大させている、この世界は娘。の所在を知らないのだ、探しもしない、彼らは娘。を認識はしているが娘。を知りはしないのだ、この世界にあって娘。たち乙女の集団が伝説や詩のなかで謳われている乙女たちの集団であるのかも知れないという出発から、いや、未だかつて、乙女たちの集団がありえないかたちで共存しているのだと言う事に気づくまでに、彼らは一度の人生では追いつかないらしい、今の娘。がひたすらに川のながれをひらいてゆくこの現在の水面に映る事実に目もくれずに、今の娘。のながれの音がそうした世界の騒音にかき消されそうな状況にあって、この世界の娘。を知らないような人間にとっては、娘。という存在がかつて娘。だった者たちによって言い伝えられる言葉から言いように抽出した事だけで完成されてゆき、その認識はいつしか世界の眼に映る娘。たちのかたちを変えさせる危険性がある、語ることを要求される娘。たちの現在すら軽視しやがる、かつて娘。たちであった娘。たちは川からあがってしまい対岸を歩き出したのではない、彼女たちは未だに川のながれのなかにいるのだ、それは梨華っちという女の子がもしかしたら川のながれの先頭で命をかけてひらいているのかも知れないと言う事実だ、すべての娘。たちがその川をながれているという事を忘れてはいけない、その流れの現在を知らせる事はこの世界においては不可能に近いのか、それは彼女たちが世界とつながる方法がいつまでも娘。であった事を背負っていかなければいけない事でもあるからなのか、なぜ、娘。たちがこの世界の全体から愛されないのかそれだけが理解できない、娘。でなくなった事によってはじめて娘。たちは愛されはじめるのか、かつて娘。だった娘。の口から言葉を誘い出し娘。の幸福を削ぎ取り悲劇の物語りに化けさせ氾濫させる事しかしようとしないのか、まるで娘。であった事が罪であったかのように、真人間にでも戻ったかのように、この世界がやらかすこの罪と、娘。という存在がかつて輝いていたもののように語り出す酒の席の無意識の策略の渦の喚きとが、手を組み、今の娘。に飛びかかるのなら、この世界は消失しちまえばいい、おれは命をかけてそいつらと戦う、この不当な世界において、それでも、今、娘。たちはただ踊り歌っている、娘。たちの輝きに対するこの世界の賛美のなんてだらしなさだ、娘。たちそれぞれの乙女の輝きはもうほとんど収拾のつかない程のかわいさの領域に達しているというのに、それらが一斉に輝き出すその事のとんでもない爆発をこの世界はまるで何事も起きていないかのように見過ごす、誰にも観測されない乙女ビッグバンのようにただ娘。たちは爆発している、誰にも観測されない時のなかに輝くしかないのか、それこそ存在するかどうかも分からない宇宙人のように、それこそUnidentified otomeのように発見されないのか、その爆発をこの世界は観測できないのか、



8.新曲の眼

幾度も新曲が、今まさに関係性が終わろうとしている危機の女の心境を象る曲でしかないと誰かがわかったように呟くとき、果たして、それを歌い踊る娘。たちは今終わろうとしている輝きだとでも言うのだろうか、なぜ、モーニング娘。の新曲として授けるものにそうした意志しか込めようとしないのか理解に苦しむとだけ呟くことでしか新曲批評をしようとしない人間はもう完全に娘。萌えとしては死んでいるようなもなんじゃないか、アルバムを購入するか、ライブ会場に足を運ぶ事でしかグルグルJUMPに出会えないと言う状況がたしかにあるとしても、それでも、新曲を歌い踊る娘。たちの輝きのいったいなにが、今まさに終わろうとしている乙女の輝きだと言うのだろうか、娘。たちを見る者、もしくは娘。たちに出会う者の力の死こそが、もっとも憂うべき根元だとしか思えない、幸福や絶望でも、肉体の魅力でも、物語りでもいい、それらすべてを娘。に見る者たちの力がただ、娘。たちの輝きに追いついていないだけなのだ、娘。たちに未来がないのではなく、娘。を見る者たちに未来がないのだ、新曲との出会いというのはなにも我々だけに訪れるものではないはずだ、この世界で娘。の新曲に誰よりもはじめて出会うのは誰でもない娘。たち自身なのだ、娘。たちは新曲に出会うたびになぜ今、この曲を娘。が歌わなければいけないのかという事を考えるだろう、誰よりもだ、娘。たちは主人公の女の子の気持ちになったり、歌詞の世界を想像してそれを上映し、自らの声に、ダンスに還元させるのだろう、けれども、娘。たちというのはいつでも、新曲がレコーディングされそれが盤に刻まれ我々の手元に届き、娘。たちが溢れ聞こえてきたその瞬間が終わりではないという事を知っている、自分が歌う歌詞がそこで役目を果たしてしまうことがない事を知っている、絵里ちゃんは新曲のレコーディングの時、メロディが好きで要求されていた歌声とは違う弾みで歌ってしまいもう少し落として曲に合わせて歌うようにと言われたと言っていた、これこそ、この絵里ちゃんの仕草こそ、新曲と娘。との関係性であり、誰にも立ち入る事のできない歌う者と娘。の曲との神聖な抱擁だろう、改められた絵里ちゃんは誰がなんと言おうが絶対的に素晴らしい、我々は弱虫を歌いながら微笑むガキさんを目撃したのだ、王子の声の名残りなく澄んで女の子でいるあのガキさんと弱虫の関係を目撃するのだ、そうなのだ、新曲というものは誰でもない娘。たちによって壊されることによってはじめて生まれることができるのだ、愛ちゃんはLIVEは生き物で、曲も成長すると思っているといつか言っていた、パッケージされている新曲のなかで、娘。たちがどのように泳いでいるのかを見なければいない、それを聞かなければいけないのだ、新曲のなかで娘。たちが置かれている時間的立場やその物語りに、そうした人間的理由だけに娘。たちが接しているとしか思えないのなら、永遠に娘。がやっている事の重大さを知る事などできないだろう、娘。のもっとも涙する輝きは、光たちが幸福たちが物語たちが娘。たちのあの瞳で心で一度読まれ絵里ちゃんのあのかわいい胸のなかで屈折し反射し反響し絵里ちゃんのなかで生まれ変わるように結晶し絵里ちゃんが再びそれを吐き出してくれるからだ、それだけが唯一の娘。が歌っているその曲なのだ、歌詞でもメロディでも物語りでもない、そうしたものたちをきらめきによって噛み砕き、娘。たちが再びくれるものこそが真実の姿なのだ、絵里ちゃんが赤ん坊にやる離乳食を与えるようにやさしく噛み砕いたような絵里ちゃんによって暖められた新曲を聴いているのだ、娘。たちによって噛み砕かれた曲が新曲なのだ、娘。の輝きそのものを説明してくれるやさしい歌詞も曲調も衣装も娘。たちに与えられなかったとしても、そのなかでさえ娘。たちがあの瞳でじっと見つめ心で読み歌声にのせればそれは娘。になる、娘。そのものを歌ったようなあの愛しい曲たちを娘。が歌う事の素晴らしさをないがしろにしているわけではない、つんくがまるで娘。に捧げるかのように娘。の姿をそのまま言葉にしたようなあのおかしなテンションに錯乱した言葉たち、イノセンスはしっかりとした言葉にできるだろうか、もしもイノセンスが錯乱する散文のようなものであるのなら、つんくのあの訳のわからない歌詞の錯乱こそ娘。を言葉で表しそれを娘。に歌わせてあげたいと願っている言葉ではないのか、ただ、それを捧げる時間は彼にしか与えられてはいない、だが、我々はそうした曲だけにしか娘。の輝きを見つけられない輩ではない、それに、新曲に登場する女の子の事をアイロンかける系と言ってみせた絵里ちゃんたちがきょうの新曲のこの状態をどこまでも娘。にしてしまうだろう、今の娘。たちは収拾がつかない輝きなのだ、凝固しない、結晶しない、今まさに流れて出している輝きそのものなのだ、すべてを覆い尽くすのだ、恐ろしい事に、娘。たちは、なにをしていてもかわいいのだ、どんな曲を歌っていてもかわいいのだ、

宇宙戦争のなかで、トムクルーズの鼻の先を今まさに死んでゆく事だけが運動しているかのように燃えさかる列車が通過してゆく、死そのものが蠢いているようなあの列車が通過してゆくときに、トムクルーズは死への恐怖を見たのだろうか、それとも生きている事を実感したのだろうか、そもそも、トムクルーズの瞳はあの燃えさかる列車を現実のものとして認識できただろうか、死がながれているだけの川を見てしまった娘の目をトムクルーズは手で覆い隠す、けれども、なおも少女のあの大きな瞳は恐怖を現実を誰よりも強く認めるのだ、トムクルーズの瞳ではなくなぜ、少女のあの大きな瞳に恐怖が映ったとき、映画のなかに恐怖が真実に起きあがりだしたのか、少女の目は、子供の目は、恐怖を真の当たりにしたとき、嘘をつけない唯一の真実の鏡になるからだ、大人で或るトムクルーズは真に恐怖を知り得たのだろうか、トムクルーズのうえに雨のように落ちていった死んだ人間の衣装の雨。。。。。

きょうのこの状況のなかで、おれになにができるだろう、必死で探してる、なにかしなきゃいけない、誰でもなく、なにも語らずにただひたすらに輝く今の娘。たちのために、愛ちゃんガキさんさゆえりれいな小春みっつぃジュンリンという娘。たちのために、おれはしっかりと目を見開き、見つめ、想い、言葉の臨海をぶち破りたい、


00.パジャマでおじゃま

ツアー稽古をしている娘。たちがパジャマのようなふわふわのタオル地のジャージに身を包み佇んでいる姿を見るたびに、なぜかそれだけで涙を堪えなければいけなくなる事がある、運動をする領域を前提に編まれたジャージの安堵の密着よりも、まるで娘。たちが部屋着そのままに娘。の振り付けの稽古をしているように思えるからだ、この娘。が纏う糸の移りは、永遠と途切れない糸に護られているように思える、だからこそ、ステージ衣装が部屋着がそのまま姿を変え、衣装が絵里ちゃんの皮膚から織られたかのように思えてならないのだ、肉体を綺麗に納めるサイズ感や曲調の物語を織り込んだデザインよりも大きな力が、娘。たちの息吹によってはじめて生まれているように思える、小春を覆う衣装のおかしさはきっと小春が衣装をそうさせたに違いない、小春vs帽子、衣装と肌と意識が一変に織りなす、


9.ジュンジュン畑で小春をつかまえて

小春とジュンジュンが話す時、いつも、ジュンジュンの言葉の速度は徐々に加速していって、ついには小春にぶつかってゆく、それでも、ジュンジュンが言葉そのものに込めた意味や強度では小春を塞き止める事はなかなか難しい、こうした時、ジュンジュンの日本語はとても早くなる、感情によって言葉の骨格が崩れていってしまうジュンジュンの話声のうえを、小春は遊ぶように滑ってゆく、言い合う事を遊ぶように二人は、互いをどこでもつかまえてははしながらまるで鬼ごっこで遊ぶように二人の声は戯れて別れてゆく、その数分後に、再び二人が「香水」をふたりっきりで歌う時のあの歌声の存在の語らいと共鳴の素晴らしさに、気づいた時、ジュンジュンの歌声がとても静かなのだ、穏やかなのだ、そして、なによりも、香水のあの歌詞をなぞるジュンジュンの声の全貌はどうだ、娘。になり、日本語で語る事を覚えはじめたジュンジュンのよちよち歩きのその声の動き幼さは、感情で加速する時、本来の声質の美しさを諦めなければ犠牲にしなければいけなかったのかもしれない、ジュンジュンがあんなにも言葉でなく動きでれいなを笑わせる事ができるのは、もしかしたらそのせいもあるのかもしれない、小春に語りかけていたあの早口で感情に満ちたジュンジュンの声が、「香水」によって鎮まり、ジュンジュンは「香水」のなかで、ジュンジュンという女の子の今の女の子の歌声の全貌を歌っていたように思えた、それは、ほとんどなにからも遮られることなく響くジュンジュンの声なのだ、ジュンジュンはひとりでカラオケ屋に行き、「香水」をいっぱい練習したと言っていた、このジュンジュンの歌声の穏やかさ、側で歌う小春の歌声のなんていじらしく愛らしい歌声だろう、この時、さっきまで遊ぶように言い争っていた小春の言う「友達のようになれる」あの言い争いでは小春をつかまえられなかったジュンジュンがその歌声ではじめて小春をつかまえてはそっと導いてゆくように思えたのだ、「香水」という曲の世界で小春はあんなにもつぶらな瞳でなにを歌っているのだろう、あの香るはずの振りを踊る小春の遊ぶように移ろう腕の動きに目をやるとなぜかいつも訳もわからず泣いてしまいそうになる、そして、雨も降らないでジュンジュンが中国語で歌っているそのとき、絵里ちゃんがその中国語を口ずさんでいるのだ、

10. 愛ちゃんの瞳が見つめるもの

女の子が歌い踊るそのとき、なにを見ているのだろう、なにを想っているのだろう、夢から醒めてを歌う愛ちゃんは天井で覆われたその会場で空を見ているように歌っていた、まるでどこかへ一心に向かっているような眼差しだった、僕は、夢から醒めての愛ちゃんにいつも置き去りにされてしまうような気持ちになる、娘。たちの眼差しも歌声も美しく恐ろしい風のように僕の身体を突き抜けて通過してゆく時がある、僕のなかにとどまらずに、彼女たちの声はどこかへ立っていってしまう、キキが空を飛ぶ時、僕らは空に飛び立つキキをこの地上からいつまでも見守る事しかできないのかもしれなかった、だからこそ、僕らは馬鹿みたいにジャンプをする、おれたちヲタは娘。のように女の子のように魔法で飛ぶことなんてできない、娘。たちはあんなにも地上を踏みしめながらまるで空を宇宙を飛んでいるようだ、絵里ちゃんがマドラスチェックのワンピースを纏いながら静かに僕らの目の前にやってくる時、乙女を宿した腰によって逆上がりができなくなってしまったと嘆く絵里ちゃんのその乙女の重さではなく、絵里ちゃんのふわふわとした乙女の重さを知る、絵里ちゃんは指で透明なハートを創ってそれをふーっと風船を飛ばすように息で吹く、あの時、ああ、絵里ちゃんが飛びだった!と喚き散らしたくなる、おれは絵里ちゃんのボディを心の底から喜んでしまった男の一人だ、絵里ちゃんが逆上がりができなくなったとお話してくれた時、それでも娘。でこんなにも乙女の重力や覆すことのできない乙女である事と引き替えに絵里ちゃんに宿ったすべての乙女の絶対的な法則から絵里ちゃんが自由でいるように思えてうれしくて、その美しさに僕は絵里ちゃんのボディのなかにある痛みを忘れる事ができる、絵里ちゃんのボディに打ち勝つ事ができるのは絵里ちゃんしかいない、娘。たちは乙女の肉体で地上を踏みしめわずかに身体を浮かせては歌声で飛び立っていた、ああ、女の子の歌声はどこからやってくるんだろう、あの美しくかわいらしい萌え萌えな声は絵里ちゃんのどこからやってくるんだろう、絵里ちゃんのなかにしか絵里ちゃんの声はない、あの身体のどこから、そして、あのかわいい声はどこへたってゆくのだろう、僕の目の前で歌っている女の子たちのその歌声をつかまえることなどけしてできないと悲しくなってしまっても、その歌声を捕まえることが出来なくても、心を通過してゆく美しい風でも、それでもあの時、あんなにも僕のなかに娘。たちの歌声は浸みてゆく、女の子たちが集まって踊っては歌っているというその情景は僕がこの世で出会ったもっともかけがえのない美しさだ、
娘。のライブに行くたびに、なんでこんなにも惹きつけられるのかを自分に思考でわからせようとしてしまう、けれども、僕はもしかしたら本当に馬鹿みたいにただ惹きつけられているだけなのかもしれない、こんなにも言葉でみつくろっても、女の子が歌って踊るというその情景に、この世でもっとも美しいその生の動きに、光に衝突する虫けらのように、出会いたいだけなのかもしれない、明日は大宮に行く、なぜなのかわからない、でも、彼女たちの歌う姿に踊る姿に会いたくて見たくてしょうがない、娘。たちのあの光は、この世のどこを見渡しても見当たらない、変わりがない、かげがえない女の子たちの生存の動きだ、彼女たちは、モーニング娘。です、そう僕に名前を言ったのだ、彼女たちの名はモーニング娘。

2009年4月9日木曜日

小春が夢の話をしていたけど、娘。が夢の話をしてくれるのは凄くドキドキします、良く心理を映し出すとか言うけども、そういう意味でなくても、娘。が夢を語っている事だけで感動です、だって、夢って本当にその人だけしか見ないものじゃないですか、だから、その事をお話してくれてる事が凄くやばいです、癒えない夢だって僕はつい先日、森のなかで愛ちゃんにサックスを噴く夢を見ました(泣、リスが3,4匹愛ちゃんの膝とかに居ました。。。なんとなく「サックスってかっけぇなぁ!」とか思ってはいたんですが、まさか森のなかで愛ちゃんにサックスを吹くだなんて。。。それに、その映像がやたらと映画的な雰囲気で、なんか、聞いてくれている愛ちゃんを見ている僕の視点と、僕と愛ちゃんとリスたちを遠くから捉えてる長いショットを見ていたり、不思議でした、サックスを吹いているのに、流れてる音楽にはドラムとかギターとかの音も入ってました。。。それに聞いたこともない凄く美しいメロディの曲で。。。あれでしょうか、女の子の夢のなかでしか流れない名曲とかあるんでしょうか、ジョンフォードの夢のなかでしか上映されなかった映画とか、愛ちゃんの夢のなかでしか幕が上がらないブロードウェイミュージカルとか、夢のなかにしかないものってちょっとセンチメンタルですね。

2009年4月8日水曜日

高橋愛 - Ai Takahashi

愛ちゃんの趣向には強い意味と意識が通っていて、それらに無意味に触れようとすれば、絶対に、彼女のあの愛しい姿は見えてこないと思っていた。乙女の無条件の憧れ程こちらが手に負えないものはない、それに、女の子がリスペクトするものを俺なんかが理解できるはずはないと思っていた、理解できたとしても、それは男の視点で湾曲させた思考のデザインであって導き出したそれが真実だとは思えなかった、彼女の外見のかわいさに見惚れた直後に彼女の内面も外見同様の純真さや意志に満ちている筈だと探りだす男の病、彼女を知りたいと意識した当初の絶望は彼女が結局、米国に憧れる女の子だと簡単に罵って、そんな女の子はかわいくないと切って捨てるあのバカげた連中となんら変わりのない程に、僕は彼女を見てはいなかった事になるのだ。
つい先日の番組で小春はNYPD(ニューヨーク市警)とプリントされているピンクのパーカーを着ていた。そのかわいさや美しさ、なによりおかしさは、きっと、小春がNYに憧れてはいないだろう事を僕が勝手に想像していたという事は少なからず関係していて、小春に「小春!!そのパーカーかわかっこいいじゃんか!NY市警だよ!小春ちゃんニューヨーク守っちゃうのかい!?say!小春ピンク巡査だね!わっははっは!」と言う具合に想像が膨らんで、僕はなんだか猛烈にうれしくてにやけてしまった、しかし、もしかしたら小春が「NYPDでしょ!小春知ってるよ!NYでいちばん強いじゃん!」と反撃してくるかもしれない。。。。NYと女の子というテーマは近頃の僕の最重要テーマである。
書きたいことは、愛ちゃんという存在の愛しさだ、なぜ、時折、僕らは愛ちゃんを小さな女の子のように思えてしまうのか、
俺らがというよりは、俺らが「愛ちゃん!」と叫けびたくなるあの瞬間にはかならず、もう娘。たちの妹のなかの誰かが「愛ちゃん!」と愛ちゃんをかまっているような気がする、福井コンで小春が突然に、「愛ちゃんばんざーい!愛ちゃんばんざーい!」と何度も叫びはじめて、その愛しい声が妹の声なのかお姉さんの声なのかわからない愛しい声だった、小春の声は響き渡り、娘。たちが止めなければ永久に小春は声をやめなさいんじゃないかと思えるくらいの勢いだった、この文章でかろうじてただひとつだけ語りたい事は、リゾナントライブコンの後の居酒屋で、路上で、僕とDさんが語った「愛ちゃん」を知ったその衝撃の事だ、たぶん、ある日突然に僕らのなかに「愛ちゃん」は出現したのだ、それは愛ちゃんを「高橋」と呼んできた僕らだけが経験した洗礼だったのかもしれない、小春に「愛ちゃん」と呼ばれた愛ちゃんは笑っていた、
聞き取れなかったが、笑う愛ちゃんに小春が「なんでわらうんですか〜」みたいな事を言った時に、愛ちゃんは「だって小春、愛ちゃんて呼ぶんだもん」みたいな事を言っていた気がする、感動と興奮のなかだったから確かではないかもしれないけれども、あの女の子を「愛ちゃん」と呼びはじめた人間の言葉を僕は素直に書き留めたい、Dさんが言うとおり、僕らはまだ愛ちゃんに出会って間もないのかもしれない、NYと幼児、リゾナントライブで確かに僕らは、NYのクラブで踊るスーパーガールな愛ちゃんとお風呂から出たばかりの幼稚園児のような愛ちゃんを目撃した、NYガールと幼児、

女の子の写真

戦争映画を観ているとかならずと言っていい程、兵士のなかの一人は女の写真や切り抜きを自分の寝床の壁に貼っていたり、服の奥に隠していたりする。強者になると、壁の女を見つめながら香水を嗅いだりする者もいる。
砲弾の束の間、ギターを抱えた兵士が故郷の女に想いを馳せる歌を奏でたりする。
戦場に人肌のような電波が降り注いで流れてくるのは「リリーマルレーン」。
仕舞いには、隣の立派な無精髭の仲間に「おまえが若い女の子だったらなぁ!」なんて口走ってしまう。
垢と弾薬と死の匂いの奥底でも、女は姿無くどこまでもいつまでも男たちの世界に香ってる。
「君は金持ちなんだな、じゃあ、戦争が終わったらおれに職を紹介してくれよな」。
「戦場で駄目になりそうな時は、わたしの胸の事を思い出して」洋服店で働いていた兵士が接客した奥さんにそう言われたと語る。
映画のなかの壁の女を見ていると、君たちを思い出す、きっと僕は君たちの写真を壁に貼るか、でなきゃ胸のなかにしまっているだろう、そう考えるたびに、一度も戦場に行っていない事が良いことなのかそれさえわからなくなる、そんな時は平和である事を呪ってしまいたくなる、戦争について男が口を出すことの猛烈な情けなさ、語る資格も、なにもないとはじめから切り捨てていた、こんな事を突然書くのは、昨日見た戦争映画のせいなのか、北の塊が日本上空を通過したからか、F22の記事を見たからなのか、そんな事ことわかりっこない、
小春はノストラダムスおじさんは知ってるだろうか、僕はちょうどあの予言が狂言になるか証言になるかのラインを超える時に若造だった、90年代後半、終わりが終わりなく次から次へと生産されていた、学校を休んでいた時、父親に連れてかれたクレーン射撃場で散弾銃が円盤を砕く光景を見ていた、暴力にも満たないなんの意志もなんの軌道もないその拡散してゆく銃弾の強い力は、迷子のようにただ、円盤を砕きつづけてた。

君たちのファンイベントやなんかで君たちに詰め寄るファンのなかに必死で自分も詰め寄るとき、いつもここが戦場だったらって考えてしまう事がある。男の汗臭くて、必死で、死に物狂いで、彼らは君たちに詰め寄る。
君たち女の子は「戦場」を意識する瞬間はあるのかな、愛する人が戦場に行ってしまったらどうしようって考える事はあるのかな。
なぜ、いつも仮想敵に向かって銃口を向けているのか、ずっと自分がわからない、軍パンはたしかにかっこいい、ナチスの尋常じゃないあのステッチ、

君たちが写真になってくれる事に僕はとても感謝してる。

2009年4月6日月曜日

紅玉りんこ (亀井絵里 - Eri Kamei)



絵里が発声!花が発生!!!
プリプリぷるりんプリリズム!オープンジュエルハ〜トお!
うおおおおおお!!!!絵里ちゃんが召還した!!
なにを!?
うおおおおおこれはぁああ!!!!
絵里ちゃんのかわいさジュエルだ!
おれの枯れた土地に降り注ぐ絵里ちゃんのリアルジュエルボイスの数々。。。降り止まぬ声の流れ星みたいだな〜!
涙の星も、笑顔の星も、ハッピーの星も、ポケポケ星も、乙女星も、
絵里ちゃんの声の星がいっぱい降り注ぐ!
そうか!
絵里ちゃんの声は絵里ちゃんの女の子ジュエルなんだね!!
「うん」て絵里ちゃんが相槌してる声を聞いちゃったんだぜ。。。!
日本上空を飛び交ってるのはロケットだけじゃないんですね!
絵里ちゃんのぷるりんロケットボイスだって絵里ちゃんのハートから打ち上げ成功だ!
絵里ちゃんは紅玉りんこって名前の女の子役!
りんこちゃん優しくかわいくてちょっとポケポケしてるかもな雰囲気で絵里ちゃん感ばつぐんな女の子!
でも、絵里ちゃんじゃない女の子、女の子はみんな姉妹なの、でもね、りんこちゃんは絵里ちゃんじゃない女の子、
でも、でも、りんこちゃんは絵里ちゃん、
亀井絵里ちゃん。。。今。。。
あのコの見えるかわいさが見えなくなったとき。。。あのコが声だけになってしまったとき。。。。
あのコの見えないなにかが見えてきた!
サンデーモーニン!絵里ちゃんが絵里ちゃんの声にのってやってくる!
毎週日曜午前9時半!ジェルペット絶賛放送中!!!!!!!!


絵里ちゃんのかわいさにスズメくんたちもごきげんチュンの図

自己紹介

Dear Morning Musume。 君のキャワキャワをキャッチだぜ!