2009年11月11日水曜日

女子世界

さゆの夏、れいなの秋、二十歳の産声(仮メモ)

さゆの言葉、幼少期に、恐い存在から身を守るために、かわいいお顔を歪ませながら登下校していた、さゆがかわいさを壊していた時、ちょうどそのころ、まさしく俺はさゆを求めて徘徊する恐い存在そのものだった、さゆがかわいいお顔を歪ませていたその事実の愛おしさ、さゆは俺たちがさゆに出会いさゆにかわいさの無限を知るずっとまえから、ただひとり、さゆのかわいさと戦ってきたのだ、さゆはかわいさの宿命とともに呼吸をしていた、さゆにとってかわいい事は喜びであり動揺に命をも奪いかねない恐怖でもあった、そして今、生き延びたさゆは俺たちに降り注ぐ、一切かわいさを躊躇する事無くかわいさの極限だけを超えつづける、さゆがお顔を歪ませたから今日がある、さゆが二十歳になった瞬間に俺のなかの少女って存在がやっと葬りさられたような気がした、もう、この世に少女など存在しはしないと思った。

れいなのお誕生日の前夜の10日にさゆがポケモーに知らせたさゆの写真は、さゆが20歳になってからはじめて撮った自分撮りの写真だった。まるで、「20代になってしまったら人生が終わってしまうみたい」だと悲しむれいなの手を握りしめるかのようなそのさゆのかわいさは、さゆの極度にカワイイ毎日至上において、他の10代の頃のさゆよりも断然美しくかわいらしいお顔であり、俺は携帯を強く握りしめてさゆと呟くしかなかった。

さゆは良く喋る子だ、しかし、さゆはいつでも、さゆを娘。を語る時には、さゆはさゆのかわいさによってだけ語っているのだ、言葉ではなくあのかわいさで、さゆが気づいているかどうかは別とし、俺たちはその事実を幾度も目にしてきたはずだ、

公式写真で近頃ポラ撮影のものが多数存在するようなのですが、金銭的にも足を運ぶという意味においてもめっきりそうした事情に疎くなってしまっているので、ろだやらヤフオクやらで不意に娘。のポラ写真を目撃するとそのかわいさと娘。たちがそこに何気なしに書き込んだ言葉の重要性にハッとする事が多いのですが、さゆのポラが本当に素晴らしく泣きそうになったのでこれを書いています、「さゆみんみちゅあみん」や、さゆが散々言っている道「重」を平仮名にしてしまった「道しげさゆみ」などがあり普通に「道重さゆみ」とか「道重さゆみちゃん」とかさゆはさゆの名前をそこに添えるのですが、なんと極めつけは「女の子」という人文字であり、これはあまりにも真実であるポラであり、僕はたとえば、異星人に貴様らの大事な存在は何だ?と訪ねられた時に、女の子の存在の代表としてこのさゆが女の子と書いた女の子のポラを提示してやりたい、それにしても、さゆのイカリング食べたぁーい!のイカくんのフォルムが初期案の勃起くんに酷似している事に胸キュンなのだった、

歌声地帯(仮メモ)

ある瞬間から、娘。たちの歌声が乙女の踏みしめで地を這ってる、青空を突き抜けるかのように乙女の重力から自由になれる優しくも晴れやかな歌声だけではなく、もっと、もっと、愛おしい、乙女で居る事の告白のような声が青空と地上の合間に、ちょうど、娘。たちの胸の高さで響きながら充満している、娘。の歌声に遂に乙女の重さがあるのだ、感情で処方した低音じゃない、れいなちゃんの低い歌声が真に重さを持ち始めた時、まるで、娘。の歌声が消え入らないように存在しつづけてきた娘。の歌声の断層の奥底のような愛ちゃんの歌声に、6期たちを中心に無理なく接近しはじめている、その接近のスピードこそが俺たちの胸を締めつける、愛ちゃんの歌声の孤独を、えりれいなの歌声はガキさんの歌声の優しさとはまた違う重力で愛ちゃんの歌声に接近する、これは、歌声と歌声の遭遇だ、乱反射に爆発していった乙女の歌声が、ここにきて、シンクロだとか共鳴だとか、そんな優しい簡単な言語で言い表せないなにかで響いてる、絵里ちゃんの低く乙女が鳴いているかのような歌声は絵里ちゃんのお口から放たれた瞬間に、絵里ちゃんの腰のあたりの位置までその重さで低空する、そして、そして、地面に染み渡るのだ、この地上の奥底に、娘。たちの歌声が乙女の重さを秘めはじめてる、娘。たちの歌声はもうただの音でも大気でも何者でもなくただただ乙女で充満してる、魂の重さの声で娘。たちが歌いはじめてる、胸のように歌声も色づくのだ、声の美貌、声の残酷、声の、声の、娘。たちの歌声だけが鳴らす乙女の魂の、

自己紹介

Dear Morning Musume。 君のキャワキャワをキャッチだぜ!