2010年3月26日金曜日

涙ッチ

「実際、「涙ッチ」でさえ「近頃の娘。の新曲は歌っている内容に意味がない」等と言われていた愛しい曲たちと同様に意味などないと思っている。もしも、この優しい意味を抱いたかのような善良な歌詞の抱擁だけを娘。に求めていたのなら俺は娘。になど恋焦がれてはいない。もっと言ってしまえば、もう僕にはこうした娘。たちに「唱われるべき歌詞」などと言う使命の領域の話しなどどうでも良くて、涙ッチでさえ俺には気まプリとまったく同じものとしか思えないのだ、それは娘。たちが歌うとき時に「おしり」であれ「溢れ出る感情にまかせばいい」であれまったく同様の強度を持つどころか、「おしり」の方が目映く力を抱くってその意味のわからない輝きの領域にこそ娘。は今降り立っているからで、それ程にまで娘。たちは歌詞の意味を凌駕しているとしか言いようがない、だから、娘。が涙ッチのような歌詞を口にした途端に娘。最高!などと近寄ってくる輩を俺は信用しないし、そういう人間たちは真に娘。に歓喜してはいないと俺は判断する、むしろ、涙ッチのもっとも感動的な場面っていうのは素晴らしい「人間らしく誇り高くな」歌詞の花畑のなかで突如として娘。たちが絶叫する瞬間だと確信する、美しい顔を歪ませては身体を中心にグッと引き寄せて地面すれすれにまでその身体を折り曲げて落としながら娘。たちは「ウォー!」って絶叫する、れいなちゃんのフェイクもそうだ、ラップまえのあの掛け声も、娘。たちが、今歌っている歌詞の重大な意味をも喪失しかねない乙女の発熱でもう言葉に留まってはいないその言葉を崩壊寸前にまで乙女掘削で壊しまくって声を発しているその瞬間と心中したくて俺は娘。たちの歌声を浴びに行くんだ、愛ちゃんが「カモン、あっ」ととどめをさすまで、娘。たちは涙ッチの生温い温室に身を許してはいない、むしろそこをぶち破ってゆく、小春が去った直後に人間に還ったみたいな論法こそが最大の敵だ、むしろ小春不在のままに小春の狂気が娘。のなかを駆け巡っているというのに、だから、もしも涙ッチがただのやさしい人情ソングだから近づいたとかそんな事を、または今の娘。たちがこんなただの人間的な歌うのは似合わないとかその両極でしか語れない人間ならさっさとその腐敗心臓に世紀をめかしこんで思想と近親相姦でもしながら娘。たちの集まるその場所から去ればいい、女の子たちのもう言語の原型を留めてはいないその歌声を、意味も愛も歴史も憎しみもそのすべてがただただ境界線なく混ざり合ったあの娘。たちの歌声こそを、あの歌声だけがこの世の乙女たちの真の絶叫だ、祈りにも勝るその声だ、声だ、声!、声!、声!、原始の雨乞いの絶叫ですら到達できなかった、生け贄も神も不在の彼女たちの存在しか其処には存在しない彼女たち以外のなにもかもの介入を許さない、その歌声だ、」

と、叫んで見た。

娘。たちがもうほとんど人間的な物語を言葉を歌わなくなってしまったその後に、突如、人間の言葉を物語を歌い出した事の重大な意味を、どうしてこの世の人間が、それもただの男が理解できるだろうか、このツアーの恐ろしさは愛ちゃんの語る「バラバラ」にあるはずだ。それは娘。たちそれぞれの乙女の魅力の「バラバラ」であるし、娘。たちが歌うべき曲の「バラバラ」でもある、娘。が恐ろしいのは、そうした絶対に一緒に存在できるはずのないあらゆる粒子が互いを消滅させる事なく同じ場所に同じ瞬間に存在させてしまう事だ。
だからこそ、10 MY ME という、ほとんど統一感なく狂っているとしか思えない曲が並んでいるかのように思えてもなおも、それらの曲ははじめから其処に存在する事しかできない宿命を持って生まれてきたかのように皆彼女たちの香りを抱いた曲なのだ。

娘。たちっていうのは、ほんとうに、恐ろしいまでに危うい、かろうじて、ほんとうにかろうじて彼女たちははなれることなく集結して存在している。ほとんど存在が誕生して消滅するまでのその一瞬だけが永続して輝いているかのようだ。
だから、細胞分裂やビックバンやそれらの崩壊と誕生を秘めて存在している。小春が居る9人で証明したのは外部から新たな使者を抱きしめるのではなくその9人が全員で新たな乙女の領域に到達する事だった。そして、それこそが、それだけが娘。を娘。として息づかせる事ができるのだと俺たちに彼女たちは身を持って知らせてくれた。
だからこそ、小春が抜けた娘。たちの乙女の肌の水面の表面には小春の影が永遠に映って離れないのだ。
彼女たち9人は9人で過ごしてしまった。新たな乙女を迎え入れる変わりに彼女たちが互いに結ばれて一つの乙女になっていった。
それこそが存在しえないはずの目には見えないはずの「娘。」という乙女の姿だった。
俺は概念でしか愛でしかない肉体の存在しない「娘。」をたしかに目にしたのだ。彼女たち9人が横一列に縦一列に整列して花の拡散で飛び散ってゆくそのたびに。
それらの揺らぎをある一定の美しい瞬間で結露凝固して留まりつづける絶対の美を求めているなら本当に近づかないでほしい。
近づかなくてもいいが、ただ、お願いだから解ったような事を言わないでほしい。その言語はあなたの知性やセンスの無さを露骨に宣伝しているだけだから。
デュシャンの大ガラスの亀裂を美と認識できると演説しておきながら、あんなガラスが到達できなかった、娘。たちの乙女の亀裂の開拓の地図を、そう、さゆと絵里とれいなと愛と小春と里沙と愛佳とジュンとリンの乙女の亀裂の連なりを見つけられないのなら、もう美の事になど一言も触れてなどほしくない。

たしか、絵里ちゃんは涙ッチに対して、「絵里の中ではサンボマスターさんっぽい感じかな。叫ぶ系というか…」ってな事を言っていた。
僕は、ああ、本当に何気ないところでこの子は凄い事を言うなぁって思った。
絵里ちゃんは適当な事を言ったのかもしれないし、その絵里ちゃんの発言を聞いた者からすれば愛ちゃんの「英語のラップ」が入っているからこの曲は好きになる予感がした!」とか言ってひとつの曲について語っていたあの発言同様に的はずれなのかも知れない、ただ、真実として、涙ッチを歌い踊る絵里ちゃんと言うのはそうした絵里ちゃん自身の発言のまったく手の届かない領域に居ると言う事だ。「なになにっぽい」や「なになに系」と言った括りが娘。には通用しない、だから、娘。愛者や楽曲派がいくら持ちうる知識や愛でもって、娘。が歌い踊る涙ッチや気まプリについて言葉を持ち出したとしてもそれらは絵里ちゃんのサンボマスターっぽい同様にあまりにもかわいい言葉でしかないのだ。

2010年3月24日水曜日

小春去りしそのあとに

PikaッPikaッ!ツアーがはじまった。

今回のツアーははじまるまえから以前のツアーがはじまる事とは違う何かがいくつも同時に不気味に蠢いていた。
小春が娘。ではないその季節を迎えた冬は、寒さの正気もその移ろいもなにもかもに異常をきたしたみたいにはじめて感じる寒さに覆われていた。娘。である彼女たちの女の子としての年頃と乙女集団としての娘。の年月との異常な私信の往復は、その毎秒が肉体の瞬間的な乙女の発育の激情であり、彼女たちの感情もまた、肉体と同様にいや、それ以上に、ただただ、女の子としてのその佇まいをそれぞれが帯びて来ているようだった。それらの花の断片はそれぞれのラジオやテレビ番組で彼女たちが数十秒でも世界にその姿を顔を肉体を声を出してしまう時には隠されることなく溢れ出ていた。ある日突然に、途絶えていた小春から「すいません!小春は生きてます!!!」とメールが来たとき、俺たちは小春が無事に生きている事にやっと出逢えた、小春が生死の問題を持ち出して来た事に驚いたのはその意味を知ろうとした時だ、あの卒業後に小春の姿も消息も俺たちはかすかに知れていた、それに、小春自体もおはスタのイベで赤Tの集団を目撃しているのだ、圏外くんがおはスタのイベに行ったときに赤Tの奴らちゃんと死なずにまだ生きていましたよ!と会話し合った、久住小春というひとりの女の子が生きているという事実は小春が言うまでもなくあたりまえの事だった、あの卒業後でさえ、俺たちも娘。たちも小春も生きていた、けれども、あのメールで小春が「小春は生きてます!!!」と言ってみせたのは、あの小春が今も「生きている」という意味でしかないのではなくそれはあの小春が居た娘。が「生きてます!」と言ってくれてるようで胸が壊れそうになった、その声の意思の眼差しがただただ愛おしかった。

小春の卒業のセレモニーは小春が娘。たちのすべての殻を崩壊させた決定的な何かだった。なんて事だろう、小春をまえにした時、今から小春が娘。を去るその時に、娘。たちは心をどこまで裸にして小春に飛び込んでいったのだ。小春と正面衝突した娘。たちのその後はどうだ、まるですべての娘。たちが瞬間的に小春のように振る舞い、どこまでも子供であり、正直で、時に誰よりも大人で、さゆは俺の子供になり、俺の母親にまでなった、さゆは俺に甘えてはおれをまた叱ってみせた。絵里ちゃんはとめどなく女になっていった。れいなちゃんの幼児さはどうだ、その毎日が乙女ビックバンのように移ろいつづけていた。ガキさんは、愛ちゃんは、みっつぃーは、ジュンジュンは、リンリンは。。。。俺には語れないあらゆる娘。たちの乙女の激情に小春が点在し、彼女たち全員に小春が巻き起こっていたに違いない。
彼女たちのあのかわいい美しい乳房を形作るものがその奥に隠れている心であるのだと彼女たちの心の美しいその成長は彼女たちの何気ない仕草に何気ない言葉こそに宿って放出されていた。肉体の成長の美しさを心の成長が裏切る事はなかった。23歳という「女」であるはずの「女の子」がリーダーを務めるこの乙女集団は誰よりも危うくしかし、その危うさで自らと姉妹たちを守り続けていた。小春という子供の最大の愛を傍らに置けないなら彼女たちは小春を内部に迸らせたのだ。小春は娘。たちの横にいなくなった、しかし、小春は娘。たちの内部へともっとずっとずっと奥へと娘。として再びやってきたのだ、小春としてではなく娘。としての小春は娘。たちにもしかしたらはじめて今この時にこそ去来したのかも知れなかった。小春が娘。に加入したずっと昔、この世界において絶対の子供だけが大人たちをその世界を今一度生まれ還らす事ができるように、小春は娘。を娘。に還らす道しるべになった。小春は再び娘。たちのなかにやって来ている。俺たちのなかにも。

彼女たちの周りには常に娘。たちの輝きとは別に、幸福と絶望とが同時に蠢いてたのだから、いったい、娘。たちのこの強度が、この世界の暴挙に心を折られないかとただ心配になる事ばかりだった。世界は娘。たちの輝きをただそっとしておくことを許そうとはしない。

が、

愛ちゃんは、「何事でも何者でもかかってきなさいよ!」って不敵にかわいく美しく歌い踊ってみせた。

この世界の歴史においてどんな季節であれ、どんな場所であれ、どんな環境下でさえ、この世の女たちが女でありつづけてきたように、娘。たちは娘。でありつづけている。

小春が娘。から離れてしまう事になってから、それでも娘。も俺たちもこの冬を越えて春を迎え、ツアー前日まで生き延びたのだ。

娘。を愛していると大口を叩く輩のなかにも、そうではない異常な悪意で娘。の挙動に張り付く娘。を見つめる悪意共は、あの月に遠吠えする愛のシルエットの「オオカミ」とは違う爛れた絶叫の「狼」で娘。に食らいつく、小春が居なくなった喪失では飽きたらず、その罪の引き替えに、また一人、もう一人と、娘。を去るべき人間の話しをし出していた、いや、奴らがいくら理由をつけようが、奴らの言いたいことはただひとつ、もうそろそろおまえは立ち去るべきなんだ、ただそれだけの無様に閉じることもできない能なしの口呼吸みたいな生存してんのかしてねえのか外気の暴言をぱくぱくと金魚のように言葉なく吐いている輩の唾がどこからともなく騒ぎ漏らして思考をどもらせてくってかかってくるそいつらの悪臭行列の最中、

3/19日、愛ちゃんはこう言ったのだ、モーニング娘。でした!

愛ちゃんのあの過剰なジャンプの頻度はどうだ、「階段なんていらないんやよ!」、まるで小春が憑依したみたいなあのジャンプはなんだ、愛ちゃんのあの力のやさしい放出はどうだ、愛ちゃんははじまって数曲で素直に子供になってみせた、その事自体がこのツアーの凶暴性を狂気をただ事ではない事の証明だった、けれども、小春のように離陸も着陸も乱暴な子供の悪戯には溢れてはいなかった、ジャンプでさえ愛ちゃんは愛ちゃんを踊ってみせた、愛ちゃんはとうとうジャンプで踊っていたのだ、離陸と着陸と浮遊のあのわずかな一瞬の仕草に、何度も彼女は生身の彼女を込めてる、苺いちえで語るあの甘い素直な声のように、愛ちゃんのジャンプが感動的なのはそれが振りでは届くことのできない領域の素直な感情のダンスだからだ、踊る事において四肢が地面と空とに触れていないその事は、愛ちゃんの肉体を不自由にするが、愛ちゃんはその不自由の拘束のなかで可憐に踊る、あのジャンプの砲撃のなかに愛ちゃんは今までの愛ちゃんの美それよりも美しい穏やかな感情を装填している、ライブが終わり去るその瞬間まで愛ちゃんだけがジャンプをしていた、愛ちゃんはジャンプで去って至った。

小春がジャンプが好きなのはなぜなんだろう?、ジャンプ!、ジャンプ!。
小春、小春よ、小春去りしそのあとに、俺は愛ちゃんとただ大きくジャンプをしています。

PikaッPikaッ!ツアーがはじまった。

2010年3月22日月曜日

娘。PIKAッPIKAッ厚生3デイズ福音フェニックス

何回会えれば満足するの?、私のなにが見たいの?

自己紹介

Dear Morning Musume。 君のキャワキャワをキャッチだぜ!