2010年5月31日月曜日

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リゾナントブルーの彼女のあの「騎乗」について下書きを書いているのだが、どうにもうまく書けない。(書き始めたくとも、そもそもがあの騎乗がほんとうに彼女がはじめて騎乗したのかどうかという事については俺は彼女のすべてのリゾナントブルーをみているわけではないからわかりえないので、この世界から見た彼女の騎乗瞬間現実の確認と、そんな事はさしおいて、俺のなかでの彼女のリゾナントブルー騎乗の生まれた瞬間を書けばいいのだと言う葛藤がある)
なにもそんなに難しく書くことなどないはずだ。
つまりは、彼女があの「リゾナントブルー」でさえも、どかで到達と言うか、頂点というか、もうあれ以上はないだろう表現の限界領域のようだった「リゾナントブルー」でさえも、あの神戸で完全に新しい領域に誘ってしまったというその事実だろう、リゾナントブルーでさえ彼女は進化させてしまったというその事実についてなのだ、突然に神戸で彼女が地球に騎乗してみせた事についてだ、踊り歌う瞬間の娘。たちの地球というのはステージの床でもなくその下の地球そのものでもない曲のうえなのだ、だから、彼女はリゾナントブルーのうえに立つことをやめてついにリゾナントブルーに騎乗したのだ、リゾナントブルーでの彼女の最大の悲劇は彼女のあの乙女の野生鳴声のように響くフェイクの歌声に肉体が打ち勝つ事の困難さだった、いや、あのフェイクでさえ彼女の肉体を敗北させた事などたしかに無いのだが、しかし、あのフェイクは君臨するのだ、彼女の肉体の躍動のそのうえにだって、だから、俺はいつもただ唯一、彼女の肉体があのフェイクのうえに君臨する瞬間をどこかで夢見ていた、彼女を形成する肉体と歌声のどちらかに勝敗をあげるなど馬鹿げているだろうと判決されてもしかたないが、
だが、それは現実にいつも起きている事だ、彼女という一つの存在のあらゆる領域が聖戦し合ってるのだ、だからこそ肉体と歌声の戦いもある、もちろんだからこそ、それらが抱擁し合った瞬間に彼女の輝きが噴火する、あのフェイク、彼女が客席の一人をしとめるかのように見つめるというあのフェイク、さんまのラジオのプロデューサーの結婚披露宴でさんまに「なにか娘。の曲を少し歌え」と言われ彼女はこのフェイクを披露したという、リゾナントブルーのフェイク、あの瞬間のうえにまで君臨する瞬間を彼女が肉体で表現できるなんて考えもしなかったのだ、それもこの季節にあまりにも唐突に、しかもだ、今ツアーでの彼女というのはどこかで肉体の狂気的なまでの躍動を鎮めた女の子であり人間である彼女の心音を踊るかのように優しくかろやかな表現であったはずがだ、突然に封じていた躍動のすべてが噴火するように彼女はリゾナントブルーに騎乗してみせたのだ、あれはたしか、神戸だった、それぞれのソロ曲が披露され6期たちの激きゃわ激愛しい激リアル曲である「大きい瞳」が終わったその瞬間にいつものようにリゾナントブルーの音が湧きあがって空間を覆った、彼女は「あの日に戻りたい」の衣装であるワンピースにデニムのライダースにボヘミアンな髪飾り(これはしていたか正直、思い出せない)という姿そのままに再び出現する、圏外も強く言っていたが、今ツアーのリゾナントブルーの素晴らしさは、それぞれの期がソロ曲を歌い終えた後に、しかも、バラバラの衣装そのままに再び集結し踊り歌ってしまう事にあった、それもだ、彼女たちの纏っている衣装がどれも普通の女の子たちのお洋服なのだ(もちろん開拓時代を思わせるなどいくらでも洋服に意味を持たす事は可能だが今となってはカウガールの意味はその時代の女という意味ではなくただただ「女の子」なのだ)、彼女はワンピース姿でリゾナントブルーを踊り歌うのだ、「あの日に」で彼女が彼女を司りながらも不自由にさせていたあの傘を置いて(あの日の彼女の傘を持つことによって起こる拘束される肉体の不自由ささえ踊ってしまったかのようなその美しさときたら、いや、踊らずにただ傘を差し歩きそこに居る彼女の)、肌の露出がほとんどないくらいに四肢も身体全体をも包むワンピースの裾を彼女は掴んでは握りたくしあげながら歌い踊っていた、ワンピースの上着のデニムを掴んでは放しては、その日のリゾナントブルーもいつものように凄まじい領域で俺を魅了していた、彼女がフェイクする、俺は絶叫したくなるほどに射抜かれる、曲はつづく、リゾナントブルーという地球がその時空が起こっている、ほとんど意識不明の昏睡のようにリゾナントブルーのなかに俺は漂っていた、あのフェイクを終え娘。たちの躍動と歌声はいよいよサビの連続発動によって頂点に突入してゆくようだった、しかしだ、その瞬間に、彼女だけがリゾナントブルーのなかから消失してしまったのだ、わずか一秒の速さで、彼女は行方不明になった、行方を眩ました彼女を再び発見するのはとても簡単な事だった、見失ったわずか2秒後に、彼女がリゾナントブルーの地上に膝をついて跨り上半身と下半身と四肢と頭のすべてで踊っていたのだ、その姿はまさしく馬に騎乗する乙女のようであり、俺はそのあまりにも恐ろしい躍動と美しさに客席で「うおおお」と絶叫し暴れるように身体を痙攣させたのだ、彼女は、とうとうあのフェイクに肉体の躍動で追いついたのだと思った、いや、リゾナントブルーというもはや創造する透き間など無く娘。のすべてが充満している世界でさえも、彼女がまだ変化させ進化させる事ができるというその事実に俺は立ち会ってしまったのだ、はたして、あの動きがあの瞬間に奇跡のように彼女自身から生まれたものであるのか、それとも、振り付け師などと相談しての動きであるのかは憶測でしかないのだからどちらかはわかりえない、しかし、彼女があの瞬間にきょうのこの季節にだ、リゾナントブルーに新たな躍動を踊ってみせた事の重大さだけは誰かが宣言しておかなければいけない事なのだ、ここから先は、とてつもなくながく破綻した彼女の肉体の躍動についての憶測考察になってゆくだろうが、しかし、どうしても、この重大な踊りについてはどうしようが書かなければいけないのだ、





彼女が「リゾナントブルー」に騎乗した瞬間の事


彼女について考える事の目眩に酔いしれている時の鼓動の往生際の悪さを憎むべきではあるのだろうけども自分にはその瞬間しか住み心地が良くないものだから好き勝手に鼓動させておくのですが、だからといって、ここまで狂暴な彼女の残り香への執着にはいいかげん自分でも嫌気が差してこないはずもない、しかしだ、彼女がなぜこんなにも執拗に俺のなかで舞いつづけるのかという事を考えるまでもなく考え出すから彼女がただ俺のなかになにか美しい瞬間の記念撮影でもされた写真のように君臨してくれれば良いのだが彼女の君臨はまさしく先に述べたように「舞って」いる、かわいらしくただ俺のなかに写真のようにしとやかに君臨すればよいものをなぜ彼女は舞うのか、いや、なぜ俺は舞っている彼女をこんなにも思い出し浮かべるのか、彼女の踊りがそんなに好きなのか、いや、好きという訳ではないだろうに、なぜなら、彼女をひとりの娘として女としてみるのならばだ、はしたなくかわいくラー油を粗末な宅配弁当の白米のうえにかけようとしている姿にこそ見惚れるのだ、だから、彼女に恋している心情の過剰な領域に心音が高鳴っている時はただそうした彼女のなんでもない肉体の運動をその瞳の佇まいをそのフォルムに見惚れ大事にしたいと思うだろうに、なぜ、そうした彼女のかわいらしい姿に見惚れる事を犠牲にしてまでも、こんなにも「舞う」彼女を夢見るのか、いや、見惚れているのか、執拗に執拗に、こんなにも彼女の事を書かなければいけないという意識に呪われている奥底には彼女の事と言うよりも「舞う」という彼女の状態にこそ興味があるのではないか、なぜその瞬間の彼女にそれほどまでに執着するのか、俺の「書く」という行為と彼女の「舞う」という行為の一騎打ちを企てたいのか、それはつまり、彼女との情事に至れない事の代理的な愛撫なのか、彼女を愛撫する手段なのか、不可解だ、自身でもこの使命とも欲望とも違うだろう意識が厄介でしょうがない、















リゾナントブルーでなぜ彼女はリゾナントブルー(地球(その時、娘。たちはスタージの床に地球に立っているのではなく曲のうえに立っているのだ))に跨り乗馬してみせたのだろうか、それもあまりにも突然にだ、あの時、俺は彼女側の席だった、あれは。。。最後のサビの繰り返しの時だっただろうか、彼女が突然に、まさしく視界から「消えて」しまったのだ、彼女はステージから一瞬にして姿を消してしまった、いったいどの表現者がどんな思惑を抱いて行うって言うんだろうか、いや、消えたはずの彼女を見つけるのに2秒もいらなかった、彼女は立つことをやめて地面に完全に座り込むのでもなく、まさに馬に跨り砂漠地帯を疾走するかのように、地球に、地面に跨り踊っていたのだ、その時の彼女の「舞」が焼き付いて離れないのは彼女が一瞬だけ行方を娘。から眩ましてしまった事による彼女の不在感ではないその存在証明の遂行の花の形相だ、彼女の肉体は地面に触れるか触れないかの瀬戸際で重力をありえない方向にぶちまけていた、ここで語る重力というものは地球が彼女を引き寄せ直立させ吊し上げているその重力ではない、そうした重力と攻防する彼女自体の重力の事だ、彼女の身体は極限まで無駄な私情を感情をないがしろにしながらなにか、そうだ、ただ純粋に生命を躍動する臓器のように、彼女は心臓になっていた、娘。の集団から消えてしまった彼女の立ち位置の上部の空間には穴が空いていた、そのすぐ下の空間では彼女が小さくしかしとてつもない巨大さで両膝を尽き地面に肘で鞭を入れ上半身と下半身の結界を説き解きただ躍動する心臓になっていた、今までのリゾナントブルーの彼女に唯一残念に思っていた事は彼女のあの野生の鳴声のように美しいフェイクに打ち勝つ肉体の躍動がなかった気がしたからだ、彼女はあのフェイクの瞬間に客席の一人に狙いを定め視線を外さずにフェイクすると36回目の苺いちえで言っていたが、そうした野蛮さに打ち勝つ肉体の躍動がどうしても生まれなかった、しかしだ、彼女はついに、あのフェイクと聖戦できる肉体の動きを創造し生んでみせたのだ、いや、またこう述べなければいけないのだろうか?、事実関係としてはその動きをはじめて確認できたのは突然に神戸であったと、そして、その動きが彼女が独断で瞬間的に創造し生み出し遂行したものなのかはわからないと、しかし、そうした事をすべてないがしろに横に放り投げても俺は言いたいのだ、彼女がとうとうあのフェイクを越える肉体の瞬間をリゾナントブルーで踊っていると、リゾナントブルーでさえ進化可能なのだと、彼女というひとりの存在のなかで巻き起こる肉体と歌声の凄まじい戦いがある、その事だ、ずっと俺が思い浮かべる彼女の「舞」と「歌声」の、今ツアーでの彼女のどこかで優雅な余裕とでも言うのか力を抜いているかのように、筋肉質な感情と烈火と物語りへ服従を軽蔑でもするかのような突然の放棄を、いや、たしかに彼女はどこかでなにかに反抗し放棄していた気がするのだ、そしてそのダンスはなにかもしかしたら今の彼女の表現のひとつの到達なのだろうかとさえ思わせる異様な瞬間だったのだ、しかしあまりにも、その力を抜いた優しい彼女の躍動がつづく事も、優雅さやそのかろやかさは凶暴な印象を俺に与えた、静かな四肢の優雅さがただの優雅さではなくどこかでとてつもなく恐ろしい瞬間への序章のような気がしてならなかったのだ、彼女は優雅さリゾナントブルーという曲は彼女にとっても娘。にとっても俺にとってもとてつもなく大事な曲だ、あの曲はとても野蛮だ、その野蛮さはどこか彼女の野生に似ている、リゾナントブルーは今の娘。の恐ろしさが朧気にもその骨格を抱きはじめた刻印のような曲でありとてつもない運動で躍動してゆくのだという肉付きしてゆく瞬間そのものだったつまり!、リゾナントブルーという曲のどこか普通ではない蠢きと狂気と運動を秘めた不気味に美しい曲の「生きている」のだというその現在進行形の躍動の動きこそ今の娘。の動脈なのではないか、

彼女が「リゾナントブルー」に騎乗した瞬間の事

どちらも諦めていない、つまり、軽さも、重さも、リゾナントの動きと、歌声の軽さ

彼女について考える事の目眩に酔いしれている時の鼓動の往生際の悪さを憎むべきではあるのだろうけども自分にはその瞬間しか住み心地が良くないものだから好き勝手に鼓動させておくのですが、だからといって、ここまで狂暴な彼女の残り香への執着にはいいかげん自分でも嫌気が差してこないはずもない、しかしだ、彼女がなぜこんなにも執拗に俺のなかで舞いつづけるのかという事を考えるまでもなく考え出すから彼女がただ俺のなかになにか美しい瞬間の記念撮影でもされた写真のように君臨してくれれば良いのだが彼女の君臨はまさしく先に述べたように「舞って」いる、かわいらしくただ俺のなかに写真のようにしとやかに君臨すればよいものをなぜ彼女は舞うのか、いや、なぜ俺は舞っている彼女をこんなにも思い出し浮かべるのか、彼女の踊りがそんなに好きなのか、いや、好きという訳ではないだろうに、なぜなら、彼女をひとりの娘として女としてみるのならばだ、はしたなくかわいくラー油を粗末な宅配弁当の白米のうえにかけようとしている姿にこそ見惚れるのだ、だから、彼女に恋している心情の過剰な領域に心音が高鳴っている時はただそうした彼女のなんでもない肉体の運動をその瞳の佇まいをそのフォルムに見惚れ大事にしたいと思うだろうに、なぜ、そうした彼女のかわいらしい姿に見惚れる事を犠牲にしてまでも、こんなにも「舞う」彼女を夢見るのか、いや、見惚れているのか、執拗に執拗に、こんなにも彼女の事を書かなければいけないという意識に呪われている奥底には彼女の事と言うよりも「舞う」という彼女の状態にこそ興味があるのではないか、なぜその瞬間の彼女にそれほどまでに執着するのか、俺の「書く」という行為と彼女の「舞う」という行為の一騎打ちを企てたいのか、それはつまり、彼女との情事に至れない事の代理的な愛撫なのか、彼女を愛撫する手段なのか、不可解だ、自身でもこの使命とも欲望とも違うだろう意識が厄介でしょうがない、














振りを変革するのは愛情だったりする事があるが、自分の肉体と連動sあせる

リゾナントブルーでなぜ彼女はリゾナントブルー(地球(その時、娘。たちはスタージの床に地球に立っているのではなく曲のうえに立っているのだ))に跨り乗馬してみせたのだろうか、それもあまりにも突然にだ、あの時、俺は彼女側の席だった、あれは。。。最後のサビの繰り返しの時だっただろうか、彼女が突然に、まさしく視界から「消えて」しまったのだ、彼女はステージから一瞬にして姿を消してしまった、いったいどの表現者がどんな思惑を抱いて行うって言うんだろうか、いや、消えたはずの彼女を見つけるのに2秒もいらなかった、彼女は立つことをやめて地面に完全に座り込むのでもなく、まさに馬に跨り砂漠地帯を疾走するかのように、地球に、地面に跨り踊っていたのだ、その時の彼女の「舞」が焼き付いて離れないのは彼女が一瞬だけ行方を娘。から眩ましてしまった事による彼女の不在感ではないその存在証明の遂行の花の形相だ、彼女の肉体は地面に触れるか触れないかの瀬戸際で重力をありえない方向にぶちまけていた、ここで語る重力というものは地球が彼女を引き寄せ直立させ吊し上げているその重力ではない、そうした重力と攻防する彼女自体の重力の事だ、彼女の身体は極限まで無駄な私情を感情をないがしろにしながらなにか、そうだ、ただ純粋に生命を躍動する臓器のように、彼女は心臓になっていた、娘。の集団から消えてしまった彼女の立ち位置の上部の空間には穴が空いていた、そのすぐ下の空間では彼女が小さくしかしとてつもない巨大さで両膝を尽き地面に肘で鞭を入れ上半身と下半身の結界を説き解きただ躍動する心臓になっていた、今までのリゾナントブルーの彼女に唯一残念に思っていた事は彼女のあの野生の鳴声のように美しいフェイクに打ち勝つ肉体の躍動がなかった気がしたからだ、彼女はあのフェイクの瞬間に客席の一人に狙いを定め視線を外さずにフェイクすると36回目の苺いちえで言っていたが、そうした野蛮さに打ち勝つ肉体の躍動がどうしても生まれなかった、しかしだ、彼女はついに、あのフェイクと聖戦できる肉体の動きを創造し生んでみせたのだ、いや、またこう述べなければいけないのだろうか?、事実関係としてはその動きをはじめて確認できたのは突然に神戸であったと、そして、その動きが彼女が独断で瞬間的に創造し生み出し遂行したものなのかはわからないと、しかし、そうした事をすべてないがしろに横に放り投げても俺は言いたいのだ、彼女がとうとうあのフェイクを越える肉体の瞬間をリゾナントブルーで踊っていると、リゾナントブルーでさえ進化可能なのだと、彼女というひとりの存在のなかで巻き起こる肉体と歌声の凄まじい戦いがある、その事だ、ずっと俺が思い浮かべる彼女の「舞」と「歌声」の、今ツアーでの彼女のどこかで優雅な余裕とでも言うのか力を抜いているかのように、筋肉質な感情と烈火と物語りへ服従を軽蔑でもするかのような突然の放棄を、いや、たしかに彼女はどこかでなにかに反抗し放棄していた気がするのだ、そしてそのダンスはなにかもしかしたら今の彼女の表現のひとつの到達なのだろうかとさえ思わせる異様な瞬間だったのだ、しかしあまりにも、その力を抜いた優しい彼女の躍動がつづく事も、優雅さやそのかろやかさは凶暴な印象を俺に与えた、静かな四肢の優雅さがただの優雅さではなくどこかでとてつもなく恐ろしい瞬間への序章のような気がしてならなかったのだ、彼女は優雅さリゾナントブルーという曲は彼女にとっても娘。にとっても俺にとってもとてつもなく大事な曲だ、あの曲はとても野蛮だ、その野蛮さはどこか彼女の野生に似ている、リゾナントブルーは今の娘。の恐ろしさが朧気にもその骨格を抱きはじめた刻印のような曲でありとてつもない運動で躍動してゆくのだという肉付きしてゆく瞬間そのものだったつまり!、リゾナントブルーという曲のどこか普通ではない蠢きと狂気と運動を秘めた不気味に美しい曲の「生きている」のだというその現在進行形の躍動の動きこそ今の娘。の動脈なのではないか、

2010年5月29日土曜日

与えられたもののなかに与えるという事

彼女が「与えられたものいかにこなすか」というだけの存在ではなく、「与えれらて育て文体をカエル、さらっとうたわないようにする」、与えられたそれ以上のものを自らに「与えている」存在であるというのならば、彼女が創造したものを挙げてみればいいはずなのに、それを容易く言葉にできない俺はやはり完全に破綻しているか彼女を見ている力が未だに貧弱なのだ、あの振り付けのところがこうだ、あの瞬間に彼女の創造した動きを入れていると言った具合には説明不可能だ、例えば、今ツアーのリゾナントブルーでの彼女は曲も作れないし、彼女は振り付けだってできやしない、それこそ、彼女自身やDさんが発言する通り「与えられたものをいかにこなすか」というその領域で娘。たちも彼女たちも闘ってきているはずだ、けれども、近頃の娘。に感じる、与えられたものを壊す寸前にまで自らの濃度を高めてしまう身体の動きというのはたしかに存在していると思うのだ、それは愛ちゃんをはじめ絵里ちゃんにも強く感じる事だ、娘。にはつんくというプロデューサーも居るのだし、舞台構成のスタッフやダンスの振り付け師だった居る、つまり、彼女たちに「与える」大人の存在がいくつも居るのだ、この曲はこうして踊るべきでこうした歌声で歌うべきだとか、この曲にはこうしたメッセージが込められているだとか、あらゆる大人の創造者が彼女たちに思考を美意識を物語を授けようとするはずだ、俺がいちばん不可解に思ったことはこの春ツアーがはじまる直前までリハーサルがうまく行かずに怒られたというその事実だ、なぜ娘。たちを与える創造者どもが怒ったのか、単に振り付けを覚えられなかったのか、表現が彼らの創造したものと違うからなのか、良くはわからない、しかし思うのは、創造者の奢りとでも言うのか、バレエのDVDを見ていても結局は踊りをその表現を肉体に最終的に与える事ができる存在というのは踊る本人でしか可能ではないのだ、それなのに、なぜ、俺は彼女が「与えられたものをいかにこなすか」という領域の話では落ち着けないのか。
与えられたものをいかにこなすかというその無垢さなり純粋さなり、
彼女が苺いちえを一から創ってきた番組だからというような発言をしている事も考えなければいけない。

涙ッチ、ハロモニ。遊んでいるのにそこで娘。たちの動く、ソロ曲柄でリゾナント、あの衣装も

小春喪失をジュンジュンが元気玉みたいになる。。。

メドレーが与えれれたものが変貌する、生まれ変わる、不安定さが、さゆが振り付け問題、ジュンジュン、娘。を模倣から、

2010年5月28日金曜日

彼女の重力、重さ、軽さ。

彼女の肉体の総重量は40キロ台だろうが、それは彼女の本当の重さではない、肉体がただの肉体である重さの事ではない、本当の重さ、とは。
魂をたした重さ。その重力、重さ、軽さ、

娘。たちの重力。

何度か書いている事だし、どこまで書けているのかわからないが、娘。たちの重力。

「近頃の娘。たちの歌声には女の重力があるから好きだ。」
「若い頃の歌声よりもずっと好きだ。」

兄「ヴィゴの新学期操作ゼロこのまえ観たじゃん、少年たちが暴動を起こして暴れるシーンで俺さ、娘。を思い出したんだ。。。。あの時、少年たちが枕とかを裂いてさ、部屋中に羽が舞ったじゃん?、あのかろやかな浮遊、でも、あの羽が少年たちの自由への願望なり、その躍動を現す動きには俺には思えなかった、あの羽よりも、目には見えない足かせのように重力を、少年で居るその重さを引き連れた少年たちのジャンプや暴れている身体の方がずっと俺にはかろやかに見えたし地面についているその足が支える躍動が羽の自由な動きよりもずっと感動的だったんだよ。。。。あのシーンは、少年たちの手によって裂かれた枕から噴出して、姿を見せた羽のその真っ白な巨大な霧の大群のような姿でさ、羽がそこに顔を出し存在してみせているって事は羽が示した自由と、もはや、少年たちの自由と同等ではないって事を、重力を強く引き連れたあの部屋で映してしまっていたと思う。。。あの少年たちのダンスがすげー娘。を思い起こさせたんだよ。。。俺、ずっと娘。たちと重力の事を考えていてさ。。。」

弟「うーん。。わかんないけどさ、シモーヌヴェイユって女の人が書いた「重力と
「友」は娘。たちの歌声という曲で、バラードなのに娘。の声が弾んでる感じがすげーグッと来ます、やはり娘。の歌声には乙女の重力が見えるのがいい、悲しくなるくらいに愛ちゃんの歌声や絵里ちゃんの歌声がかろやかではない

2010年5月27日木曜日

きょうの彼女のかわいさ

きょうの彼女のかわいさを思うとき、彼女が娘。のリーダーとしてリゾナントライブをそしてナインスマイルを達成してしまい、あの領域を越えてしまった女の子であるという事を自身で認識してしまった事が大きいように思える。
秋コンの彼女がいつも恐ろしくなるのは、秋コンの寸前に彼女が歳を重ねてしまう事にある気がしてならない。
彼女はいつも秋ツアーのリハーサルの最中に歳を重ねるお誕生日の娘。の女の子なのだ。
23歳になり23歳である事を強く意識する事で、彼女は自身の娘。年月と娘。という乙女集団の年月をその状況をその表現を強く意識したはずだ。
その季節に、小春去るあのナインスマイルを彼女はリーダーとして越えなければいけなかった。
彼女という娘。は他の娘。と比べて圧倒的に娘。で居るその愛しい状態を戯れる行動や物語る言語で世界に明るみにする事が苦手な娘。だった、だからこそ彼女は肉体の踊りや声の歌声によって、その孤高になりかねないほどの表現によって娘。になっていった女の子なのだ。
そうした娘。乙女期を通過してきた彼女がきょうガキさんに「なんだか甘えたいお年頃のようですばい」と言われているこの穏やかな乙女の生命風景こそがきょうの23歳の彼女であり、私には彼女のきょうの到達と思えるのだ。
23歳の愛ちゃんといつしか思い出す事があれば、私は、あの冬を道連れに、きょうに至ったこの春なのか初夏なのかわからない愛ちゃんこそ23歳の日々の愛ちゃんである気がしてならないのだ。

いつの事だろうか、よっすぃーの提言による「もっと愛ちゃんそのものを表現してもいいんだよ」というような言葉を契機に、今春ツアーで「エロかわいい」が目標ですと愛ちゃんが声に出してからというものの、なんだか、愛ちゃんのかわいさがどうしようもない程に爆発している気がするのだ、愛ちゃんのかわいさや美しさが穏やかな感情のリズムで呼吸をしているきょうなのだ、苺いえちを越えてファイブスターズで愛ちゃんは自分の好きなものを自分の好きなように自分の言葉で語る、愛ちゃんは今、今やっと、愛ちゃんを語りはじめてる、愛ちゃんを俺たちに見せてくれるようになったのだと思うのだ、だからこそ、俺はこんなにも困惑しているしこんなにも毎日毎日、愛ちゃん
に惹かれてゆくのだ、俺は愛ちゃんに出逢ったばかりな気がしてならないのだ、女の子の愛ちゃん、愛ちゃんという女の子に、

きょうの彼女のかわいさを思うとき

きょうの彼女のかわいさを思うとき、彼女が娘。のリーダーとしてリゾナントライブをそしてナインスマイルを達成してしまい、あの領域を越えてしまった女の子であるという事を自身で認識してしまった事が大きいように思える。
秋コンの彼女がいつも恐ろしくなるのは、秋コンの寸前に彼女が歳を重ねてしまう事にある気がしてならない。
彼女はいつも秋ツアーのリハーサルの最中に歳を重ねる娘。の女の子なのだ。
23歳になり23歳である事を強く意識する事で、彼女は自身の娘。年月と娘。という乙女集団の年月をその状況をその表現を強く意識したはずだ。
その季節に、小春去るあのナインスマイルを彼女は越えなければいけなかった。
その冬を道連れに、きょうに至った愛ちゃんこそ23歳の愛ちゃんである気がしてならない。
いつの事だろうか、よっすぃーの提言による「もっと愛ちゃんそのものを表現してもいいんだよ」という言葉を契機に、今春ツアーの「エロかわいい目標」発言で、愛ちゃん自身の声によって公に世界に提起された、その愛ちゃんの穏やかな感情のリズムのはじまりを知らせる言葉がそのまま途切れることなくきょう発売された「形」のメイキングDVDの冒頭での「あなた次第で私は「リアル」になる」という言葉へとつながるという事の

彼女の世界へいざなわれる爆笑という扉

愛ちゃんを爆笑してしまう事について

はたしてその笑いを爆笑と呼んでいいのだろうか。。。萌笑?、愛笑?、なんて言えばいいんだ。。というのも、彼女に笑うというその事がどうにもこの世界の他の、既存の「笑」という言葉を連れている言葉では表せない気がするのです。。。爆笑ではあるけども単なる爆笑ではなく苦笑でもない、コメディを見たときの笑いでもなく、絶望の極致の笑いでもない、彼女に笑うということ、彼女がなぜにおもしろいのか、そのおもしろいという事はどういう事なのか。。。私はずっとこうして考えるのです。。。愛ちゃんを笑うというその瞬間に男が到達したときにどうもはじめて、愛ちゃんという女の子のその世界の扉のまえに立つことができる気がするのです。。。ですから、愛ちゃんがおもしろい!という事に気づき、愛ちゃんに笑えるという事は、愛ちゃんを理解できなかった男にとっては自分では気づいてはいないのかもしれませんが、その行為自体がはじめて愛ちゃんに萌えているというまさにその瞬間なのではないでしょうか。。。高橋ウケるわ〜→愛ちゃんマジで馬鹿だなぁ→愛ちゃんいいよ!!→あ、あ、愛きゅん!!愛きゅんきゅん!!!。。。。。ほとんど強固な絶対の無関心から笑わせられたという領域にまで持っていかれる愛ちゃんのそのおもしろパワーとはいったい????。。。しかも、愛ちゃんを笑うのは我々ヲタだけではなく娘。たちもなのです。。。愛ちゃんのおもしろきゅんパワーとはいったい!!!!

愛ちゃんの純粋さが我々を笑わす、愛ちゃんはその時どこまでも純粋に真剣に自らが思った事を発言し、やりたいと思った事をやってみせる、憧れだったり、自慢気だったり、愛ちゃんなりの信念だったり、論理だったり、それらが、この世界と俺たちと他の娘。たちが想定できる常識ではないあまりにも愛ちゃんでしかない言葉であったり行いであったりするので我々に残された術はただ愛ちゃんに笑って、笑いが鎮まったあとに愛ちゃんの愛しさに気づく事だけなのだ。

5/27

彼女が乙女の命の形成を無限に変容させる事のできる「形の無いもの」であると言うなら、それはある視線からすれば間違いではないし一方では大きな間違いでもある。

間違いではないというのは。

たぶん、今の彼女をある生命の呼び名やその領域に確定指名する事は横暴でおこがましさ事で、その事への提起として作用するもっとも優れたものは彼女の行動や彼女の言葉であって、それらは春ツアーの「エロかわいい目標」発言で愛ちゃん自身の声によって公に世界に提起され、「形」のメイキングDVDの冒頭での「あなた次第で「リアル」になる」という、ほとんど惨い程に、彼女の演じる事への掟や、彼女を見る者の掟、その両方を放棄させてしまうような完全に路頭に迷わす言葉を彼女は言ってしまっている、なぜならその二つの発言は一人の女の子がひとつの意思によって発したものだとは思えない破綻があるし、どっちつかずなのだ、その言葉の状態こそ今の愛ちゃんの難しさにつながっているんじゃないだろうか。今の愛ちゃんを語ることやその魅力がなんであるのか「難しい」と呟ける人間だけが今の愛ちゃんをしっかりと認識できているはずだ。「高橋愛劇場」と安易にヲタが呼ぶその表現の領域なのだとかたをつける人間も、愛ちゃんの表現をアカデミックな表現芸術の文脈で優れているのだと強く語る愛ちゃん愛者たちも、その両極者たちは信用などできないのだ。

私自身も、それらの愛ちゃんへの言葉のように、愛ちゃんを「形のない者のように、めまぐるしく演じ、いくつもの存在へと表情を肉体を変える事ができる表現者で」あり、「「高橋劇場」の唯一のメンバーで唯一の主演女優でその独りよがりが鼻につく」というようなこの両極の思想で愛ちゃんを語れるならどんなに気が安らぐだろうか、しかし、真実は、きょうの愛ちゃんは演じる事よりも演じない事を通り越しそのどちらの瞬間でもない彼女を表現してしまってきているし、「高橋劇場」と呼んでいたその存在さえしなかった幻影の箱でさえとっくに彼女自身によって崩壊され、独りよがりどころか、人々が独りよがりだと責めた立てた狂気の孤高の表現領域は、もはや彼女ひとりのよがりではなく、他の娘。たちが表現領域と聖戦するときの誘発にさえなっている。

愛ちゃんはもう、「私は、私ではない完全な他者のホールガールを演じています」とも、「私はホールガールなど演じてはいません、あれは私そのものです」とも言ってはくれない、愛ちゃんはもう愛ちゃんの存在状態をオフィシャルな愛ちゃんの意思言語では解説してはくれないのだ。

しかし、一方で間違っているというのは。

たぶん、演じることが上手だと世界から言われなにより自分でもそう思っていた女の子が、いよいよ、演じる事よりも演じない事を選んだのなら、いやいや、自らの思想や思考によって湧き起こった革命意思ではなく、ほとんど自然に穏やかに曲線化してゆく愛ちゃんの身体のそのながれのように、極自然にだ、愛ちゃんの意思とはほとんど遠い場所から愛ちゃんのもとへ到達し乙女の流れ星のように授かってしまった意思であるのなら、そして、もしもその意思が、演じている最中にほとんど無意識に演じてはいない瞬間を遂行していたのなら、演じる自己と演じない自己の聖戦のように、他者を、物語を。。。。。。演じているという肉体と、演じないという肉体の攻防やその歪みやそのノイズのその2重の肉体のずっと奥に静かに躍動している肉体こそ演じる肉体と演じない肉体が彼女に生まれるまえからずっと彼女に存在している形あるものなのではないか、ただただ彼女だというその白い生地の肉体と感情こそ彼女の形なのではないか。。。彼女を称して「頑固」だとガキさんが言うのであれば、まさしく彼女の奥底には彼女という「頑固な形」があるのだ。彼女が強く演じるその瞬間の頂点探求の途中で瞬間的に顔を出す彼女の仕草や言葉や瞳やあの佇まいの強烈な形こそが、演じる彼女でも演じていない彼女でもなく真に彼女が出現するという奇跡なのではないか、その頑固な強烈な形なのではないか、そうやって、彼女は生まれてからずっと何者でもなくただただ強く彼女という形で躍動していたはずなのだ。

今ツアーとこの写真集とファッショナブルブログがなによりもの愛ちゃんによる愛ちゃん乙女証言。。いよいよ愛ちゃんが自らの乙女噴火により貴様らが勝手に、しかも、ただ、彼女のパブリックな唯一の目線として名付けたあのこの世にありもしない不当極まりない「高橋劇場」とかいうのをぶっ壊しはじめている事を!!

愛ちゃんの写真集の表紙はやはりやばいのではないか。。爆笑から彼女の世界へといざなう。。愛ちゃん。。。

(東京都 会社員 31歳 俺)

形が素晴しい!泣、表紙の愛ちゃんに爆笑しながら開いた瞬間にとてつもなくかわいい愛ちゃんがおでましで萌え衝撃!!!この写真集は今ツアーの愛ちゃんの自分の出し方に似ている!!かわいく力が抜けているというか、素直な表情やボディです!!!まさしく今の愛ちゃんが満載!!

(無色(無職)に近いラブレター代筆屋 29歳 俺)


どぅ?、私を見るんやよ。。という表紙をかわいく悪戯に裏切る大変なリアルガールな愛ちゃん万華写真集!!!俺だったら、リアルガールってタイトル提案すんね!!!

(どこぞの愛ちゃん萌え小僧 俺)



愛ちゃんが何者をも演じてねえ!!!

(俺)

君のリアルと俺のリアルが出逢っちまったなら!!!!

(俺)


俺生存史上最高リアルガール愛ちゃん!!!

(俺)


本屋で売ってるなんてゆるせねぇ!!!!!空で売るべき!!!!!
(俺)

うおおおおおおおおおおおおホールガールな格好をした愛ちゃんがリアルになってるかどうかは「あなた次第」って(このわたしを見てリアルだと思えばリアルなのよ。。。)と愛ちゃんが言った!!!!!!!!!!



映画はけして現実なリアルではないとか言う文明逆流嘔吐くそ小僧共みたいな奴らをぶん殴るかのようなお言葉!!!!!!君がホールに居てあんなにもかわいいお洋服を着て躍動してるというリアル。。。。その現実。。。


愛ちゃんは演じるんじゃねえ!!リアルしてるんだ!!!!

2010年5月26日水曜日

5/26

やはり彼女の近年の写真集のタイトルの忌々しさと闘う事は私の使命であるし、その事に気づいている彼女を愛する者など私以外に存在するはずもないのだ。
そもそも、最大の敵であるのは彼女であると言ってもいい。
こうした写真集やなんかの時の彼女は、彼女にあまりにも無頓着なのだ。
その無頓着さが彼女である事に間違いはないがしかし、その事と彼女の表現との聖戦の領域とはまた話が違う。
彼女の新写真集の題名は「形」であるが、帯には言葉が添えられている。

「形のないものこそ、どんな形にも彩れる」

これを発案した人物だけが敵だとは到底私には思えないが、彼女は確かにこの題名に頷いたはずなのだ。
私にはそれが許せない。
こんなあからさまな間違いをどうせ周りの30代か40代の文明消火未満の知的不能者の熱弁のなかで鵜呑みにしたのだろう。「馬鹿な女」だ。

芸術という胎児のなかに未だにくるまり、そこにおまえを連れ込むような男共の言うことなど聞かなくても良いのだ。

私の試みている「この行為」そのものはけして彼女の味方ではないという事だけはここにしっかりと宣言しておくが、しかし、私のこの行為ほどに彼女を愛している行為など存在しいないはずだ。

こうした写真集では彼女自身はほとんど彼女の美しさについて無知でありつづけ、
彼女を見つけ、彼女になにかを語り、彼女を撮り、彼女に指示し、彼女に教授する周りの存在も間違ってる。

その事と戦えるのは私だけなのだ。

2010年5月25日火曜日

5/25

きっと自分は彼女に対してとてつもなく厳しい男なのだ。だからこそ今ツアーがはじまったいちばんはじめに見た彼女の踊りや歌声にはどこかで物足りなさを感じてしまったのだ、前ツアーでの彼女の躍動が尾をひいて、彼女の肉体は隙だらけで、彼女に情緒する事も恋愛感情を抱きながら見つめる事も許された、
このツアーが終わりを迎えてしまった娘。たちから語られた事はほとんどが隣の娘。についてと我々についてだった。

2010年5月23日日曜日

2010年5月22日土曜日

5/23

彼女たちがおとす花とけりをつける事などできるのだろうか、俺はきょうも4月のむすめたちを凝視しなんとか自分の言葉のなかに今一度彼女たちのあの鼓動と俺が咳き込んだ歓喜の咳を召還させようと試みたが俺はつもる花のあとに埋もれて窒息する寸前で4月の彼女たちと交わろうとしたその瞬間にきょうの彼女たちの肉体が言葉が新たな花で俺に落雷する、彼女の花がつもる、あとかたもなくおれをうもらせる、

彼女という女の魅力とはなにか、

好きだ、愛している、抱きしめたい、という幼稚で神聖になっちまってる絶対的なこの感情以外に、彼女についての言葉を悪魔的な客観性にまで葬り去ってだ、冷静に吐いた魂の漂いのなかに投射させる程の強烈な身体的愛の労働に、ああ、身体的愛の労働!、俺の悼んだ指先が彼女を讃えられるとでも、俺は無謀にこがれ液晶の膜に4月の日々を思い出す、俺が足を踏み入れるべきなのかずっと苦悩してきた、そうだ、身体的愛の労働、彼女の魅力を語ろうとすれば魂と肉体とを繋ぐ全動脈の歪みを正さなければいけない、愛していると呟くことよりも重要な行為への責任とは呼びたくないこの行為だけが彼女の胸の花に愛をかすめられるならば、

君の魅力を語る事を、誰にも明け渡すものか、この意思がまだ生きている限り、そう最期の願いのように呟きつづけまたきょうが彼女の魅力のなかに暮れてゆく。

と、俺は言ったんだ。

したら、お前は俺のなかでこう言う。

「しかし、俺以外の男が、彼女についてなにかを知っているなどとは到底思えない、貴様ら如きに、貴様ら如きに。

彼女をどこまでも崇拝し、彼女の表現をアカデミックな領域だけに純粋化させるような美意識過剰な、まるで、教授が優秀な教え子の女学生に父性で目にかけているかのような壇に立ちたがるだけのような奴らの賛美ほど鼻につき嘘くさいものは存在しない。。。
彼女の美しさをわからないと暴言を吐く者よりも悪臭がする。。。。ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ言ってやろうかくそども、結局のところは、俺以外に彼女に対してピュアビッチガールなんて愛しい聖なる名で呼んであげる男などこの世には存在しないのだ。例え真実に踊り歌っていない自身の部屋に街に居る時の彼女がピュアピュアであろうがそんな事は重要な事ではないのだ。俺がほとんど悪魔になりながらに語りたい事は彼女のあの踊り歌う姿のその瞬間の純粋さの頂点ではないむしろ彼女の女としての恐ろしさの頂点の事なのだ。だからこそ俺ははじめからこう断りを言うだろう。彼女はピュアピュアだと。しかし、今はそんな事はどうでもいいその事はもう愛しすぎる疑いようがない真実なのだ。俺が突入したいのは彼女のおぞましさに宿る危なげな欲望の純粋さなのだ。男どもは障害のように彼女の純粋の純粋さしか語ろうとしない、しかし、俺には、そいつらがおぞましいと汚いと下品だと無かった事にしたり彼女の純粋さのなかに鎮め目をつむりひたかくそうと消滅させるその、彼らが恐れる彼女の瞬間こそ彼女の純粋さを紐解く瞬間だと思っている、貴様ら如き有機な鼓動保持生物どもは讃えるか貶すかの両極でしか彼女に迫れないはずだ、だからこそ、俺がこうして真に口を開けば、狂気だの、妄想過多だの、深読みだのと言って目を背け、なんて汚い事を、人間の男が口にする言葉ではないなどと怒り出すだろう、しかし、それこそなんてあまりにも人間的野獣さの過失だろうか、お前らはどこまでも人であるがゆえに、そこに縋るがあまりに彼女の人間離れした野獣さにその動物そのものな美に対してまでも極致になれずに愛情と物語りのなかに逃げ込みその美を証言できない過失を犯すんだ、それでは駄目だ、駄目なのだ、彼女の美しさと彼女の汚さとが彼女の踊りに告解するように誇るように爆発しているその事実を、彼女が踊りで女が美しさで男を殺戮する事まで企てているのではないかと震撼する程のあの恐ろしい美しさを、駄目だ、駄目だ、彼女の踊りを見てただ微笑み呆れ涙を流すだけでは彼女に溺れてはいない、彼女のダンスのなかに溺れたら傷だらけになるはずだ、彼女のアカデミックなバレエと異国のクラブでの深夜の情事までを想起させるその陽炎を燃やす事ができる肉体の遂行を、彼女がどこを見て歌っているのかも彼女がどうやって今なにを表現し肉体を動かしているのかもわからなくなるあの瞬間の絶望を、俺は何を言おうとしてる、そうだ、俺はこうして壊れてゆく、しかし、彼女の踊る肉体を再びこうして己の心臓のなかに放すとき俺はこうして意味不明な呪文を叫ぶ事しかできないのだ、そうだ、彼女のもっとも美しい瞬間と彼女のもっともおぞましい瞬間を見てしまったような空間そのものが彼女のなかに誘拐されたかのような、あの、あの、壮大な彼女の抱擁を、彼女について語る事が生半可ではないのは、彼女がそうした毒を秘めているからだ、俺は彼女の美しさとともに彼女の恐ろしさも語らなければいけないのだ、これを書いているのは彼女を馬鹿みたいに愛している今にも青年猶予が失効しそうなあいつじゃない、彼女に恐ろしさがあるように、こいつは、彼女の恐ろしさと対決する恐ろしい信念なのだ、彼女の愛しさと恐ろしさが完全に重なるその脈の瞬間は、彼女はたぶん彼女自身である純粋さと同様の脈拍で、いつそれが真実になってもおかしくない過去を未来を道連れにした彼女の女のあらゆる脈拍をその瞬間の肉体の躍動を肉体に歌声に瞳に呼び起こす事ができるその憑依にある、そうだ、彼女は彼女に女を憑依させる、彼女は自分のあらゆる女の可能性に憑依できる力を持っているのだ、その瞬間彼女は華麗にどこまでも澄んで迷子になり確定する命から解き放たれ透明になってゆく、彼女は命を全方向に向ける、みおとしなく、ひとつの絶対温度に結晶かするどころか彼女はあまりにも自由に彼女のあらゆる魅力のなかに行方をくらます、彼女は彼女であり彼女ではなくなる、彼女はそこに存在しながらに不在になる、それでも恐ろしい事に彼女は強く存在しているのだ、そしていよいよ、汚い状況下の鼓動を醸し出し、その瞬間が彼女を興奮させる、彼女は興奮してる、彼女は今ツアーによってむすめの○ちゃんという存在意思の向こう側に、向かってはいけない領域にまでむすめで居るその瞬間に今まで踊ってきたむすめのダンスを道連れにむすめとして踊り歌うその表現時間によって到達してしまったのだ、彼女にとってはいままで、犠牲にしなければいけなかった肉体の動きをその表現をとうとう踊ってしまったのだ、ここ数年にじわじわとくすぶりながら時折顔を見せていたその恐ろしい瞬間をとうとう彼女自身が彼女に許してしまったのだ、それはもはやエロかわいいですらない、彼女はエロかわいいという言葉に我々が頷くようなロジカルな文脈を用意していた訳ではなかった、これは一つの誓いの呪文のようなものだったのだ、先輩からの助言によって彼女のなかに強く意識化されまるでくすぶる欲求を透かされたような想いを抱きながらもっと自分を出してもいいのではないかというその願いとも言える意識へ自分を解き放つ事のできる喜びのなかで彼女はとうとう彼女が禁止してきた領域のおぞましいまでの女であるその揺るぎない真実の瞬間までもを踊り歌ってしまったのだ、あの彼女を見てもなお、彼女のとてつもない力に、それがどんな距離の取り方であってもだ、震撼しない野郎はもはや完全に表現とともに生きてはいけない死人なのだ、今ツアーで彼女が巻き起こしたのは今まで「○○劇場」などとくそ頭の緩い美意識劣化神経退化野郎どもが容易く呼んでいたあの彼女の表現では完全に、完全に無かった、そして、全ツアーで俺たちが賛美した彼女の表現でもけして無かった、この彼女の遂行は。。。。。ああ、ああ、こんな事がおまえに本当に書けるのか?、彼女を愛しているおまえにこんな事が、彼女が地球に騎乗する瞬間おまえも興奮したはずだ、彼女は地球に乗馬した、そして、そして、彼女はまた彼女に戻ってくる、彼女は戻ってくる、まるで彼女のなかにあるすべての女の悪の可能性と一騎打ちをし打ち勝ちとうとう彼女の魂の純粋な安らぎのなかに彼女を護り通したのだと、おまえは彼女のすべてを見てしまったかのようだったと、おまえはその事実をどうやって言葉にするんだ、結局、貴様はあの瞬間に彼女に完全にすべてを禁止されたのだ、おまえはやっぱりこうして恐ろしいまでに彼女とは遠く離れた存在の事を綴っているかのような言葉しか書けないのだ、貴様は一言も彼女について書けてはいない、貴様は能なしだ、きさまごときそんざいがかのじょのにくたいのまえでうたごえのまえでそのひさんなしこうとむぼうなかんじょうといまにもいきをひきとりそうなげんごでは、なにも、なにもできやしないのだ、きょうじゅつしろ、すなおに、おまえはかのじょがおどるときかのじょのうちゅうのなかであかごになったのだ、」

また違う奴が言う。

「↑おまえの意見などくそだ、なぜなら、今ツアーの彼女ほどに感情が誘発した野獣さの意識不明に立ち向かった彼女はいなかった、彼女は自らの奥底から湧き上がる凶暴な輪郭に無我夢中になるのではなく、彼女の強靱な意思によって彼女自身だけを強く揺るぎなく宿し、彼女のなかに今の彼女の乙女の血潮以外にはどんな女の時間も感情も憑依する事を許さなかったのだから、彼女は最後の最後まで、彼女自身の肉体の乙女の文明で野獣になってしまうその寸前でなおも彼女自身で居続ける事ができたのだ、その事は、彼女が重力さえ従わせその絶対なる法則をも歪ませたあの着陸する姿を見れば一目瞭然ではないか、彼女は穏やかだった、あれは肉体の野生ではない、あれこそ彼女の肉体の文明だ、踊りながら離陸し着陸するというその行為は、彼女がただただ彼女を踊ったその到達だ、愛して愛しての時の彼女をおまえは見たか、あの彼女の、今の彼女の性をそのまま見てしまったかのような、あの瞬間の彼女はけして彼女以外の女の性を憑依させてなどいなかった、背伸びも誇張もなくあの踊りの聖なる香りは彼女の性の背丈だったのだ、踊りの体温も、踊りの年月も、彼女は一切の憑依を許さなかった、彼女はただ彼女の迸りを踊れていたのだ、」

言う。

「あなたたちの言っている事が私にはわからない。私には、野獣だの、乙女だの、人間だの、領域だの、純粋だの、性だの、私にはあなたたちの言っている事こそがこの世界でもっとも彼女の表現に遠い言葉のような気がしてならない。あなたたちは一刻もはやく彼女について沈黙したほうがいい」

2010年5月21日金曜日


夜明けだけが君は時が夕暮れを目指す頃、

2010年5月19日水曜日

手放すな

彼女のかわいさに己を完全に掻き消してしまう事を容易く選ぶな最後の最後まで人間的な命で居たいと願え、昏睡でもいい、彼女に人だと、男の子だと認識してもらえるだけの熱を手放すな、完全な正常でなくてもいいこはっる微塵に、ただ、まだ華麗に朽ちてなはいない彼女たちの墓を自らの墓を荒らすな、壊わさせれいない程の俺の瞳の許さない常軌で、この夜空が統治する闇を失効させてしゃゆり、鎮圧した欲情の透視がえりな眉間のうえで灰に水をさして、闇のほつれを彼女たちの衣に抱きつかせ膜を剥がさせた絶遠の大罪かまし野郎どもをぜっあいに許すな、

2010年5月17日月曜日

高橋愛 - Ai Takahashi

ω. LOVE RAIN (5/17 19時)

Love Rain

このまま君の 胸に飛び込んだまま 奪いたい ずっと 涙も その瞳も
止まらない雨が 恋が降らせた雨が

毎秒毎秒強くなる愛とふえていく切なさを
フィリーソウルも羨みそうなメロディにのせよう

叫びたい君と 世界に笑われても

利伸

http://www.youtube.com/watch?v=-De7TCjD1ag


叫ぼう愛ちゃん、君が踊るとき、君が香るとき、君がフォーエヴァーって叫ぶとき、世界に笑われるなら、俺も一緒にそんな君に恋してるって叫んで笑われよう、俺は永遠なんて信じられない、けれど、君のフォーエバーは信じられる、
愛ちゃん、君に届かなくていいんだ、でもね、君がどんなにかわいいか、君に惚れてどんなに男が叫んでしまうのか、俺は世界に焼きつけたい、僕の叫び、この世に、君のかわいさが存在していた証だよ、




俺が毎日毎秒彼女の魅力に魅了されて彼女を抱き上げたいと願うたびに彼女は可憐に俺からこぼれ落ちて逃げてゆく、あの美しいダンスの延長線の俺にくれる最後のやさしいダンスのように彼女は踊らずに踊っている、あらゆる妹たちから伝えられる彼女のすべての仕草が俺を焼き尽くす、その花の香りで俺を粉々に殺しては俺をまた蘇らす、俺は、俺は、この女のとてつもない凶暴な花の香りに怯えながら歓喜を震撼させて男になってゆく、この女のただわずかな髪の揺れさえ俺にとってはなによりも欲しい瞬間で、恋の言葉が恋のメロディが彼女の花の仕草に特攻してゆく、彼女はあまりにも可憐にそいつらを無情に焼き払う、だから俺をまたすぐに生き返る、生き返ってはじめて見つめる女がまた彼女で、まるで殺し合いだ、彼女がこの世界から彼女を護れるとしたらそれは唯一彼女のその魅力だけなのだ、彼女は生身の乙女のその命だけでこの世を渡る、そうだ、そうだ、彼女は凶暴な生命力なのだ、俺は?、俺は?、ただの瀕死の脈泥棒だ、指の定規で君を測る、ジュンジュンと隣に居る君が好きだ、だって、俺と一緒に居てくれる時の君の背丈で君がそこに居るみたいだから、俺だけがひとりで遂行してる君の瞳に注ぎ込もうとしてる俺と君の恋の物語を君だけが美しく壊してくれるから好きだ、だってそうだろ?、愛ちゃん、そうだろ?、僕らは恋も愛も届かないもっと純粋な領域で繋がってゆけるんだろ?、一緒に年を重ねましょうって君は言ってくれる、キスしたら終わりなのってとびっきりかわいい瞳で言ってくれ、俺に恋を、愛を禁止してくれ、おまえが乙女で居るおまえが娘。で居るために禁止してるすべての乙女欲望の禁止と同じ痛みと同じ喪失を俺に呪い授けてくれ、誰も抱くなって言ってくれ、永遠に女を知らない小僧でいろと、痛みがほしい、君はなにも禁止してはくれない、ぜんぶぜんぶ俺が自分で考えなきゃいけないんだね、君の芳醇な欲望で窒息したい、ワクチンも免疫も見つからない乙女の香りを俺に射し込んでくれ、ねえ、愛ちゃん、君を愛ちゃんて呼んで居てもいい?、君を愛きゅんって呼んでもいい?、月に君を踊らそう、踊れよずっとかわいくきれいに、ずっと輝けよ、太陽が焦がした空の火傷の砂漠のうえでチークダンス踊ろう、君のかわいい足の裏が火傷するといけないから俺の足のうえにそのかわいい足を置くんだ、君の小さな親指の脈拍が俺を目覚めさせる、君の睫毛の匂い、君の鼻筋を僕はからかおう、俺の鼻筋を撫でて高さを移せばいい、俺は言うだろう、君のこの鼻のかわいい傾斜が好きだよ、君の瞳から睫毛へまた鼻筋へそして唇へ、俺は君のすべてを巡礼するんだ、そのすべてに傷をつけよう、君の知らない君の肌の空に咲く☆のほくろを教えてあげよう、君の髪の香りはね、ミルフィーユのように重なってるって事を君は知らないだろ?、そうだよ、そうだよ!、君の毛先の香りは若々しく荒々しい!そこから少しだけ遡った6cm先の髪の光の香りはまるでまるであばずれだ!ふてくされいまにも抱かれたいと寂しがる女の香りだ!そこからわずか3ミリ遡った君はまるで歳を一歳も数えた事のない赤子のようにミルク臭いんだ、君の、君の、すべて、君のすべてが好きだよ、愛ちゃん、愛きゅん、俺だけが、俺だけが、君に恋文を書けるんだ、誰も到達できない愛のほころびのさきへ、aewen7543.jpgに宿された君よaewen7543.jpgに宿された君よaewen7543.jpgに花を残す君よaewen7543.jpgに消えていったはずの君よaewen7543.jpgのアイスを食べている君よaewen7543.jpgの君よ、



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aewen7543.jpgaewen7543.jpgaewen7543.jpgaewen7543.jpg愛ちゃんaewen7543.jpgaewen7543.jpgaewen7543.jpgaewen7543.jpgaewen7543.jpgaewen7543.jpgaewen7543.jpgaewen7543.jpgaewen7543.jpgaewen7543.jpgaewen7543.jpgaewen7543.jpgaewen7543.jpgaewen7543.jpg
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ねえ、愛ちゃん、あの時、君は春って言ったよね、僕らにはやってこなかった春を越えて初夏にしか思えなかったのに、君はあの日を「春」って言った、ねえ、この感激がわかる?、君って、君ってそういう女の子なんだよ、君が存在しなければ、君がお喋りしなければ世界に咲くはずのない言葉や仕草を君は、君だけが秘めているんだよ、あの日、春を蘇生させた女の子はきっと君だけなんだよ、僕らに春をくれるのは君だけなんだよ、僕らは君の乙女感覚にいつも惑わされる、そのおかしさにいつも悩まされる、そうなんだよ、君は凄く、凄く魅力的に僕らを惑わすんだ、そして、僕らは最後には君をかわいいって思ってしまう、君は素直でいればいい、ずっとそうやって君の乙女感覚で世界を惑わせればいいんだ、僕らは喜んで君の投げかけた難題のなかに迷おう、君と僕らの愉快な会話はその時浮かび上がってくるはずだ、君の乙女感覚に魅了されていたい、君のかわいい声が君の乙女を力説するその姿のなかにずっと迷い込んでいたい、
_
_

_彼女の事を誰もがわかっている_こんにちは、愛ちゃん_


0.「水」、「私」、「形」

この言葉を目にして真っ先に思い浮かぶのが彼女の姿であるならば、その人は彼女に少しでもそれが例えわずかだとしても接近をした事があるのだろうか。この三つの文字群はここ何年かの間に出された彼女の写真集のタイトルである、が、ただそれだけではけして無く、彼女がこのタイトルに頷いてみせたというその事実は、彼女を知ろうとし語ろうとするうえで自分にとってはなにか、大きな鍵になるのではないかと思えたのだ。

1.「エロかわいい」

この言葉を聞いて真っ先に思い浮かぶのが彼女の姿であるのならば、その人は彼女に少しでも、それが例えわずかであったとしてもだ、接近をこころみた事があるのだろう。この言葉を彼女がはじめて口にしたのはたしか、春ツアーがはじまる2週間まえを切った3月7日の「女が目立ってなぜイケナイ」の発売イベント内、ほとんどMCでの事故的な展開からの発言だったはずだ。ここで彼にとって忘れられない程の衝撃だったのは、いや、忘れてはならないと思った事は、我々のまえではけして、生身の女であるような照れ方をしないようにそれが、意識的か無意識かは別にしてだ、今までリーダーとして仕草してきた彼女がだ、その発言を言ってしまった事で、全身で照れてみせたことだった。言い得ぬ感激に奮える彼が、彼女に強く感じたことは「なぜ、なぜ、とっくに通り過ごしたかのようなこの世界の既存のガールイメージフォルムを彼女が今、目標として口にするのだろうか?、彼女は「エロかわいい」だなんて領域はとっくに表現し切って通過しているはずではないか?、それも、どの瞬間などとその領域を判別するまでもなく、あらゆる瞬間において。。。それをなぜ、なぜ彼女は「エロかわいい」だなんて乙女領域を目指すだなんて言葉を口にしたのだろうか?、彼女はもっとアカデミックで神聖でストイックな狂気の領域にひたすら立ち向かってゆくのではなかったのか?、それを、「エロかわいい」だなんて言う、まるで、普通の、そこらへんのガールたちの、????、まるで、まるで普通の、普通の。。。乙女。。。乙女」。。。。。その日、彼にとって、歓喜と共にまたもや彼女の口から最大の謎を与えられたようだった。彼女の口にした言葉が、あまりにもどこか幼稚で神聖さに欠けていて、どこか彼女の生臭さを帯びていたからだった。「考えるに、小春を送り出してしまう事になった前ツアーでの彼女が、もしかしたらいちばん嫌悪していたおどり文句ではないか。。。いや、もし、俺が前ツアーの彼女について「エロかわいい」だなんて感想を吐いたなら、彼女、俺をどんな目で睨みつけ愛想を尽かすだろうか!!!!!。。。。彼女たちだけが娘。という乙女たちの呼吸によって、この邪悪なる世界の、自称「最後の乙女」だと騒ぐ多くの表現者である女どもが容易く手を染め表現してみせる「エロ」だの「かわいい」だのの、混血的な「エロかわいい」だなんていうものの一瞬にして消え失せる奇病の力、によって、世界を惹きつけるのではなく。。。。彼女たち娘。だけが真の乙女の呼吸によって俺たちを惹きつけてみせたのだ。。。。。前ツアーはそのほとんどこれ以上はないという完全なる証明だった。。。命がけの。。。。。なぜだ。。。なぜそのツアーを通過してみせた乙女戦士たる彼女が今になって「エロかわいい」だなんていうどこかで聞いた事のあるようなとてもかるくやさしい乙女の遊び文句みたいな乙女領域を口にし、目指すだなんて言ったんだ。。。。そんな香り、彼女ではなく、この世界のあらゆる女の子たちが立ち込めさせているはずじゃないのか!。。。この世界のあっちこっちで香ってるはずだ!。。。。そうだ!、絶対にそうだ!、彼女たち娘。だけが、もしかしたらそうした領域の泥沼から抜け出せていた唯一の乙女たちだったはずなんだ!。。。なのに。。。。なぜなんだ。。。自らの乙女の領域がそんな領域よりもずっと凄まじいものであり、そうした乙女たちが表現できない香らす事のできない、至る事のできない乙女領域の命がけの表現に立ち向かっていっていたはずの彼女がなぜ、たしかにその意思だけだったはずだ。。。彼女は前ツアーでそうした想いを、体に魂に瞳を込めていた、今も思い出すあの強い眼差しを。。。。彼は困惑した、深く深く、彼女の照れてみせた愛しい姿に惚れ尽き、想い馳せ燃え上がりながら俺は困惑した、そうだ、俺は強く困惑した、まるで「エロかわいい」という言葉が、彼女が俺に投げかけた乙女呪文でもあるかのように、俺は「エロかわいい」に呪われた、その幼稚で甘く謎めいた彼女の言葉に、俺は歓喜しながら強く困惑した。。。。。俺には彼女の真意がわからなかった、彼はツアーがはじまるその日を静かに待ちわびた。。。まだ彼はこの時に知る余地も無かったのだ。「エロかわいい」と言った彼女のその言葉が、次なる乙女季節への彼女の宣言である事に、それは彼女のこころで鳴り響き、あのかわいい唇から洩れた乙女の鐘の音だったのだ、それも、自発的な自己肯定も自己否定も自己言及も苦手な彼女が、珍しく明確に言葉にした言葉であり、呼吸だった、息づかいだったのだ、そう、前ツアーの張り詰めたその直中でさえもある瞬間にたびたび顔を出していた彼女のある瞬間がいよいよ彼女の全容に浸透し彼女自身がそれを解き放ちはじめてしまう事に、彼は、気づけなかったのだ。


5/18 さゆdpoにより、発端発火

「 ヤンタンで、高橋は色っぽくないと言うさんまにさゆが猛然と抗議。愛ちゃんはメイクとかちゃんとしてスイッチが入ると凄い色っぽい、そのギャップが色っぽい、(さんまは)わかってないと」



さんまの色っぽい判決ってガキって言うか、どこまで凍り固まったただのおっさんの男目線で、その揺るがない目線の高さを通過しない女の子の瞬間は全部色っぽくないって言う感じなんで、ある種、すげーヲタ的だなぁって思います

さゆちゃんよ、ギャップが色っぽいって。。。。俺が今ツアーの「エロかわいい」で書こうとしていた事をさゆに先に言われてしまった。。。



そもそもが普通にラジオの録音をしているだけの澄んで乙女状態にある愛ちゃんに対して「もっと色っぽい姿を見せろよ」って言う事の検討外れ感ったらないし、それに、愛ちゃんの色っぽさというのはこの世界に既存しているさんま思考的なエロとか色っぽさでは絶対ない。


そうしたほとんど聖なる色っぽさである愛ちゃんの色っぽさというのは愛ちゃんが意識不明になってる瞬間というか歌い踊っている最中に極限の瞬間に到達するときに巻き起こるのだけれど、今ツアーの愛ちゃんが素晴らしかったのはそうした意識不明な狂気的な色っぽさではなく、既存の「エロかわいい」側に


「エロかわいい」側に照れながらも歩み寄って、エロとかわいいという直接的な意識に触れる事を避けてきたであろうその意識を保ったままに表現した事にあって。。。


このエロかわいい聖戦の衝突の向こうに浮かび上がった愛ちゃんの姿というのはもはや、前ツアーまでの聖なる色っぽさの愛ちゃんでも既存の「エロかわいい」愛ちゃんでも無かった。どうしても言葉にできない色でそこに居る愛ちゃんを俺は愛ちゃんとしか呼べなかった。まさしくただただ愛ちゃんだった。



君は、愛なの?愛ちゃんなの?愛きゅんなの?って8歳なの?18歳なの?23?36?っていうめまぐるしい乙女万華が愛ちゃんだろうが。

あと、さゆの言う愛ちゃんスイッチって化粧ではけして無いって思う。


ああああ、もうすげー書くしか無くなってきた、追いつめられてきてる


愛して愛してあと一分の愛ちゃんの表現ががまさしくその愛ちゃんvsエロかわいい聖戦そのもの


13,娘。たちのダンスが振付師を花の幸福の裏切りをする事について

ほとんどそれは肉体すべてで乙女のすべてを表現してしまう恐ろしい躍動だった、彼女たちは、愛撫し、拒絶し、怒り、罵り、抱擁し、拗ねてみせてはまた甘え、乙女の仕草のすべてを踊っていた、彼女たちは肉体の動きとして骨組みとして破ってはいけない契としてのダンスを授かったはずの振付という絶対的な君臨を、その瞬間瞬間の熱情や苛立や肉体との呼吸確認によって裏切ったりする、振付という白紙のなかにそれぞれの絶対的な色を散りばめる。その事について、その横暴への先陣をきる愛ちゃんの至り、それにつづく他の娘。たちの躍動。。。。圏外とのツアー初日?の会話「いやー、絵里ちゃんがとにかく凄かった、絵里ちゃんのダンスがやってはいけないくらいに暴れていた、やりすぎなほどに。。。」「愛ちゃんは静かだ、愛ちゃんは優しく穏やかにおどろうとしてる、今回は力を抜いてる。。。」「愛ちゃんの着陸見ました?ふわぁ~って羽のように地面に着陸する。。。脚とかで着陸してるとかじゃなく、ほとんどどうやって肉体の強張りと重力を逃がしているのかわからない。。。」


99.リーダー愛ちゃん

愛ちゃんという女の子は娘。と世界との境界の扉を閉じてはいないし娘。の表現と世界の表現との確執などを望まずむしろ娘。と世界が重なったその先にこそ自身の表現の昇華があると思っているはずだ、愛ちゃんは娘。の扉を大きく世界へと開放しているのだ、愛ちゃんは自らの身で世界と娘。とを往復してみせる、愛ちゃんが娘。のリーダーであるその証明はそこにある、つまり、愛ちゃんという娘。は娘。でありながらもその繭のなかに閉じこもってしまうタイプの娘。ではなく、娘。のままに女の子として世界に飛び立ちまるで親鳥のように世界で見た聞いた浴びたあらゆる刺激を肉体(ダンス)と言語(感情)と歌声などに宿しまた娘。に帰ってきてはそれを娘。に与えるのだ、愛ちゃんの趣味というのはもうほとんど職業病というか娘。でいる自分にとって愛ちゃんという存在にとって、きってはきれない領域の趣味だ、世界と娘。の表現の確執をたぶん、愛ちゃんだけが修復し、娘。を完全な狂気の孤立へと凍らせるのではなく、世界の脈を抱いた存在へと溶かしながら到達させてゆける力を持ってるだろう、振付師という存在そのものが、あらゆる世界の踊りの引用結晶者であるが、そうした存在から教えてもらうのではなく、愛ちゃん自身があらゆる世界の踊りや表現を見て感化されているというその状態こそが今の娘。のダンスの強度の根底にあるはずだ、娘。のダンスのなかに愛ちゃんが萌えているあらゆる表現のかけらが愛ちゃんが世界に居たその面影がその証明が娘。で踊る愛ちゃんによって愛ちゃん脈に蘇生させられ娘。のダンスのなかに現れる時にそれは娘。と世界との不通を阻止できるのだ、娘。が世界に直立する事ができているまさしくその瞬間だ、肉体の躍動がその表現が、孤高の地下に潜るのではなく、日の当たる場所できらめく事のできるその可能性をずっと愛ちゃんはひたすら守り通してる、愛ちゃんは娘。を完全に世界から孤立させる事だけは遂行しないだろう、だからこそ、娘。のこの世界のどこを見渡しても存在しないかのように君臨する乙女集団の躍動の台風が完全に閉じた場所ではなく開けた場所でこの世界で巻起こっているという現実を更新しつづける、娘。は地下篭城で踊ってはいないのだ、娘。はこの世界のなかで踊っているのだ、愛ちゃんは絶対に世界と娘。との手を離させない、


5.I LIKE YOU I LOVE YOU 一緒に歳を 生に至る恋の病の都

パリでも東京でもない、娘。という恋の都

娘。たちと俺たちでしか到達出来ない関係について、愛ちゃん発言、れいなちゃん発言、さゆ、絵里ちゃん、ガキさん、ジュンジュン、ほとんどの娘。たちが口にする我々と娘。たちの愛について。

「彼女に会いに行くその前日、いや、会場についてコンサートがはじまったその瞬間までは俺は、彼女を抱きたかったし(やりてぇと呟いてしまう程に)彼女と付き合いたい(彼女を恋人に)と願いつづけていた、だから、その瞬間までこの世界に存在する「恋」の物語もメロディも概念も彼女と通用していたのだ、しかしだ、彼女が踊り歌い微笑強い眼差しで、その時、それまで俺が彼女に願ったすべての「恋」がどこかに身を隠す、俺は、彼女を抱きたくも彼女と暮らしたくもなくなるのだ、ただ、彼女がそこにいるだけで俺は満たされる、その瞬間だけは完全に俺の恋は彼女に純粋化してゆく、それを誘発しているのが、彼女の貞操なのだ、彼女の気品なのだ、彼女が導き出した「一緒に歳を」という俺たちと彼女たちだけの「圏外の部屋で俺たちが確かめあった愛ちゃんの発言に対しての。。。圏外「僕は、あの発言が凄く好きなんですよ、あれは、愛ちゃんがやっと導き出した、キスもセックスも抱き合う事もできない僕らと愛ちゃんとの関係の妥協案だと思うんです。妥協案だけど愛に満ち溢れてる。。。」



3.「溢れる感情の仕草のその時、零れる乙女言葉の英単語、愛言葉(あいことば)」




ねえ、愛ちゃん、なんで愛ちゃんは英語だと絶対に噛まないの?

福井弁(幼少期からの愛ちゃんの母国語であり娘。に入った事ではじめてその言語を使ってはいけないという抑制と、また、自身の言語感情とは無縁に話せと必要事項化させられた言語)と東京~標準語(愛ちゃんが娘。になった事により愛ちゃんのなかに愛ちゃんが宿さなければいけなかった言語、それは娘。で居るときにも、また、東京という街で暮らすためにも、言語の習得を終えた少女期の終わりに宿さなければいけなかった言語)を往復する時、感情の揺らぎ、伝えなきゃいけない命題に愛ちゃんの思考が縛られる、愛ちゃんの思考、我々が唯一馴染みがある英語ファック!オーノー!それは感情の放出としての英語、愛ちゃんの英語=福井弁と標準語を報復する愛ちゃんが言語に葛藤していた愛ちゃんが自ら進んで愛し宿そうとしたはじめての自発的な言語、福井出身の女の子で娘。の女の子であり東京に住む女の子である愛ちゃんが、その先に、その向こうに、辿り着いた言語、愛ちゃんの自由、愛ちゃんの言葉、愛ちゃんの感情が歪みなくそのまま言語に注ぎ込める唯一の言葉になれる、しかし、英語は断絶じゃない、愛ちゃんの英語は会話の頂点であり頂点ではない、愛ちゃんの英語は突破口になり、愛ちゃんは福井弁にやさしく帰還することも、標準語に帰ることもできる、愛ちゃんの使うすべての言語は対立してはいない、愛ちゃんにはその3つの言語がどうしても必要だったのだ、この日本という国は乙女期に多くの女の子が言語を破壊する、それは女子中高生などがスカートを異常にその脈と血管が突然変異によって分岐するが如く、乙女の血がそこに流れ着き化粧をしスカートの裾をごく自然に見殺すようにそれと同時期に女の子たちは言語を破壊する、しかし、娘。たちはほとんどそうした年頃に、そこらへんの女の子たちのように言語を、制服のスカートを見殺す事も言語を破壊する事もしなかった、女の子たちが破壊と創造を自らの手によって遂行した傍らで、娘。たちはほとんどそのリアルタイムな言語を授からないしその破壊と創造の真っ只中に共犯しない、だからこそ、今、絵里ちゃんなどが「ウケる~」と発する時にその声の甘さと切なさは、もはや、この世界の女の子たちが発する「ウケる~」とはまったく違う愛しいものとして我々に到達するのだ、娘。たちというのは、ある時期の女の子たちが破壊し創造した言語が彼女たちによってもはや捨てられ放棄され口にする事もなくなった頃に突如口にしたりするのだ、だからこそ、その言語は最終的に娘。たちの言語になりえる、この世界ではもう娘。しかはじめから使ってはいなかったかのように。。。それは言語だけでなくお笑い芸人などもそうだ、娘。たちと世界との時間差、たしかに絵里ちゃんは「ウケル~」というしまた、街の女子大生も「ウケル~」と未だにいうだろうが、ほとんど、その声の、その意味の、肉厚が違うのだ、。。。。。。愛ちゃんが英語を発するという行為はもうほとんど、通過してはこなかった乙女期の言語の破壊に似た乙女期の愛しい発作でもある、ただ、ここでも絵里ちゃんのウケると同様、愛ちゃんの英語というのはこの世界の女の子たちが乙女期にほとんど自分と自分の愛する者以外を締め出す鍵の秘密の暗号のように言語を破壊するのとは逆に、愛ちゃんはこの乙女英語という言語によって世界へと開いてゆくのだ、愛ちゃんは英語のなかに逃げこまないのだ、愛ちゃんはしゃべるという行為がそのまま世界に立ち向かいひらけてゆかなければいけないものだという事を知ってる、その困惑も戸惑いも恐怖も、ただ、そうした恐怖の末に愛ちゃんが見つけたかわいい乙女期の秘密の大事な乙女言語が愛ちゃんの使う乙女英語なのだ、あれは英語じゃない、乙女英語なのだ、愛ちゃんはそしていよいよ、俺たちに素直なその感情を伝えてくれるようになったのだ、愛ちゃんはヨチヨチ歩きのままに自らの乙女の言葉を、限りないその愛しさを、異国の言語の骨格を借りて育てていっているのだ、永遠なんて言う永久凍土のような言語を俺はもう信じる事はできなくなっていた、しかしどうだ、愛ちゃんがあのかわいい声で凛と済んで愛ちゃんの言葉にできないなにかを娘。のなにかを装填し放つフォーエバーは信じられるのだ、愛ちゃんはまたね!ともさよなら~!とも言わない、愛ちゃんはシーユー!と言うのだ、愛ちゃんは乙女英語によって震え怯える事なくはじめて心から俺たちに語りかけてくれたのだ。


8.ウサ耳からネルシャツへ

愛ちゃんのレースのほつれ、れいなちゃんのブレスレット噴射、絵里ちゃんの壊れそうなネルシャツの隙間、飛ぶ愛ちゃんの帽子、娘。たちのダンスが娘。たちの衣装を負傷させるそのとき。


4.さゆえりれいなのMC
さゆえりれいなのMC、ふざけながら、おどけながら、いたずらしながら、笑いながら、すねながら、あらゆる乙女の仕草である~ながらしながら、さゆえりれいながまさしく「目のまえ」で「今そのとき」に大人になってゆく瞬間、さゆえりれいなの互いの脚のフォルムの移り変わり、その脚の見える風景のなかで、さゆえりれいなたちが大人になってゆくその瞬間に立ち会う。そして、それと同時に幼児化してゆく「俺たち」以外の多くのヲタどもについて。



14.愛ちゃんのシックスセンス

彼女には、我々のような凡人にはけして見えないような「何か」が見えているのです。見えている事を表明しても、見えていたものが何であるのかを言語的な力で証明する事ができないだけなのです、ここで重要な事は、我々に例えその全容が掴めなかったとしても、彼女には何かが見えているのだというその事実なのです。それは季節の移り変わりであったり、それは、たとえば舞台や映画などの物語のなかに漂う「色」であったりするのです。





13.See You〜 彼女が後ろ姿で約束してくれる時

「驚きだよ、ほんとに、ほんとに。。。彼女は、彼女はあのかわいい後ろ姿で最後の最後まで俺にさよならまたねって言ってくれるんだ、シーユー!ってかわいく叫んでから反転して彼女は階段を飛んで下りたいして去ってゆく。。。ほら、前ツアーでもひとりだけ凄くかわいいギャルな踊りを踊りはじめてしまったり。。。もう終わりだって事なんておかまいなしにまた踊りはじめてる。。。だから、俺は彼女との別れる間際の時間をどこかで楽しみにしてしまうんだ。。。だって。。。その瞬間の彼女は凄く澄んで澄み切って女の子なんだ。。。。今ツアーでは彼女、手だけをこちらに向けて振りながら去ってゆく。。。シーユー!なんて悪戯な言葉の余韻だけをそこに残して、彼女は俺の目のまえから完全に消えて去ってしまうその瞬間まで後ろ姿で俺になにかを約束してくれた。。。シーユーなんて魔法の言葉を残して」

18.ディーゼル

2010年5月16日日曜日

高橋愛 - Ai Takahashi

白と赤のストライプの靴下を纏った彼女の脚のなんてかわいいかたちだろう、マリンスタイル!だなんて言うタイトルでとても弾んで彼女が文字を打ってる、文字を打ってる、打ってる、波打ってる、彼女の視線からでしか見ることのできないその視線で撮られた彼女の脚のいたいけなフォルムが俺をもう彼女から離れることができない事を思い知らせる、ライブではあんなにも優しく地上に降り立つために、あんなに高くジャンプするために乙女を見殺すように強靱に輝いていたその脚がこんなにもか弱く右足と左足が穏やかに寄り添いあってる、ストライプの境界線を越し、触れ合う彼女の足先、ほら、めっちゃ可愛ぃ!☆、可愛いの「い」を小さな「ぃ」だなんて乙女の仕草のように小さくする彼女のその文字を打つ時の指を想像するだけで俺は彼女からもう逃げられなくなる、その時の彼女のネイルは赤く護った指なのか、黒く挑発した指なのか、利伸を聴きながら彼女の上海での写真に見惚れている、彼女の睫毛、彼女にしては化粧が濃いはずだ、けれども、彼女の強い意思のような二重の曲線が鮮やかに日差しに浮き上がっていて、俺が見つめる事のできなかった俺の知らない時間の彼女が時間差で美しさをかわいさを連れながら俺の心にまで到達してくる時に俺はすべてを祝杯するんだ、俺は、俺は、彼女の名を呟きながらその二重を撫でる、俺は、彼女の新写真集の先行カットの載っている週刊誌を眠るまえにまるで子守歌に縋るように見つめる、彼女が下着のような水着を着ている、顔は横を向いてどこか失望しているかのように、この世界と、男、そう、彼女にその水着を着せているすべてに愛想を尽かし怒っているかのようにそっぽを向いている、俺はろだに上がっているその画像を落とし、液晶いっぱいに実寸に近づかせて映して、彼女の股の膨らみの最後からおへそへの距離を指の定規で測る、その短さと、その小ささに俺はいよいよ涙を抑え切れずに、美しい美しいと嗚咽する、彼女の美しさについて乙女の最後の迷宮に迷い殺されているようで恐ろしく悲しいがどこかでとても心地よい、彼女を思うことで俺に訪れる恐怖も絶望もそのすべてが俺を生かす、俺は、彼女の女の子について大きな誤解で身勝手に彼女を拒絶していたから、だから、だから、こんなに、こんなにもきょうの彼女がかわいい姿を見せるたびに過去の自分を呪いたくなる、けれども時間は戻せない、初恋が彼女だったらよかったのに、そんな風に願う事もある、もしもタイムマシーンがあって、時間を戻せたら、俺は、かつて心から愛した女の子の結婚を阻止するなんて事はもう願わずに、あの頃ほとんど無関心という拒絶でほったらかしにしていた彼女の昔の愛しい姿に恋をするためだけに戻るだろうなんて、そんな馬鹿げた妄想で俺は俺をあやしはじめるが俺はそれを許す気はない、結局、今なのだ、昔などもうどうでもいい、俺はあの頃の彼女に恋する事はできなかったのだ、いくらあの頃の彼女もかわいかったのだと昔から彼女を愛する男たちに罵られようが、俺は、ある瞬間にほとんど驚異的な奇跡とでも呼べる程の異常事態によって彼女に惹かれたのだ、あの頃の彼女の魔法には俺は射抜かれなかったが、今日の彼女の魔法には射抜かれているのだ、だから、俺は、こう言おう、23歳だからウサギの耳の衣装がもう似合わないかもだなんて言わないでおくれ、絶対にいつかの君よりもきょうの君がいちばん似合うんだからと、さあ、弁解は終わりだ、きょうから彼女について書こう、彼女と世界と俺の事を。

2010年5月10日月曜日

よっすぃーの助言引用、その助言から強ばりを解除した結果のエロかわいい。

かの

5/10彼女が掲げた目標が既存の世界概念であるエロかわいいだという事実は、彼女がととくに通過したはずだったはずだ、ななに、彼女は掲げた、帰ったのだ、乙女に、帰ったツアーだった。

編集なんてもう

5/9

「運び屋愛ちゃん。」
彼女の素晴らしさは娘。に世界をそのまま還元させるその力だ、彼女は娘。の内側へと世界とを繋げる力を持っている、彼女の娘。魂は娘。のなかへと愛情篭城するような閉鎖的なものではない、つまり、彼女は肉体的にも精神的にも娘。に世界を運ぶ運び屋なのだ、彼女は彼女の年代の女の子の誰もが知っているような外国のイケメン俳優を知っているし、国内外のセレクトショップで服は買うし、ドメスティックブランドなんかをコーデのなかに点在させる、いくら、その事がどこかに恥ずかしさを残していたとしてもだ、娘。で居る愛ちゃんが伊勢丹に買い物に行く事も500日のサマーを観に行くことはとてつもなく重要な事なのだ、娘。の内部に深く眠りつくのではなく、世界に肉体を精神を意識を持っているという事の愛ちゃんのバランスこそが今の娘。の重さとかろやかさそのものなんじゃないか、愛ちゃんは上手な言語物語りにおいてそれを語らずとも妹たちにその事を示唆している、彼女の素晴らしいところは彼女はあくまでも娘。であるまえに一人の女の子であり一人の女なのだ、それをひたかくしにせずにあまりにも素直にその息づかいを娘。のなかに連れ込む、その事を諦めてはいない、彼女はけしてそれを手放さない、それこそ、娘。である事の条件にある異性交際云々を禁止しているなどの禁止事項というものに彼女は囲まれてはいるだろうがしかしだ、だからと言って、彼女にとってその事が彼女の乙女生命を脅かす重大な事柄ではないかのようなかろやかさが。。。。。愛ちゃんの素晴らしいところは絶対的な密度で娘。である瞬間のなかに生身の女の子で居るその乙女状況を隠す術を持たずに躍動させる事なんじゃないだろうか、つまり、愛ちゃんは娘。で居ることと乙女で居る事の断絶がないのだ、その両極のように変動してみせるオフオンのスイッチがない、このバランスこそが今の娘。の素晴らしさなのではないか、かつての愛しい娘。たちの何人かは自らの乙女細胞をも壊死させてしまう程の濃度でただ娘。になろうとしつづけついにはその反動であるかのような内部から湧き上がる乙女反乱細胞に娘。であるその状態を壊されてしまったかのように娘。を去っていってしまった、しかしどうだ、現役の娘。であるにもかかわらず、しかもリーダーであるにもかかわらずだ、外国の男(俳優)や舞台俳優にたいして「とにかくイケメンで〜」などと言った言語をあんなにも素直に連続発言した娘。が今まで居ただろうか?、彼女はあらゆる禁止事項を重篤に意識していないその乙女意識の重いかろやかさこそが今の娘。の素晴らしい重さとかろやかさに繋がっている気がする、彼女は娘。のなかに世界が雪崩れ込んでくる事を否定もしないしその事を悪だとは思っては居ない、つまり、高橋愛というその人は、娘。たちになにも禁止してはいないのだ、禁止する事などなにも無くして娘。で居る事のできる実証をその存在で証明しているのだ、娘。たちは開けている、娘。たちは閉鎖的ではない、今の娘。の愛情はかならず世界に洩れる、その事の意味はけして小さくはないだろう、愛情によって膜が張ってそのなかで抱き合うのではなく、彼女たちは、俺たちの目が、世界の目が届くところで堂々と、そうだ、あまりにも堂々と抱き合いふざけあうのだ、高橋愛というその人がステージ上でかならず「此処ではないどこか」へ視線を意識を歌う事の意味はまさしくそこにある、「愛ちゃんがなんか、客席もない、ライトも当たっていないところを観ながら歌ってたんですけど!!!!!!なんかすごかった!!!!!」あの歓喜、客席どころか、右の壁を見つめている愛ちゃん、彼女は閉鎖されたその日限定のそのコンサートのなかにあってもなおも、閉鎖的ではないのだ、彼女の表現の凶暴さとおかしさと美しさはそこにある、彼女の肉体は娘。というその状態のなかに状況のなかに閉じ籠もってはいない、だからこそ、彼女の肉体はあらゆる世界からの引用を意識的にも無意識にもやってのけるのだ、娘。でしかないその領域のダンスのなかに彼女は自らと世界の同居を歌うかのように感激したあらゆる世界の身体的脈拍を浮上させる、驚くことにそれらはどれもがいわゆる娘。的なものではけしてないのだ、そこにこそ素晴らしさはある、与えられたものを娘。領域で表現しきる事は今までの娘。たちが娘。であった事の最大の条件であり最低限の条件でもあったはずだ、ダンスが娘。たちの肉体に授けられ娘。たちの筋肉にまで届けられるまでには、振り付け師が世界から再構築した娘。に相応しく形勢したダンスにまで濾すだろう、しかしだ、愛ちゃんという人は、露骨にある瞬間にそうした他者の創造デフォルトを有無を言わさずにまったく別物にしてしまうのだ、こんな事までして、怒られたりしないだろうか?、と心配になる事さえある、そうなのだ、今の娘。のあのダンスの恐ろしさはもしかしたら、与えている者たちの思想と思考との正しさの鼻を折りかねない、娘。たちの肉体の無意識の反抗にあるんじゃないだろうか、やはり、ここでも、強度に与えられた仕草で娘。で居ることの強度よりも、娘。で居ると同時に躍動する女の子で居る事の身体的微動が与えられた娘。的動きのなかに交じりどこかで共鳴しながらも邪魔をし合いのぼりつめる競争のその震度がダンスのなかに現れてしまったかのような凶暴性こそが娘。たちのダンスの相づちなんじゃないだろうか、絵里ちゃんのあの恐ろしいまでの肉体の躍動が与えられたものをただそのまま生き映しているだけだとは思えない、あれはまさしく過剰なまでの自己の証明反乱だ、愛ちゃんをかわきりに娘。たちがそうしたおいたとでも言うのか、表現する事への狂気に移った瞬間にそれは愛ちゃんただ一人の暴走ではなくなるのが今の娘。の恐ろしさなのだ、というのは、今の娘。はアカデミックな技能者の、つまりは、与えてくれる者を与えられたそのものを打ち負かしてしまうかのように無謀な反乱とも言える残忍さをダンスの領域に孕んでいる、その事が、例え与えられた事を裏切る事になろうとも、愛ちゃんは愛ちゃんのその瞬間の肉体の直感を選ぶし、その事こそがとてつもなく感動的なのだが、周りの娘。たちも振り付け師やつんくたち与える側にではなく完全に愛ちゃんに味方するのだ、愛ちゃんに同期しいよいよ彼女たちは共犯してとんでもない領域のダンスをしでかしてしまうのだ、と、ここまで書いてきて、これは俺の思い過ごしだろうか?、どこのどの振りでそれが起きているのかなどと例を出せとか言うのであればそうした領域の話ではないので貴方は永遠に愛ちゃんのダンスや娘。のダンスの至りなど理解する事などできませんねとしか返す言葉はない、もはや、筋肉レベルで違うのだ、マイクを持つ指先のダンスでさえ彼女は毎回違う、そもそもが授かったその瞬間がダンスの完全体ではけしてあるがずがない、その事は彼女が彼女に授けたはずの「エロかわいい」なんて言う目標をとっくに忘却してしまう領域で踊ってしまう事からも明らかな事だ、と、思わせる程に、性別の彼方に身体を持って行ってしまう、「日本好きか?」という曲で浮上する性別の彼方きゅん、彼女は壮大にひらけているのだ、問題は、幕が上がったときのあのウサギの耳の折れ曲がり具合にあるのではない、その下のスカートのなかの解れにある訳でもない、そこにかたちあるものではなく、彼女のあのオーラそのものがもっとも重要なものなのだ、誰だろうか、ふとMCで、娘。の一人がこんな事を言った、「なんか会場がモクモクしてる!」、あの蒸気、あれこそ、娘。たちの意識や愛情が外側に向けられている事の証明だ、娘。から立ち込めた、俺たちから立ち込めた、彼女は娘。に相応しくはないはずのダンスの粒子を娘。に運んでくるのだ、肉体を用いて。。。今までの娘。たちとの決定的な違いは、かつての娘。にも既存の振り付けを壊しては新たな領域に咲かしてしまう子供たちも大人たちも居た、しかしだ、それらの多くはどこまでも愛情的なのだ、いや、既存の与えられた振り付けのなかでかたち化されてはいない互いの愛情をどうにかかたちとして躍動させたいと願う結果のキッスや、触れ合い、そうしたどこまでも愛情に特化した新たな振りつけの誕生だった、愛ちゃんの素晴らしいところは、けして愛ちゃんが振りを崩しながし、フリースタイルで新たに導入してみる振りというのが、他の娘。への愛情表現に特化した今までの娘。振りぶっ壊しとまったく違う領域の、

5/8

ファッショナブルのブログでの愛ちゃんの「Today’s Fashion point♪」のブランドバランス感にいよいよ惚れて、愛ちゃんの着る洋服のバランスこそが娘。と世界とを往復する愛ちゃんの距離感のバランスなんじゃないか!とさえ思いこみ一人で大興奮する。愛ちゃんという地上に点在してゆく世界のかけら。俺の知る余地も無いガールズブランドのなかに「Pants☆Diesel 」なんて文字が躍っていればそれは惚れる。「ディーゼルだって?、あのちょっぴり高級みたいなイタリアのドキュンブランドか?」。そしてコンバースきゅん。

5/7

いちばん娘。ではないと思っていたその子が、自分にとって今、この世界において、この子こそが真に娘。を娘。で居させる事のできている鍵になっている女の子であるその事実について

高橋愛その人の事をどうにか文章に書かなければいけないという事を強く意識はするがしかし、

良く言われる事ではあるが、この女の子は別にたいして昔から変化はないのだと、この子はぜんぜん変わってはいないのだと、昔からその子を愛していた多くの男が口を揃えてそう叫ぶがしかしそれは愛者の絶対的なおごりであり、変化は存在するはずなのだ、絶対に彼女はどこかで変わっているはずなのだ、その変化とも言い難いニュアンスと、変わらずにある呼吸とを繋ぐ。。。。


娘。で居るという事の神聖な脈動を計り知る事はできないがやはり、娘。で居るという事はとてつもない力を必要とするのだ、もしかしたら、娘。になる事よりも娘。で居続けることの方がよっぽど大変なのかもしれない。



それはあまりにも膨大なあらゆる時間と物語とで娘。の内膜を外側に露出させる事に似てとても辛い作業になりかねない。娘。たちが誰でもない娘。たちの手によって娘。を壊しそうになったあの頃のあらゆる事変についても参照せねばいけないはずだが、結局それは「それでもその時に娘。で居ることのできた内部の彼女率いる娘。たち妹集団は、かつてのどの娘。たちよりも幼い身体と幼い強靱な魂でそれを乗り越えた。」というような事にまで触れなければいけないのでまた敵を作りかねない。しかしだ、どうにも自分にはかつての何人かの娘。を否定的に語る事はきょうの娘。の素晴らしさを語るうえでは不可欠であるとさえ思いこんでるふしがある。なにかを誉めるときなにかを同時に貶さなければ語れない人間の知能の低さを嘆くだけの精神状態を持ち合わせてはいるが、それでもやはり、どこまでも重要なのは、ある瞬間に娘。であった人間こそが今の娘。にとって、もっとも残忍な存在になってしまったという事実があり、言い方は悪いが、ある瞬間にある娘。たちは娘。を捨てて世界を取ったのだ、これは暴言だろうか?、世界というものがずっと娘。を軽視しあんな乙女集団はただの遊びだ一過性の遊戯だなどと「もーむす」などと彼女たちを呼ぶ世界に彼女たちは去ったのだ、それでも今の娘。はそれに打ち勝ち、いや、もしかしたら、愛ちゃん率いる娘。たちの威力というのはそうしたかつての娘。たちが手の届かない領域に到達する事で自らを奮い立たせ彼女たちが君臨する事によってでしか、そうした娘。たちをも許す事などできなかったのではないか、ある種の、訣別を、肉体的な躍動による世界との接点をも、愛の重さを見出さなければいけないのだ。
彼女は異質だ?、まさか。

というか、今の娘。というのは愛ちゃんなのだ。

どこまでも愛ちゃんなのだ、この子が鍵なのだ、五期にまったく萌えずに、その中でも高橋愛という譜面が読めるというアカデミックな力を手にしながら娘。に入ってきた彼女こそが、今もなお、更新する世界の情報と美術との断絶を行わないで、アカデミックな世界からの引用を断絶する膜のなかの毒に鳴りかねないその栄養を、娘。のなかに静かに注ぎつづけついには、娘。という存在を神格的童話の乙女ではなく生身の乙女たちの躍動にまで還らせたという事を言葉にせねばならない、ある種の、愛情ゆえの自然的な閉鎖を娘。の膜が逃れていられるこの今の現状のバランス、愛ちゃんというひな鳥のような親鳥は娘。という膜のなかから飛び出しては世界でいろんなもの見ては惚れ惚れして世界に魅了されそれを娘。に持ち帰る、愛ちゃんの素晴らしい所は世界をお口のなかで身体で噛み砕くという事だ、世界をそのまま娘。の膜のなかに持ち込む事などけしてしない、いつでも世界は愛ちゃんのなかで愛ちゃんの視線と心音で噛み砕かれ娘。たちのなかに身体の伝達によって伝えられる、それがダンスの領域での愛ちゃん発の花の伝染病だ、語るべき事を拡散して俺はこうも横暴に語るが、こうした錯乱する文章のなかにひとつでも彼女の真実がきらめけば、

「愛」「きゅん」


いよいよ俺にとってのあまりにも生気溢れた幸福の時間ってものが過ぎ去ってしまった訳だ。今ツアーの終結は彼女の「春」の到来を感じると言った言葉のなかにかたちあるものとして浮かび上がっては、彼女の「始まりあれば終わりあり」また会えますよだなんて言う時間的遠距離の到来を告げる優しさで。

好きだ、愛している、抱きしめたい、という幼稚で神聖にいびってる絶対的なこの感情以外に、彼女についての言葉を悪魔的な客観性にまで逃がすように葬り去ってまでだ、彼女のついて何かを書かなければいけないという使命ではなく欲望に取り憑かれ俺は、あらゆる世界との接点を断絶し、彼女とその姉妹たちと何人かの友人との歩みとのなかに潜り込んではいるのだが、瀕死の状況にうなされるだけであり、今のところ、彼女についての決定的だと自身で崇める事のできる程の言葉などは生まれては来ない。

俺だけだろうか、彼女がそのかわいさを世界に輝かせた時に、俺は彼女の名前を呼ぶ「愛、きゅん」
なぜ俺は彼女を「愛きゅん」と呼ぶのか、なぜ「愛ちゃん」ではその時には似つかわしくないと思い込むのか、一種のファンである事の、絶対的な魅力下に降参したあまりにも解りやすい遊戯的な降参の遊びのチックなのだろうか、意味のない、誰もが陥るありがちな、無意味で熱のない、いや、どうしても、この「愛きゅん」という名で愛ちゃんを呼ぶという事自体にでさえ、あまりにも膨大な彼女たちと俺たちとの歴史が、愛してしまうまでの俺たちとの歴史が蠢いてる気がする、彼女の名を呼ぶ音に熱が宿るまでの。

愛してしまうまでの歴史?、愛してはいなかった?

「第一章 高橋愛 大嫌い または五期の不在」

そうなのだ、ここだ、現状の愛情の熱にうなされればうなされるほどに、彼女を愛していなかったどころか、彼女を嫌っていたその事実さえ語らなければ真に彼女を俺が、語っている事にはならないのだ。

大嫌いから大好きへ

俺が年老いて、その間に俺が愛する女が妊婦になり、俺の魂が俺が変わっただけなのか?、彼女は本当に変わっては居ないのか?。

彼女に甘えるように甘く溶かした彼女の呼び名である「きゅん」冷静に吐いた魂の漂いのなかに投射させる程の、強烈な身体的愛の労働に、ああ、身体的愛の労働、俺が足を踏み入れるべきなのかずっと苦悩してきた、そうだ、身体的愛の労働は俺を壊す、彼女の魅力を語ろうとすれば魂と肉体とを繋ぐ全動脈の歪みを軋ませ俺と彼女のすべてを改竄してゆく、愛していると呟くことよりも、重要な行為への責任だんなんて呼びたくもないこの行為だけが、彼女の胸の花に愛をかすめられるならば。

君の魅力を語る事を、誰にも明け渡すものか、何度呟いただろう、星空で寝っ転がる膨大な光どものクエン酸の頬張りがこの意思の内膜をまだ生かしている限りは俺は「ラブスラング」を呟いてごらんと彼女に要求し、彼女の欲望が、あの無菌にまで高められた精神の無期懲役のような筋肉質の彼女の太腿の肥大する紐の束のその構造のなかを紐解くまでに医学的な視線の挑みに、彼女の肉体のあの一瞬も揺らがない強固な意思の結界のような佇まいはどうだ、そうとも!、けれども、あの肉体をアカデミックなスポーツ医学で喝采してもまったくの無意味だ、あの肉体からして彼女は凶暴な不透明さのなかに居る、小さな身長に彼女の四肢の持つ意味を、上半身の


第一期 大嫌い

彼女について語らなければいけない事への恐怖は結局のところ、彼女に出会った時には彼女が嫌いだったという過去の事実がそびえ立ち、その精神状態に立ち戻らなければいけない。
彼女が娘。としてこの世界に姿を見せていたその瞬間から彼女を愛せた者たちへの無謀な宣戦布告になりかねないその認識こそがしかし実のところ、もっとも重大な彼女とこの世界との聖戦において、重要な鍵になる、つまり、俺は、彼女が「嫌い」で彼女が「好き」だったのだ。

大嫌いを大好きにした彼女の力とは。

女の輝きの真の魅力など、こちらの男性的精神状態と男根の疼きに由来する身勝手な参謀者なき痙攣だって事を全否定する、なぜなら、俺は、ほとんど彼女を語りはじめるその瞬間から間違いだけを犯しつづける、なぜに、今の彼女のダンスを、その表現を、己がこの世界において唯一感激し乙女の生命を召還する表現だと惹かれているのかという表明には辿り着けない気がして、ずっと避けてきた、愛している理由など、惹かれている理由など考えなくてもいい、ただ、愛しているという、惹かれているという事実だけがそこにあればいいと言える程にはあらゆる罪は雪解けてはいない。

彼女の生い立ちや、それこそ、彼女の「ただの田舎者」かも知れないと言う発言を拾い上げて、譜面が読める娘。として娘。のなかに入ってきた彼女が、4期の特に辻加護の天才的な幼児性とその















高橋愛という女の人の魅力とはなにか、

好きだ、愛している、抱きしめたい、という幼稚で神聖になっちまってる絶対的なこの感情以外に、彼女についての言葉を悪魔的な客観性にまで葬り去ってだ、冷静に吐いた魂の漂いのなかに投射させる程の強烈な身体的愛の労働に、俺が足を踏み入れるべきなのかずっと苦悩してきた、そうだ、身体的愛の労働、彼女の魅力を語ろうとすれば魂と肉体とを繋ぐ全動脈の歪みを正さなければいけない、愛していると呟くことよりも重要な行為への責任とは呼びたくないこの行為だけが彼女の胸の花に愛をかすめられるならばと思うのだ。

君の魅力を語る事を、誰にも明け渡すものか、この意思がまだ生きている限り。


第一期 大嫌い

彼女について語らなければいけない事への恐怖は結局のところ、彼女に出会った時には彼女が嫌いだったという過去の事実がそびえ立ち、その精神状態に立ち戻らなければいけない。
彼女が娘。としてこの世界に姿を見せていたその瞬間から彼女を愛せた者たちへの無謀な宣戦布告になりかねないその認識こそがしかし実のところ、もっとも重大な彼女とこの世界との聖戦において、重要な鍵になる、つまり、俺は、彼女が「嫌い」で彼女が「好き」だったのだ。

大嫌いを大好きにした彼女の力とは。

女の輝きの真の魅力など、こちらの男性的精神状態と男根の疼きに由来する身勝手な参謀者なき痙攣だって事を全否定する、なぜなら、俺は、ほとんど彼女を語りはじめるその瞬間から間違いだけを犯しつづける、なぜに、今の彼女のダンスを、その表現を、己がこの世界において唯一感激し乙女の生命を召還する表現だと惹かれているのかという表明には辿り着けない気がして、ずっと避けてきた、愛している理由など、惹かれている理由など考えなくてもいい、ただ、愛しているという、惹かれているという事実だけがそこにあればいいと言える程にはあらゆる罪は雪解けてはいない。

彼女の生い立ちや、それこそ、彼女の「ただの田舎者」かも知れないと言う発言を拾い上げて、譜面が読める娘。として娘。のなかに入ってきた彼女が、4期の特に辻加護の天才的な幼児性とその

2010年5月7日金曜日

高橋愛 - Ai Takahashi

5/8

やはり、虫ずが走る、

愛ちゃんのファッションのバランス感の凄まじさ、愛ちゃんの着る洋服のバランスこそが娘。と世界との距離のバランスなんじゃないかとさえ思えてくる。つまりは、愛ちゃんという地上に点在してゆく世界のかけら。

いちばん娘。ではないと思っていたその子が、自分にとって今、この世界において、この子こそが真に娘。を娘。で居させる事のできている鍵になっている女の子であるその事実について

高橋愛その人の事をどうにか文章に書かなければいけないという事を強く意識はするがしかし、

良く言われる事ではなるが、この女の子は別にたいして昔から変化はないのだと、この子は変わっていないのだと、昔からその子を愛していた多くの男が口を揃えてそう叫ぶがしかし、ただそれだけのはずはないのだ、絶対に彼女は変わっているはずなのだ、だからこそ、
時の移ろいと俺の移ろいと彼女の移ろいとに

それはあまりにも膨大なあらゆる時間と物語とで娘。の内膜を外側に露出させる事に似て、娘。たちが誰でもない娘。たちの手によって娘。を壊しそうになったあの頃のあらゆる事変についても参照せねばいけないはずだ、その時に娘。だった子たち、


それでも内部の彼女率いる娘。たちは、かつてのどの娘。たちも強靱な魂でそれを乗り越えた。

彼女は異質だ?、まさか。

というか、今の娘。というのは愛ちゃんなのだ。

どこまでも愛ちゃんなのだ、この子が鍵なのだ、五期にまったく萌えずに、その中でも高橋愛という譜面が読めるというアカデミックな力を手にしながら娘。に入ってきた彼女こそが、今もなお、更新する世界の情報と美術との断絶を行わないで、アカデミックな世界からの引用を断絶する膜のなかの毒に鳴りかねないその栄養を、娘。のなかに静かに注ぎつづけついには、娘。という存在を神格的童話の乙女ではなく生身の乙女たちの躍動にまで還らせたという事を言葉にせねばならない、ある種の、愛情ゆえの自然的な閉鎖を娘。の膜が逃れていられるこの今の現状のバランス、愛ちゃんというひな鳥のような親鳥は娘。という膜のなかから飛び出しては世界でいろんなもの見ては惚れ惚れして世界に魅了されそれを娘。に持ち帰る、愛ちゃんの素晴らしい所は世界をお口のなかで身体で噛み砕くという事だ、世界をそのまま娘。の膜のなかに持ち込む事などけしてしない、いつでも世界は愛ちゃんのなかで愛ちゃんの視線と心音で噛み砕かれ娘。たちのなかに身体の伝達によって伝えられる、それがダンスの領域での愛ちゃん発の花の伝染病だ、語るべき事を拡散して俺はこうも横暴に語るが、こうした錯乱する文章のなかにひとつでも彼女の真実がきらめけば、

「愛」「きゅん」


いよいよ俺にとってのあまりにも生気溢れた幸福の時間ってものが過ぎ去ってしまった訳だ。今ツアーの終結は彼女の「春」の到来を感じると言った言葉のなかにかたちあるものとして浮かび上がっては、彼女の「始まりあれば終わりあり」また会えますよだなんて言う時間的遠距離の到来を告げる優しさで。

好きだ、愛している、抱きしめたい、という幼稚で神聖にいびってる絶対的なこの感情以外に、彼女についての言葉を悪魔的な客観性にまで逃がすように葬り去ってまでだ、彼女のついて何かを書かなければいけないという使命ではなく欲望に取り憑かれ俺は、あらゆる世界との接点を断絶し、彼女とその姉妹たちと何人かの友人との歩みとのなかに潜り込んではいるのだが、瀕死の状況にうなされるだけであり、今のところ、彼女についての決定的だと自身で崇める事のできる程の言葉などは生まれては来ない。

俺だけだろうか、彼女がそのかわいさを世界に輝かせた時に、俺は彼女の名前を呼ぶ「愛、きゅん」
なぜ俺は彼女を「愛きゅん」と呼ぶのか、なぜ「愛ちゃん」ではその時には似つかわしくないと思い込むのか、一種のファンである事の、絶対的な魅力下に降参したあまりにも解りやすい遊戯的な降参の遊びのチックなのだろうか、意味のない、誰もが陥るありがちな、無意味で熱のない、いや、どうしても、この「愛きゅん」という名で愛ちゃんを呼ぶという事自体にでさえ、あまりにも膨大な彼女たちと俺たちとの歴史が、愛してしまうまでの俺たちとの歴史が蠢いてる気がする、彼女の名を呼ぶ音に熱が宿るまでの。

愛してしまうまでの歴史?、愛してはいなかった?

「第一章 高橋愛 大嫌い または五期の不在」

そうなのだ、ここだ、現状の愛情の熱にうなされればうなされるほどに、彼女を愛していなかったどころか、彼女を嫌っていたその事実さえ語らなければ真に彼女を俺が、語っている事にはならないのだ。

大嫌いから大好きへ

俺が年老いて、その間に俺が愛する女が妊婦になり、俺の魂が俺が変わっただけなのか?、彼女は本当に変わっては居ないのか?。

彼女に甘えるように甘く溶かした彼女の呼び名である「きゅん」冷静に吐いた魂の漂いのなかに投射させる程の、強烈な身体的愛の労働に、ああ、身体的愛の労働、俺が足を踏み入れるべきなのかずっと苦悩してきた、そうだ、身体的愛の労働は俺を壊す、彼女の魅力を語ろうとすれば魂と肉体とを繋ぐ全動脈の歪みを軋ませ俺と彼女のすべてを改竄してゆく、愛していると呟くことよりも、重要な行為への責任だんなんて呼びたくもないこの行為だけが、彼女の胸の花に愛をかすめられるならば。

君の魅力を語る事を、誰にも明け渡すものか、何度呟いただろう、星空で寝っ転がる膨大な光どものクエン酸の頬張りがこの意思の内膜をまだ生かしている限りは俺は「ラブスラング」を呟いてごらんと彼女に要求し、彼女の欲望が、あの無菌にまで高められた精神の無期懲役のような筋肉質の彼女の太腿の肥大する紐の束のその構造のなかを紐解くまでに医学的な視線の挑みに、彼女の肉体のあの一瞬も揺らがない強固な意思の結界のような佇まいはどうだ、そうとも!、けれども、あの肉体をアカデミックなスポーツ医学で喝采してもまったくの無意味だ、あの肉体からして彼女は凶暴な不透明さのなかに居る、小さな身長に彼女の四肢の持つ意味を、上半身の


第一期 大嫌い

彼女について語らなければいけない事への恐怖は結局のところ、彼女に出会った時には彼女が嫌いだったという過去の事実がそびえ立ち、その精神状態に立ち戻らなければいけない。
彼女が娘。としてこの世界に姿を見せていたその瞬間から彼女を愛せた者たちへの無謀な宣戦布告になりかねないその認識こそがしかし実のところ、もっとも重大な彼女とこの世界との聖戦において、重要な鍵になる、つまり、俺は、彼女が「嫌い」で彼女が「好き」だったのだ。

大嫌いを大好きにした彼女の力とは。

女の輝きの真の魅力など、こちらの男性的精神状態と男根の疼きに由来する身勝手な参謀者なき痙攣だって事を全否定する、なぜなら、俺は、ほとんど彼女を語りはじめるその瞬間から間違いだけを犯しつづける、なぜに、今の彼女のダンスを、その表現を、己がこの世界において唯一感激し乙女の生命を召還する表現だと惹かれているのかという表明には辿り着けない気がして、ずっと避けてきた、愛している理由など、惹かれている理由など考えなくてもいい、ただ、愛しているという、惹かれているという事実だけがそこにあればいいと言える程にはあらゆる罪は雪解けてはいない。

彼女の生い立ちや、それこそ、彼女の「ただの田舎者」かも知れないと言う発言を拾い上げて、譜面が読める娘。として娘。のなかに入ってきた彼女が、4期の特に辻加護の天才的な幼児性とその















高橋愛という女の人の魅力とはなにか、

好きだ、愛している、抱きしめたい、という幼稚で神聖になっちまってる絶対的なこの感情以外に、彼女についての言葉を悪魔的な客観性にまで葬り去ってだ、冷静に吐いた魂の漂いのなかに投射させる程の強烈な身体的愛の労働に、俺が足を踏み入れるべきなのかずっと苦悩してきた、そうだ、身体的愛の労働、彼女の魅力を語ろうとすれば魂と肉体とを繋ぐ全動脈の歪みを正さなければいけない、愛していると呟くことよりも重要な行為への責任とは呼びたくないこの行為だけが彼女の胸の花に愛をかすめられるならばと思うのだ。

君の魅力を語る事を、誰にも明け渡すものか、この意思がまだ生きている限り。


第一期 大嫌い

彼女について語らなければいけない事への恐怖は結局のところ、彼女に出会った時には彼女が嫌いだったという過去の事実がそびえ立ち、その精神状態に立ち戻らなければいけない。
彼女が娘。としてこの世界に姿を見せていたその瞬間から彼女を愛せた者たちへの無謀な宣戦布告になりかねないその認識こそがしかし実のところ、もっとも重大な彼女とこの世界との聖戦において、重要な鍵になる、つまり、俺は、彼女が「嫌い」で彼女が「好き」だったのだ。

大嫌いを大好きにした彼女の力とは。

女の輝きの真の魅力など、こちらの男性的精神状態と男根の疼きに由来する身勝手な参謀者なき痙攣だって事を全否定する、なぜなら、俺は、ほとんど彼女を語りはじめるその瞬間から間違いだけを犯しつづける、なぜに、今の彼女のダンスを、その表現を、己がこの世界において唯一感激し乙女の生命を召還する表現だと惹かれているのかという表明には辿り着けない気がして、ずっと避けてきた、愛している理由など、惹かれている理由など考えなくてもいい、ただ、愛しているという、惹かれているという事実だけがそこにあればいいと言える程にはあらゆる罪は雪解けてはいない。

彼女の生い立ちや、それこそ、彼女の「ただの田舎者」かも知れないと言う発言を拾い上げて、譜面が読める娘。として娘。のなかに入ってきた彼女が、4期の特に辻加護の天才的な幼児性とその

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