2010年10月30日土曜日

高橋愛ちゃん、今夜、君以外のすべてを俺のなかからかっさらってくれちゃって、マジでありがとう、君しかいねぇんだ、君が俺のmYGirlなんだ

不謹慎な俺の躍動が君に小鳥ほどに無垢な愛情をさえずっている夜が静かに砕けて砕けて大事にしていたそのすべてが逃げてゆく洩れてゆく、もうなにも残らねぇよ、なにもうまれねぇよ、君まで俺から消えていってしまうの?、その瞬間だよ、君がかすんでゆくその、その瞬間だよ、君は僕を離さなかった、僕は君を離さなかった、あの夜、君は俺を見捨てなかった唯一の女の子だった、いいや、俺はあの夜、すべてを呪って焼き払ったけど、君だけは追い払えなかったんだ、俺のなかから君を掻き消す事は不可能だった、無理なんだ、今は君だけしか愛せないんだ、24日から、君に会えた事がこんなにもすぐに粉々になってしまう、あんなに近くで君が輝いていたのに、あんなにも近くに、あの時間のすべてが、あの時間のすべてが、あの時間のすべての君が、どこかへすぐに消えてしまって、僕が忘れてしまえばあの微笑みの君はいなくなってしまうと思えばそれだけがただ恐い、すぐに会いたくなる、またこんなにも会いたくなる、あんなに会えたのに、あんなにかわいい洋服姿の君を見られたのに、こんなの会ってる事になるの?って、そんな考えの動悸巡りで、もう魂も肉体もどうでもよかったんだ、君が其処に居ればそこが何処でもよかったんだ、なぜこんなに君を想っているのか、僕は分からないと言う、即興劇、とても素晴らしかったよ、君の話す、僕の知ることのできないはずの君のいつかの夜の哀しみを怒りを寂しさを、君の罪を、君の欲望を、優しさを、僕は知ってしまった、誰でもない君の口から、そして、それを再び演じてみせる君の身体から涙から瞳から、あの時、ホットパンツにダークで無骨なブーツを合わせて、Topsはどこまでも女の子で、君はポニーテールで、そんな君が僕の目のまえに居るから、僕はただ夢中に君に無垢って鎮まって君を見つめた、馬鹿みたいに見惚れている俺が、君の感情が君の瞳を、髪を揺らしたのに気がついた、君が一から君の「衝突」の話を想い出そうとした時だった、君が妹さんとの話を思い出してゆくとき、さっきまでただただかわいくかわいく微笑んでいた君の瞳がざわめきだしたのが僕にはわかった、マイクの重さを抱いたハートのクッションのうえに置く肘で支えて、君は静かにその日の事を思い出していった、かわいい脚をまえに投げ出して組んでみたり、指を顔に触れさせて悩んだり、髪に触れたり、君の横顔、君の後ろ姿、円形だった、あの円のなかで僕は君のすべてを見てしまったみたいだった、僕が見る事を君に許されたその仕草のすべてを、24日から29日までの日を、

2010年10月18日月曜日

愛することは大変です、日常の風景が花に襲われてしまうみたいにすべての色も空気も変貌してしまいます、嫌です、恐ろしいです、なにも見えていない事の優しさを思い知ります、世界が存在して空気がそこに在って、こんなにも僕は生きてしまっている、鼓動を止めずに、なんのために、なぜに、女の子、僕は男の子として生まれた、はじめて心から憎んだ存在も君たちではじめて心から愛した存在も君たちでした、ある時には、君たちさえいなければずっと僕たちは幸せだったと思う事が本当にあるんです、太陽を無視しよう、月が上がっていても、僕は見向きもしないね、揺らいでゆく雲を綿菓子だなんて思った事もないよ、水平線なんてただの墓標だ、

2010年10月17日日曜日

女の子たちをこんなに愛してしまうとは思っと
女の子が動き出した瞬間の歓喜だけがずっとつづく、女の子はとまってた、清楚に純粋に、裾を乱すな、静かに歩け、股を開くな、女の子は動きを止められた、指先の仕草、まつげのむき、女の子は動きを止められた、娘。コンで見た娘。たちは女の子の動きの封印がとけてた、その呪いがだだもれだった、
すべての禁止された動きを動いてしまっていた、

2010年10月12日火曜日

女の子を愛せと細胞に刻まれてるなら、全身で今、ジュンジュンが日本語を放棄する、あの子はきっと、俺よりもずっと頭がいい、日本語を極限までぶりっこして、甘い砂糖に砕く、俺がコロ助の真似で娘。に甘える事とはわけが違う、ジュンは最終手段のように、ガキカメだ、ガキガメを聴く

2010年10月8日金曜日

とどめをさしてくれる女の子を求めているだけなのかもしれない、俺のこの精神が壊れる瞬間に見る君の微笑みを見たい、発狂だけを待ち焦がれてる、

2010年10月6日水曜日

ジスと愛ちゃん

ジスという女の子は今まで、愛ちゃんが演じてきたどんな役柄の女の子よりも愛ちゃんに限りなく似ていた。それでも、ジスは愛ちゃんではない。きっと、愛ちゃんがジスの声優をやらなかったのであれば「愛ちゃんに似た女優が出ている韓国ドラマがある。」いつしか誰かがその事を発見し、「愛ちゃんに顔が似ている女の子のドラマ」として、静かに俺たちのまえに現れたのかもしれない。

ジスの容姿が愛ちゃんに似ているという事だって、もしかしたら俺は否定していたかもしれない。

演じる事の季節

演じる彼女がもしもそこに居なければ、舞台「ファッショナブル」も、朗読劇「私の頭の中の消しゴム」も、ドラマ「アクシデントカップル」も、その三作品を自分は、いわゆる「芸術」という領域で展開されるこの演劇やドラマを、もしかしたら少しも、いや、正直に言えばほぼ完全に見向きもしなかっただろうと思う。

彼女が演じるという事について最終稿のように語ろうとすれば、たぶん、ハロモニ。劇場、いや、もっと、どこまでも遡ってしまわなければいけないだろうし、それこそ、リボンの騎士の彼女の事も、シンデレラの彼女の事も、エコ研、証明終了の彼女の事にしたって、私はなにひとつ未だに書けてはいない気がしてならない。


1.物語の秩序 vs 娘。 

「ファッショナブル」という演劇は、あらかじめ娘。という存在を企画の段階から包み込みながら創りあげられていった作品であったから、作品自体のおおまかな香りは、娘。の傍に隣接された物語りの形成であり、その物語のなかで展開される事柄や仕草は、娘。という存在を真に脅かすような、この世界の奥底に蠢くような残酷性を惨いまでに織り交ぜてくるなどといった横暴を遂行するような事はけして無かった。

劇中に展開される物語や言葉は娘。の肌に合っていたし、そこには見事に、世界が必要とする感情を呼び起こすいくつかの大事な魔法が散りばめられていたのだし、だからこそ、観る者が娘。に真に萌えていなくとも、世界に存在すべき物語の秩序がひとつのヒントになって涙も流せたはずだった。

だからといって、私がファッショナブルの「本」だけを読んだ時、わざわざこの心の善良な歯車を止めてまでだ、その物語に夢中になるのかといえば、絶対にそれは無いだろう、いや、ここでファッショナブルの本を貶し、娘。たちの演技を賛美すれば、それこそ、あの胸くそ悪いやり口そのままに、なにかを褒めるために貶し、貶すために褒めているという症状に陥ってしまっている訳だけれども、しかしだ、たしかに、私にとっては間違いなく、ファッショナブルがあそこまで感動的だったのは、あの世界の秩序を保ち熱のこもった物語を、娘。たちがあの感情の召還で、物語の細部に娘。たちを澄み渡らせたことではじめて、凍える程の熱い感動を浴びる事になったのだった。

私にとってファッショナブルという劇の本質が物語の「本」という領域のなかにあるのではなく、紛れもなく、舞台のうえに降り立つ娘。たちのその立ち姿であり、声であり、涙であり、笑いであり、呼吸であった。

娘。があの物語のなかに息づくという事と娘。たちが歌うというその領域がまるで同質のかけがえのない事のように思わせる程のなにかを娘。はファッショナブルにおいて、その物語を踏み台にして、そう、踏み台に、ほとんどあの綺麗な物語をあの輝きでねじ伏せて、娘。たちの他の大切なあらゆる瞬間とまったく同様に大切な瞬間にまで演劇中に娘。たちは娘。たちをただ、。とっても、俺たちにとっても、したのだ、この事が、娘。たちの恐ろしさをそのまま形作っているみたいだった。。。もっと細かく書き表してゆく事に時間を割く事から今回は逃げたいと思うのだけれど、つまり、私は、ファッショナブルにおいて、彼女が物語からも舞台からも、ましてや娘。たちからさえも、ただ一人で離脱して、どこかとんでもない領域に居たという事のおかしさとその美しさについてだけ書き留めたい、娘。がいわゆる「作品」として、それぞれが絶対的な強度を持った物語りの骨格に支えられ、一度物語の幕が上がり、そして下がってしまえば終わってしまう個別のものである事、そのどれもが、物語という肉体を強烈に掴んで離さずに存在していた事は、覆すことのできない事実であるのだけれど、しかし、その三作品を演じる愛ちゃんという存在は、まるで、それら個別の物語や舞台のうえを断絶せずに横断しているかのように感じられた、


演じる事の後遺症。。。ガキさんの王子、愛ちゃんの積みかさなって行く女の層、



ジスという女の子は今まで、愛ちゃんが演じてきたどんな役柄の女の子よりも愛ちゃんに限りなく似ていた。それでも、ジスは愛ちゃんではない。きっと、愛ちゃんがジスの声優をやらなかったのであれば「愛ちゃんに似た女優が出ている韓国ドラマがある。」いつしか誰かがその事を発見し、「愛ちゃんに顔が似ている女の子のドラマ」として、静かに俺たちのまえに現れたのかもしれない。
ジスの容姿が愛ちゃんに似ているという事だって、もしかしたら

2010年10月3日日曜日

娘。たちの自分撮り

つい先日まで私は数日間の間セルフポートレートを30枚近く撮った。
絵里ちゃんが写真集のなかで好きなカットはと言われ、口にしたのは図書館の写真だった、棚の天地で絵里ちゃんは切り取られてほとんどその肉体からもかけはなれたばしょでただ、表情だけがそこにあった、美しい、このときに、絵里ちゃんはニュートンの本を見ていたらしい、俺は以前、絵里ちゃんは乙女重力そのものだと書いた、娘。に重力をもたらしたのは絵里ちゃんなのだと、そんな絵里ちゃんがニュートンの本を読んでいるその表情が、かつてない自由のなかで輝くから俺は目眩を起こした。。。絵里ちゃんが歌う大きい瞳はどこか、地球の地面を抉るみたいに聞こえた、空にかけのぼってゆくのではなく、ずっと胸の高さで留まって、いっきに、地面におちてゆく、そんな重さをもっていた、それはちょうど、ラピュタにおける、空から降ってきたシータをパズーが抱き抱え、血の魔法が解けた瞬間にシータの女の子の重みがいっきにパズーを襲い、パズーはそのままシータを抱き抱えて、地面を抉ってしまうようにその重さを知る瞬間に似ていると思った、絵里ちゃんという女の子のリアルとはまさしく自分にとってはそういう事だった、だからこそ、絵里ちゃんは美しい、絵里ちゃんは真野ちゃんに、地面を掘り進めるとどうなのって質問をした、一周して、そう、大きい瞳の絵里ちゃんの歌声はまるで、地面を惚れない絵里ちゃんが地面を乙女掘作しているみたいだった、だきしめてぇの部分、写真集の私服での軽いエアー感、瞼のうえのシャイニーキラキラ化粧も、髪のゆるふわムードも絵里ちゃんの軽さを宿してる、しかし、翌日の「ゆるい」絵里ちゃんの美しさはどうだ、すっかり乙女の重力というオーラを醸し出し、その香る乙女光線はやがて存在の重さになってこちらに迫ってくる、リアルに感電するように、絵里ちゃんのその重さはこちらにやってくる、3Dも音響もそうだ、結局は重さなのだ、現実というのは重い、厚みと重さだ、この厚みと重さこそ絵里ちゃんなのだ、

2010年10月1日金曜日

ぼくたちの夏よ、さようなら

さゆえりふぉんれいな 
「ぼくたちの夏よ、さようなら」

この夏の光の尾が冬に掻き消されてしまうその寸前の最後の最後のその瞬間まで、夏のなかに居た娘。は絵里ちゃんだった。
6期がまるで卒業旅行のように、仕事ではあるにも関わらずどこまでも幸福そうに沖縄に撮影しに行ったその姿を俺たちはさゆのブログ更新でれいなちゃんのブログ更新で知ることができた。

そして、さゆとれいなちゃんは絵里ちゃんよりも先に東京に帰った、娘。首都に、娘。たちの街に。
さゆは言った、沖縄に残った絵里に何度もメールを送ったけど返事がないのだと。
マネージャーから送られた絵里ちゃんの写真をさゆはブログに載せる、うれしそうに、うれしそうに。
れいなちゃんは塩味のチョコレートを絵里にもらったって、うれしそうに、うれしそうに。

沖縄にひとり残った絵里ちゃんが撮影を終え、東京に帰るその時の姿をマネージャーさんが深夜にアップしたようだ。
俺はそれをさっき見た。

「沖縄、ありがとう。
の、写真。えりりん。
ポイントは右手の、まくらだそうで。。待ち受けにでも!笑。
#morningmusume 。 」




「ポイントは右手の、まくらだそうで。。」

絵里ちゃんはどんな口調で、どんなお顔で、その言葉を放ったのだろうか。
手のひらではなく、絵里ちゃんはあのピンクの、ピンクのまくらで、いつも娘。として旅するその時にはかならず連れていたピンクのまくらで、この夏にさよならをしたようだった。
絵里ちゃんは後ろを向いているから、その表情が見えなかった。
さよならする絵里ちゃんの後ろ姿、絵里ちゃんのお顔は見えなかった。

「ポイントは右手の、まくらだそうで。。」

「アデュー・フィリピーヌのラストみたいだ。絵里ちゃん…」

秋を通り越して冬になってしまった東京に絵里ちゃんは帰ってきて、きょう、写真集の握手会を行う。
俺はそこに行かないし、絵里ちゃんに、「絵里ちゃんはずっと俺のミスキャンパスでした」、その言葉も言ってあげられない。
どうか、どうか、絵里ちゃんを愛する人々よ、絵里ちゃんに優しい言葉を、絵里ちゃんにぬくもりを、絵里ちゃんに愛情を。

絵里ちゃんが東京に帰って来た。

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Dear Morning Musume。 君のキャワキャワをキャッチだぜ!