2011年9月14日水曜日

2011-09-08 11:27:58 MoRning Musume。New single!!!!! テーマ:M。 Loooooook!!

娘。の新曲へのメモ、秋ツアー、愛ちゃん、秋

更新があまりにも断片過ぎて読み辛い、自分しか読み取れない完全なメモの段階、後に並び替え、しっかりと言葉を直し、書きなおすこと。

http://www.youtube.com/watch?v=TmnnmkStU2c&feature=youtu.be

やばい、愛ちゃんも「地救~」をもらった時にはOnly youのような曲での卒業を望んでいたと、けれども歌い踊ったら変わってきたと。。。

重なる想いすぎる

もしかしたらハロコンで俺が見た時にはまだその想いの名残を愛ちゃんは踊ってしまっていたのかもしれない、今の地救~はその想いが昇華されてる、この短期間においてだけでも、地救~という曲はとんでもない変貌を遂げ続けてる、どんどんどん。。。

本人は気づいていない、という領域はたしかにある、Only youの手段と地救の手段ははたしてそんなにも両極を示すような対極の星だろうか、地救を歌い踊る娘。の素晴らしさは、Only youのそれとほとんど同質のなにかでしでかしてしまっているという事なんじゃないのか、曲のコンセプトに歩み寄ったのではなく、曲そのものを娘。たちへと引っ張りこんだのではないか、かっこいい色としてのダンスではないのにも関わらずそれとまったく違う色で到達しているという事なんじゃないのか、

れいなちゃんの感情移入、シルバーの腕時計

それのれいなちゃんを目撃するまえにれいなちゃんの感激する日記を読んでいたのだから、れいなちゃんがこの曲をどんな風に歌うのかがとてつもなく気になってはいた、ただ、冒頭のピアノフレーズに合わせて男が英語で語りはじめる音を聴いただけで「Haru Haru。。」そう悟った。
言うなればそういう感情移入だ、れいなちゃんが日記に何回か綴るその感情の大きな揺れが、その震度が歌声に宿るような凄まじくそれはまるでれいなちゃんの弱さ、弱み、弱点のように響き灯った歌声だった、俺は泣いた、泣いたが、その傍らで歌うりほりほの歌声を聴いて、ああ、この子はダンスの子ではなく歌声の子かもしれないと思った、大変いい、問題は。。。。ガキさんだ、ほとんどれいなちゃんとりほりほの美しい歌声世界観のなかに不穏に紛れ込んできた死神のように、ありえない本気ラップで侵入してくるのだ。。。。その瞬間、俺は大きく爆笑なわけだ、ドイツ軍な軍服っぽい格好、フードを深々とかぶり、その姿はほとんどホームレスラッパー。。。。シルバーの腕時計、ハンパねぇ、


りほりほの怪我

娘。のダンスというのは一度踊ればたぶん寿命が磨り減るという命を削りながらに踊らなければいけない凶暴な譜面でできてる、譜面通りに舞えば四肢が胴体を壊すし、髪が首を鞭のようにうつだろう、ララバイゲームでのサビのダンスはほとんど流れ星に正面衝突するようなものだ、Only youという曲のダンスの譜面を譜面通りに踊ればかならず身体は壊れるに決まってる、りほりほは譜面を読む人だ、これは、彼女がそうしたダンスの系譜を帯びて踊りをしてきた人であるからしょうがない癖のようなもので、しかし、それがとんでもない命取りになる、というのは当初、りほりほを絶賛する論者の大半がりほりほがあの小さな身体であの歳で、娘。のいくつかの曲を踊れているという見解をもって賛美していたが、あれはまったく踊れてもいなかったし、むしろ、傍らで踊る愛ちゃんやれいなちゃんやさゆのダンスを見てもなおも、踊れていると見解してしまう人間たちというのは悪いが、絶望的に娘。の踊りを見るというセンスに乏しい人間たちだとしか言えない、あの瞬間にあっても譜面の応用で上手く踊ろうとするりほりほよりも圧倒的に美しかったのは、ほとんど娘。の暴力としか思えないようなへんてこな仕草のダンスを困り果てながらそれでも踊りつづけるりほりほのダンスだった、こうやっていつでも娘。を愛すると豪語する多くの人間が娘。の輝きの真実を見当違いに把握して賛美する事でそれが大きな災いの形に現れる事がある、愛ちゃんの凄まじさは与えられた凶暴な譜面を改竄し手懐ける事ができるそのremix感覚にある、愛ちゃんが語る通り、与えられた瞬間としてのダンスを覚えるは娘。のなかでも断トツで遅いが、覚えた後にそのダンスの領域の形を徐々に変えてゆくという事においては誰よりも巧いと思うと、流れ星のに正面衝突するような譜面であるならば、愛ちゃん肉体を発動させ流れ星側へと向かうのではなく、その衝突のロジックの筋書きを肉体で改ざんしてしまえばいい、肉体のなかで流れる身体運動の筋書きは違えど、いきつくエンドが一緒ならばいいのだ、ここで愛ちゃんは優等生ですらなく、教授どもが与えてくる譜面に描かれている肉体躍動公式を花でリメイクしていくのだ、そのダンスがいつも美しい、これはたぶん乙女という存在はいつでも休憩する時にこそもっとも美しい仕草をするのだという領域のダンスであり、俺は踊る愛ちゃんが水浴びをするように休憩しているダンスを遂行しているのをいくども見た、踊る事で空間から湧き出た透明な水で愛ちゃんは水浴びをしていた。。。これは愛ちゃんがツアーTの襟を裁断してしまう事にも似ている、愛ちゃんという女の子はそういったおいたをダンスでも歌声でもしてきた、愛ちゃんこそ大人たちに気付かれないように表現のうえで娘。校則違反をしてきたのだ、りほりほは真面目すぎた、りほりほは娘。の凶暴な譜面にあの小さな魂と肉体で正直に挑み過ぎてしまったのだ、たぶん、他の小さな子は、今までの新メンはその挑戦すらできなかったはずだ、小春は本能でそれを回避した、「こんなんちゃんと踊ったら小春死んじゃうじゃん」、そこにりほりほは挑戦できただけでもその可能性は計りしれない、りほりほは怪我を直して戻ってきた、ここからだ、りほりほは娘。たちのダンスに壊されてしまった、そこから娘。をはじめる女の子、


愛佳の怪我。

愛佳の不在の原因は、かつての娘。たちが個人的なダンスの躍動やなんかで肉体的な失態において陥る病的な怪我では絶対にない。
病名を信じないし、カルテも信じない。
ほとんど愛佳の怪我は、愛佳という女の子が娘。になってきてから背負続けてきた重さだ、それが脚に現れたが、愛佳の怪我が愛佳個人の怪我ではなく、娘。という女の子集団の怪我にしか思えなかった。
小春がまだ娘。にいて、絵里ちゃんやジュンリンが居たあの頃からのすべての娘。の重みをいちばん奥底で看病していたような愛佳がたぶん、その病に選ばれてしまっただけなのだ。
愛佳は愛佳個人の不注意で怪我をしたんじゃない。
愛佳の怪我は娘。の怪我だ。




「彼」という曲は、さゆちゃんの「さみしくて」という歌声ではじまる、とにかくこの歌声だけで泣けるのだ、さゆの歌う「ちょっと」の「ちょ」の歌声の濃厚なかわいさへの収縮、これが精神が崩壊しそうなほどに素晴らしい、れいなちゃんの「うん」(どうもこの歌声がさゆにも聞こえるのだけどどうなんだろうか、わけがわからない)歌声を通過して、またさゆちゃんが「いとしくて」と歌い出す、もうだめだ、もうだめだ、

さゆは「パソコン~」の部分をつんくさんたちにねだったの!?と言っていたが果たして、さゆが言うように、さゆにねだられたからパソコン~の部分をさゆに歌わす事にしたのだろうか?、絶対にそうではない、さゆでしかありえないその確信のもとにこの曲ははじまるのだから、


地救という曲と彼という曲での娘。たちの移動、上空を滑空する鳥たちの一列の翼のような形成も、羊飼いの少年に悪態をつきながら自由にかけるメス羊の駆けも、風の離散も、この二曲での娘。たちのフォーメーションは10分間をかけたようやくたどりつける広がりだ、女子高生たちが街で横にただ並んで空間を占領してるだけの横暴とは違う、朝方の女子大生の点在しながらに舗道を満たす破片てきな煌きとも違う、女たちが群れをなし広がり集まり呼吸するというその可能性の究極的な至だ、娘。たちというのは細胞レベルに至れば兆の数のフレームによって囲まれてるはずだ、眼球でさえ何段階ものフレームに囲まれ合い形つくる、だから、れいなちゃんのあの瞳があの巨大な黄色い眼鏡に囲まれた時にどこまでも静かにれいなちゃんの瞳がありえないくらいの純粋な大きさとしてこちらに迫ってくるときに、

9/14

この秋ツアーの愛ちゃんが素晴らしいのは、冒頭のミスムンからもはや他の娘。たちとは異質にひとりだけステージに出発する瞬間と立ち位置と形相とが違うというとてつもなく残酷な現実と闘いながらにステージに出現するという戦いからはじめなきゃいけないというその事態だ、この秋ツアーでは愛ちゃんは卒業パレードをまえにしてコンサートが高らかにはじまり娘。たちの群れがついにステージ上に現れて、観る者が娘。たちの姿をひとりひとり認めようと試みた瞬間に「あれ?、愛ちゃんがいねぇ!」となるような、娘。から不在になっているという状況を時間系列に逆らう形で、今まさに娘。に加入してゆくかのように、ステージ上に高橋愛という娘。だけが不在になり、シャンデリアのイメージのもとで踊りながらに他の娘。たちが愛ちゃんを全身で呼ぶという、そうだ、あの瞬間の愛ちゃんを無くした娘。たちのダンスが素晴らしいのは愛ちゃんを呼ぶという愛ちゃんを召喚するという踊りしか踊ってはいないからだ、あの娘。たちの踊りは完全にかつてのミスムンではない、そしてついに、愛ちゃんが娘。に合流する、愛ちゃんが娘。にまさに今加入してみせるという逆流させ巻き戻し娘。時間を真実の今に修正するというその報復だ、この秋ツアーは、愛ちゃんが5期として娘。になったミスムンという曲の冒頭に愛ちゃんが娘。のなかに「ひとりぼっち」で合流する瞬間からはじまる。

歴史が物質的に溶け出し肉体と化して流れだす。



これは愛ちゃんのデザインする「M。」の融解に似ている。




この登場が途方もなく美しく愛おしいのは愛ちゃんが娘。になったその瞬間に打ち勝っているその情景だからだ。娘。になれた瞬間、娘。になってしまった瞬間、幸福であり不幸であるその瞬間と愛ちゃんが訣別することなく出会い別れようとしているその姿だ。

自身が事実として娘。になったはじめての娘。の曲であるミスムンに再び「やってくる」というその姿からずっと貫く娘。になったという瞬間の理性にある、愛ちゃんを除いた娘。たちだけが姿を見せるミスムンの冒頭にシャンデリアの影のなかに愛ちゃんの意識はふつふつと予告をはじめ、これから訪れる途方も無い不在を瞬間的に宣告するかのような瞬間的な不在から愛ちゃんが現れる、不在のなかから愛ちゃんが現れるというとんでもないこの歓喜の瞬間でもなおも、右手には顔にあてがうこともない仮面舞踏会のマスクを持ちながらあ現れるという、かつて高橋愛という女の子が遊ぶことも瞳をとろけさせる事も君臨する事も理性で撃つ事も知らなかった5期になったというその瞬間を今一度真実に更新するかのような、娘。のなかに現れるという瞬間の姿だ。
理性、理性、娘。という乙女たちのもっとも理性的な姿、
ミスムンではじまる
このツアーでの愛ちゃんのダンスの領域の理性の発火、ミスムンのあとに歌い踊るのが新曲二曲であり、そこで愛ちゃんの瞳のなかで静かに宣言される、表現しながら「イッちゃう」ような甘くとろける瞳をしてはらならないというような、娘。として踊り歌う事の億千の法律を愛ちゃんが肉体に綴りながら踊っている事だ、一見すれば無法地帯的に動きまわる乙女集団にとてつもない数の法律があるという事を愛ちゃんは動きながら示してゆく、胸のなかの法律が焼け爛れ花の灰になってしまう危うい欲望の到来するであろうリゾナントやOnly youでも新曲二曲で愛ちゃんが唱えた法律を寸前で破ることはない、いつでも狂気では無く理性だった、愛ちゃんの恐ろしい花の形相は狂気に寝取られるのではなく狂気を討つその理性の形相だ、この秋ツアーのリゾナントでの地救騎乗が感動的なのはほとんど俺からしたら用意周到に愛ちゃん自身が演出してきた肉体がいつしかダンスから墜落するという事態を、その恐ろしい緊急事態を、愛ちゃんがまだここでも突発的な事故である墜落として世界に表現している事だ、あの瞬間、墜落するというそのスリリングな演出を企み支えている足首を凝視していれば誰もが気づくだろう、墜落に向けて用意する肉体の静まりギュッと内ももに力を入れる仕草の可憐さ、あれこそ踊るという理性の音だ、しかし、ほとんどの観客はそこを見てはいない、愛ちゃんが見せないように上半身でその下半身の企みを隠しているから、だからこそ観る者にとってあの墜落は突然なのだ、あれは墜落のまえか後か、愛ちゃんは散々地面を足踏みで一人だけ強く踏み続ける、あの恐ろしい美しさ。。。。。またもや映画の話を持ちだして申し訳ないが、スコリモフのエッセンシャルが感動的だったのは、冒頭からずっと突発的になにかが容赦なく起きてしまう、または起きてしまった事に対向するすべなく男が起こしてしまう途方も無い出来事の連続性のその残酷さだった、散々なにかが起きる事を撮ってきた映画が最後に撮したのは男が乗っていた白馬だった、男は乗ってはいない、白馬だけだった、白馬のうえには男はいない、ついに生き途絶えて墜落してしまったのか、馬から降りただけなのか、そのシーンの手前で寝てしまった俺だから、男が落馬する、もしくは馬から落ちてゆく、そのシーンをもしかしたらその瞬間を撮っていた映画なのかもしれないが、俺は観ていない、もしも俺が観ていないようにこの映画がその瞬間を撮っていないとすると、エッセンシャルでもっとも歓喜したのは飛散な出来事の集結するその瞬間を映画自身が撮ることができなかったという映画的な突発的な事故だ、散々男の飛散な突然に不幸に見舞われる姿を見てきた映画を観る者が最後にその男以上の突発的な不意打ちを食らう、不可視という撮られていない瞬間を観るという突然の課題を、あの映画がその瞬間を撮らなかったという事を選んだ美しさ、いったい、男はいつ白馬から降りたのか、墜落したのか、スコリモフの映画のなかで人間は転げ落ちるし墜落するし飛び乗るし飛び降りる、不戦勝でのスコリモフ自身の電車からバイクに飛び乗ってみせるあの伝説のアクションシーン、エッセンシャルは絶望的なまでに最後の最後にこのスリリングな瞬間を不可視させる事の映画だった、映画の画面のなかに映る視覚可能な可視可能な白馬が雪を食べるそのイメージとともに我々がその瞬間永延にと想像しながらまるで、イメージの外で輝くイメージのようにさんざめくのは男の最後の突然、映画のなかからの失踪する姿のイメージだ、素晴らしい。。。。。。愛ちゃんに話を戻すが、俺は愛ちゃんのリゾナント地救騎乗を見てエッセンシャルのそれを思い出す、リゾナントの地救騎乗がここに来てまたもや変貌をしてみせたのはスコリモフのアクションシーンの変貌に似ている、その葛藤のダンス、この秋ツアーで地救騎乗がもっとも美しい瞬間は騎乗時でも墜落時でもなく、再び静かに立ち上がる時の愛ちゃんの脚の力の込め方だ、肉体との対話、俺たちの歓声をも瞬間的に自身の肉体の次の動きえと反応させる本能と理性の共犯的な静かな遊戯、衣装を着てもなおも裸のように剥き出しになってしまう身体の透明性と歌声がフレーズ単位の意味をも超えてあらゆる言語を響かせてしまう音の無指向を愛ちゃんはかつてない理性で制御する、娘。たちには譜面はないが、それぞれの譜面が踊りながらに体内で形成されてゆくようだ、剥き出しの表現をコーデするように愛ちゃんは理性の服を着ながらダンスする。




9期メンは娘。たちが写真撮影をする時に、お姉さんである娘。たちの隙間に侵入し映り込む事ができる娘。たちだ。かつてのれいなちゃんのように。

また、ハロプロTIMEの事も書かなければいけない。

愛ちゃんの蝋燭、娘。の蝋燭、

待ち合わせ、だからいけない、ツイッターなんかに書いてもなんの意味もなかった。
あのドブ川から俺の言葉を取り戻せ。

9/13

さゆとれいなの距離。さゆにとってのれいなちゃん、さゆにとってのれいなちゃんの娘。としての大きさ。さゆがれいなちゃんに出会う。小春というさゆを顕微する距離視線がトラウマのままに終わってしまったかのように見える今、さゆはれいなちゃんを愛しはじめてる、さゆの大好き大好きな絵里という交わり重なる程の距離の人、愛ちゃんという大らかな距離の人、オフでは一度も遊んではいないというれいなちゃんとの距離、かつてれいなちゃんの福岡弁につられてさゆは山口弁を喋ってしまう事があった、さゆにだけ発動するれいなちゃんの引力、さゆとれいなちゃんの距離。

島、遊牧民、豪華客船、

娘。の新曲二曲の断絶のない繋がりの美しさと愛しさと感動的な情景は「地球~」と「彼~」がなにか娘。たちが表現という術で航海するその瞬間のドキュメントであり歌い踊り娘。と成るその表現という手段でしか海を動きまわることができない娘。たちは曲という一緒の嵐天災でもあり人災でもある曲という強敵に、いや、娘。という強敵に、表現の移行をもってして立ち向かっているその歌声のダンスの光景だ、娘。船という聖地は移動しながらに四方を剥き出しにしている、この曲の横暴な企み地雷に誰がどうやって身体で立ち向かうのか、突っ込んでいく娘。、その娘。の脚に小指で身体を結んで「海」に落ちないように表現の理性で支える、ほとんど命がけの応対は、娘。の身体の運動の全量が娘。の肉体もろとも海の底へ落ちてしまわないように墜落しないように反応し合う、宇宙そのものを航海してみせた「地救~」での娘。たちの身体が宇宙に投げ出されるのをあまりにも美しい応対で、そうだ、曲の宇宙の刃先に娘。の宇宙の刃先で立ち向かう事を愛ちゃんはいよいよ拒否した、曲そのものを、緩やかに子供扱いするかのような愛ちゃんのその態度、その応戦でいよいよ愛ちゃんは娘。たちを地上に還した、自らの表現の臨海の宇宙に娘。たちを連れ去るのではなく、愛ちゃんは娘。たちをついにそれぞれの娘。たちの姿そのままに地上に帰還させたのだ、さゆとれいなちゃんが娘。宇宙の航海のなかで同時になにかを見つけているかのような眼差しとダンスと歌声の頷き合うすべてが、そこからはじまる「彼~」で大爆発する、その歌声からすべてがはじまってゆくようなさゆの産声は、愛ちゃんがいなくなってしまった娘。という地上にはじめて雨を降らすかのようにそのかわいい産声のような歌声を降らす、こんなにも感動的なのは、「愛ちゃんが抜けたモーニング娘。なんて想像できない、たぶん娘。という光は崩壊するだろう。」と誰よりも恐れた娘。であるさゆが、娘。という地上に若くはじめて心から芽生えた母性で母乳を与えるかのように涙のかわりにさゆの魔法のすべてを精製したかのようなそのかわいい歌声を降り注いでいる事だ、その歌声の願いを意味を誰よりもまっさきに悟って頷きなついいてさゆのその無謀な放線の軸にでもなるように(れいなちゃんのフラフープ身体、れいなちゃんの歌声のその身体の軸でさゆのかわいい歌声がぐるぐるんまわりつづけついに二人の領域が地上に花を咲かす)、全身全霊で反応するれいなちゃんの共犯、さゆの「かわいいの知恵の輪」はさゆがどんな思考しても解くことはできない、俺たち男が思考してもだ、「彼」があまりにも感動的なのは、もしかしたらさゆのかわいいの輪が解けているみたいに思えるからだ、さゆの解ける事のないかわいいの輪の歌声をれいなちゃんがフラフープを回すかわりにあのヒップワークでその身体で回してあげるとき徐々にさゆのかわいいの輪が解けていってその傷からさゆが「かわいい」という言葉に秘めていた全想いがれいなちゃんの身体に染み渡り、れいなちゃんの歌声がさゆを抱きしめているように思えるのだ、どう考えてもこの二曲は凄まじい、「地救~」は娘。が娘。宇宙を娘。表現で航海する曲だ、そして「彼~」は地上に降り立ち、娘。たちがいままた、ただ静かにかわいくかわいく歌を歌いはじめそのかわいい声はさゆとれいなちゃんの冒頭の切り返し反復歌声やり取りみたいなのは同じ目線で娘。というものを歌声で見ているその歌声の位置の美しさだ娘。として歩き出したその一歩の歌声のように二人の歌声は娘。として娘。のなかを歩き出す、そのかわいい声にそのかわいい踊りに他の娘。たちも歩み出す、ただひとり、曲のある瞬間から歩く歩幅を緩めながら静かに消えさってゆく愛ちゃんのさよならのかわりの歌声(それに、Chorus:AI TAKAHASHI、という声はきっとこれから太陽のように娘。を見守る)、娘。が地上に帰還したその瞬間の歌だ、娘。は宇宙から帰還する、旅だったのは愛ちゃんだけではないのかもしれないというその事実が、なぜ、こんなにも涙が出るのかと言えば、愛ちゃん以上にさゆとれいなちゃんが娘。として娘。に旅立とうとしているから、娘。に旅立たなければいけないその瞬間は卒業以上に重要な瞬間だ、愛ちゃんがリーダーになってあの時、愛ちゃんは娘。に真に旅立たなければいけなかった、あの旅立ちが娘。をここまで連れてきた、あの瞬間と同様に、今、さゆとれいなちゃんは娘。に旅立とうとしている、その感動なのだ、その感動だ、娘。に物語はある、その感動なのだ、「彼~」これからの歌だ、

りほりほのインディアンの幼女のような混血児のような娘。に迷児しながら小さくなついてゆく呼吸、Only youからのガキさんのあの肉体そのものを旗が降りる瞬間のように躍動させる娘。になにかのスイッチを入れるようなダンス、ふくちゃんの不敵さ、生田の動揺しながらに娘。になろうとしつづける過激な籠城、鈴木の辻ちゃんをも無意識に記憶しただろう理性しながら自分を放り投げる意志、愛佳の壊れた脚、愛佳の壊れない心、この季節の愛佳のこの不在ではない娘。への存在の仕方は愛ちゃんにとっての愛佳の存在の仕方にとても似ている気がする、



今の娘。は一定の場所に楽園的に永遠に根を生やしいつまでも世界に発見される事を拒むような閉鎖的な乙女孤島ではない、むしろ楽園化する事を拒むためのあまりにも実際的な肉体の経済、蠢き、魂の生活的、生態的な生きる島だ(だからこそ娘。が一年に一度、孤島であるハワイに旅立ち、うつつをぬかす姿が、それだけで俺に寂しさと感動を与えつづける)、夢の時間にも到達できずに楽園にも閉じる事のできないただただ命を機能する事しか許されなくなった女の子たちの生の漲りに他ならない、今の娘。の現状というのは一度、大きく発見された大陸が、地殻変動を起こしながらに空を地上にしたり雲で蜜を編んだりしながらに、娘。という島を発見したと思い込んでいる者たちに新たな真の発見をせがむ凶暴な島だ、娘。というのは乙女という魂と肉体の民族移動の全景に他ならない、動く島、なによりも恐ろしいのは娘。は「隠れない」し「閉じない」、娘。が屋外にいるか屋内に居るかなどほとんどもう関係のないことだ、愛ちゃんは旅達、愛ちゃんは停留しない、愛ちゃんは常に移動している、動き回る、散策者、捜索者、探索者。。。。。。。。シ。。。。。ネ。。。。マ。。。。。。。。。。。ゴダール。。。の。。。。ソシア。。。。。リスムの。。。。。豪華客船。。。。の一連のシー。。。。ンのあの映像が絶望的に美しいのは、。。。。。。。。資本の比喩であろうあの蠢く海に。。。。。。。。。。無防備に巨大な棺桶のように豪華客船が行方を定める事もできず(行き場所は常に定まっていたはずの乗り物が)。。。。。。。。に漂いながらにその棺桶のうえ。。。。。。。。。。に居る人間の身体のどよめきと振り付けと。。。。。。脚色と。。。。。。存在し得ない行動でしか。。。。。。。。。。。なにかを示す事ができなくなったその光景だ。・。。。。レオ・マッケリーの邂逅のように。。。。人類はもう豪華客船を。。。。。描けない。。。。。。。。。













22時31

見惚れて君の胸に触りたくなって唇に愛を告げて瞳のなかに溶けてしまいたいって願う君に恋する男の俺を今だけは黙らせたい、君が好きだ君が好きだ君が好きだ、愛を語るよりも君のその美しさを綴りたい、
君が泣かないっていうように、君が泣かないって言うなら俺は君に好きだって感情をじゃくらない、そうだろ、そうだろ、踊る君見惚れる俺、


■ずばり、高橋愛とは何ですか?

なんだろ…逆に教えて欲しい。





今の自分には冷静に一切の逸脱、吃り無く、娘。の事を書くという事はできない。
だから、万人に理解され、頷いてもらえるような娘。を語る言語を綴りたくともできそうにない。

それでも、たぶん、自分しか証言する事のできないなにかがかならずある。
散らばって、意味を成さない、錯乱した言葉が溢れると思うが、
その破片のなかにひとつでも、ただ娘。の真実を、愛ちゃんの真実を語る事ができたらと思い書く事にする。

ここでは、分裂病的に人格も破裂し、視点も思考も左右に上下に散らかる、読む者に、それらを拾ってもらうだけでなく、その剥き出しの言語の汚れと傷を修復してもらい翻訳してもらわなければいけないだろうというとんでもなく卑劣な文章行為でしか発信できない事に深くお詫びを申しあげる。

壊れる思考よ、散らばる言語よ、集まれ、集まれ、娘。に。娘。を。娘。よ。

9/11 大阪 夜公演

「友」を歌い終えた愛ちゃんとれいなちゃんの衣装のアクセが繋がってしまった。


圏外ごめんね、俺、Only you後遺症だったんだね
圏外ごめんね、俺、Only you後遺症だったんだね
圏外ごめんね、俺、Only you後遺症だったんだね

圏外ごめんね、俺、Only you後遺症だったんだね
圏外ごめんね、俺、Only you後遺症だったんだね
圏外ごめんね、俺、Only you後遺症だったんだね
圏外ごめんね、俺、Only you後遺症だったんだね
圏外ごめんね、俺、Only you後遺症だったんだね
圏外ごめんね、俺、Only you後遺症だったんだね
圏外ごめんね、俺、Only you後遺症だったんだね圏外ごめんね、俺、Only you後遺症だったんだね
圏外ごめんね、俺、Only you後遺症だったんだね
圏外ごめんね、俺、Only you後遺症だったんだね
圏外ごめんね、俺、Only you後遺症だったんだね
圏外ごめんね、俺、Only you後遺症だったんだね
圏外ごめんね、俺、Only you後遺症だったんだね

圏外ごめんね、俺、Only you後遺症だったんだね
圏外ごめんね、俺、Only you後遺症だったんだね

圏外ごめんね、俺、Only you後遺症だったんだね
圏外ごめんね、俺、Only you後遺症だったんだね

Only youの後に出された「この地球の平和を本気で願ってるんだよ!彼と一緒にお店がしたい!」という二曲が娘。たちの踊り歌う姿のもっとも凄い到達だという事に異論はないと思う。

ここで俺が語らなければいけないのは、高橋愛という女の子が「表現する」という領域からついに、ただただ娘。としての真の躍動にこの曲をもってしてはじめて到達したのかも」しれないというたぶん、10年も愛ちゃんを中心に娘。を見ている彼女への愛に一ミリの歪みもない人間からしたら残酷でほとんど今まで、何も観ていなかった、または見えていなかったと罵られるだろう事を俺は語ろうとしている、が、俺からしたら本当に、現実に、なによりも現実に、娘。はこの曲をもってしてはじめて娘。に到達できたのかもしれないというその感動をこの季節に思える事の歓喜、その美しさの全貌を俺はせめて、言葉にしたいと思うのだ。
馬鹿な事を言おう。
Only youではまだ愛ちゃんは娘。ではなかったのだと。
Only youではまだ娘。たちが娘。ではなかったのだと。
ついに愛ちゃんが娘。を見つけた気がする。

娘。というものがどんな乙女集団であり、あんなにも木っ端微塵にそれぞれの強い色を帯びて手放す事のない乙女たちの集団の全貌を見せてくれと誰かが望むなら、新曲の二曲を。

娘。を知る者にも、知らぬ者にも、新曲の二曲を。

なぜにここまで感動的だと言えば、マジすかがあってOnly youがあって、ついに新曲に到達したという事。

「秋ツアーは、シャンデリア(俺たちの知っている視覚的イメージではないが、このシャンデリアこそ愛ちゃん)が映り、愛ちゃん不在のミスムンからはじまり、やがて愛ちゃんは娘。たちのもとにやってくる」

表現する事に四肢の末端までそれこそ「見えないところにも気をつかうのがファッションなんやよ」と靴下を鈴木に見せて語る愛ちゃんという女の子は目に見える可視領域のずっと奥を踊るからこそ微笑む表情の奥で泣き喚き、静かに厳しく微笑むことを禁止した四肢が優しく微笑むという不可視の花の造形を躍りながらに彫刻する事ができた、たぶん、肉体をその場で「現実」に「現象」にしながら本人でさえ見つける事ができなかった高橋愛という表現する女の子の捜索を永遠と続けていたのだ、Only youまでは。

「娘。の高橋愛」として勇ましく不敵にかっこよく舞う事を誰よりも意識的に捜索していたのが高橋愛という捜索者であり、その捜索は他者から観れば半ば狂気にも似た香りを孕んでさえいた(まるで彼女が見つけた唯一の罪のように、それはいつも、少しだけ少しだけ酷かった、即興劇で泣き喚きながらダンボールを蹴り潰す残酷さが確かにその表現する意識のなかにはあった)、リゾナントでついに地上に膝をついて崩れ落ちてなにやら微動しながらに地上に騎乗してみせたあの伝説的な瞬間を高橋愛という人が踊ってしまったのはいったいいつの事だっただろうか、あの動きを彼女自身が発明したのかどうかはわからないが、この表現を踊る彼女をあの時に見つける事のできた発見者であり目撃者である何人かの男たちはその瞬間に、高橋愛という娘。がなにかとてつもないライフワークを密かに抱いている事をその欲望をその表現の企みとその意志とを知らされ、これからはその瞬間を見つける事でその表現の共犯者になるんやよという約束を、互いに気づかぬうちに約束したのだと思う、Only youという曲がこの世に生まれたのは間違いなくあの瞬間があったからこそであり、彼女の孤独な表現の一瞬はその後の娘。の曲にいつしか表面的に大きな色として流れ込んでくる事になる、娘。たちもそのながれに生身の身体で魂で聖戦するという凄まじい領域がはじまっていった、驚くことに、地上騎乗が、あれから数年は経っているだろうその表現が、この秋ツアーによってかつてない危うさで今再び新たな表現として、いや「誰にも見える形」ではじめて世界の表面に浮上している事においても、やはり、彼女の表現する者としての背負ったものはとてつもなく大きなものだとわかる、あのはじめて人類の乙女が地上に騎乗してみせたような瞬間の彼女の表現が生まれた頃からOnly youに至るまでのその一連の彼女の表現する身体、思考、その発火君臨に隠されたものは、間違いなく表現する事の絶望だった、彼女が意識し志向するその表現の色が娘。の全体のなかでは不意にアクシデントと化し彼女だけを娘。のなかで異端者であるかのように世界に発見させてしまうというその恐れがいつでもついてまわっていた、愛ちゃんのこの軌道を無くした無謀な表現の発火の色は着床し生きる事ためのキャンパスを許されない絵の具の花火のようにただただ恐ろしく噴火していた、だけれども、生まれた場所も暴れる場所も娘。というキャンパスだけしか存在しなかった、軌道を与えられたのも着床を許してくれたのも表現する事の意識の蘇生を教えたのは、表現してしまう時の恐ろしいその逸脱を防いできたのが誰でもない他の娘。たちの表現だった、彼女たちの素晴らしさはこの世の誰よりも高橋愛その人の表現に戦慄して慄き憧れてはみながらも時には苦笑してみせ誰よりもその表現に真面目に迫りながら互いの肉体の舵をとりあい娘。という海に彼女たちは表現するという閃きと欲望と目標で挑んだ、いつしか無意識的であろうが反抗しながらもせめぎ合い慄き合いながらにその表現の側に散りばめる表現する身体としてのいくつかの可能性を各それぞれの方法で形造っていった事だ、それはまさしく巨大な海のなかにいくつもの身体の島が形成されたようなものだった、れいなちゃんの揺るがないその振動こそが愛ちゃんを支えていたのだし、さゆの真顔の表情は愛ちゃん以上に震撼しなければいけないものだった、娘。という乙女集団の結晶がとてつもなく恐ろしく輝くのは、絶望的に一緒に輝くことのできないとてつもなく花の毒を孕むいくつもの乙女の肉体と魂が一緒に輝いている事だ、今、高橋愛という女の子がアイドルという領域においてある種の絶対的な表現の臨海、彼方で蠢く星のように輝けるのは、彼女自身の表現身体と魂と「同じくらい」に他の娘。たちのとなりで踊る傍らで踊る肉体運動と魂が不可欠なのだ、Only youという曲が凄まじいのは、最早あの曲においては高橋愛という表現者が逸脱してはいないしその表現に迫る勢いで他の娘。たちの何人かが自らの表現でとてつもない領域に結晶していた事だ、「高橋愛劇場」だとか「高橋システム」と誰かが語るような、彼女が一人で君臨するその瞬間にまるで世界からただ一人に迷児になりながら自惚れの彼方で表現の歓びに自分だけが溶けていってしまうかのようなあの昏睡を壊す事ができたのは、間違いなく今の娘。たちの力だ、彼女の病であり美しさであり愛おしい仕草であるその表現するという領域の歴史は、いつも、見る者の驚きと慄き、それらの恐怖そのものが彼女の欲望を満たすという表現する事の攻撃意識があった、戦慄、泣き喚きながら暴走するような幼稚な戦慄、高橋愛の君臨の至が感動的なのは、そうした衝動が彼女のなかで意識となり文明となりはじめての欲望のようなその表現するという野蛮であったその行為が彼女のなかでもっとも文明的であり人間的であり思考的な知性に今はなっているという感動だ、乙女が疼くだとか濡れるだとかクラクラするだとかあの花の滴る自身のなかの自分ではない何者かのしでかす粗野な乙女の野生をも自ら知性のなかで暴れさせる事のできる事の立証だった、高橋愛の表現は乙女野生であり乙女のもっとも完成された理性の到達としか言えない、踊り歌うという二つの武器でもあり地雷でもあるものを用いて近代の女の子ができる躍動は、狂言ではなく絶対に、高橋愛という女の子がこの世界に形にして魅せたのだ、さゆの語る上目遣いに見下すような君臨が、捜索の残酷であり、たぶんその領域には際限がない事だ、無限の領域のようにあの肉体の運動は、あの志向は彼女の肉体と魂が壊れてしまうまで続いてしまう恐ろしさだった。

ついに見つけたという


1.圏外ごめんね、俺、Only you後遺症だったんだね

この新曲を歌う娘。を知り合いではじめて目撃したのが圏外で、圏外は初見から娘。の新曲をただただ褒めていたにも関わらず自分という男はそこから数日遅れていよいよ新曲に触れて、初見で戦慄しはしたものの目のまえで巻き起こる娘。たちの愛の噴火の速度にその散らかり具合に半ば吐き気を覚えて、圏外に向かって暴言にも近い意味不明な怒りを交えながらにぶつけてしまうというキチガイ&娘。視点無センス不届き者野郎な訳だった。

今思えば、新曲に過剰に俺がありえない見解でアレルギーを起こしてしまったのは、新曲の光景が、Only youで娘。たちが表現を極限まで意識させた肉体と歌声とその眼差しでとんでもない到達をしでかしたその娘。文明の事さえも忘却してしまったように舞うその躍動だった、こいつら。。瞬間的にジュラ紀。。。その残酷さにいよいよついていけなかったのだ。

そう、そこでまず大きな勘違いをしているのだ。
娘。たちという集合体は常に、一定の領域、一定の紀であるはずがない。
曲や世界との接点で、いくらでもなにもかもをも飛び越え、往復できる怪物たちなのだから。

でも紳士、Hey!娘。紳士ども、ちょっと待て、でも、でも、こうは思わないか?、ついに往復をやめたのだと、愛ちゃんがついに往復をやめたのだと、もう戻る事はできないその最後の表現を開け放ってしまったと、狂気にかっこよく表現する事の向こうでついに愛ちゃんはただただ娘。として遊ぶ、遊ぶ事、それはポーズではない、日曜日空いてる?、うん空いてる!、じゃっ、新宿でもいこっか!?、うん!、ハイポ~ズ!、ちげぇ、ちげぇ、そんなこの世に溢れる遊びじゃない、ハロモニ。でもない、メイキングでもない、メイキングでの笑いの引用という道具を娘。たちが無邪気に暴力的に発火させるあの遊びでもない、歌い踊るという遊びだ、表現するという遊びだ、そこだ、そこなんだ。

新曲での娘。たちが左右に散らばり縦に置くへと道をつくりその奥から愛ちゃんとさゆが二人で歩いてくるときにさゆと愛ちゃんの「大きさ」のまったく凸凹のないまったく異質にして同質の巨大さで二人が並びながらにこちらへ歩んでくる瞬間に、その二人の姿を見つけた瞬間に、それだけでもう俺たちは歓喜しながら泣かずにはいられなかったはずだ。
さゆのオーラが巨大になったのか、愛ちゃんのオーラが小さくなったのかなどと、そんな戯言が一秒にして崩れさる見つめで、ああ、これは、、、これは、、、そう、ついに、。、、ついに。。。ああ。。。ただそうやって泣きながらに微笑むしかない。


新曲の娘。たちがまるで、Only youでの表現さえも木っ端微塵にしながら表現するなんて事自体を娘。たちが子供扱いしながらに、今まさに娘。が誕生するそのビッグバンの爆発のように躍動しているあまりにも恐ろしい光景のように見えた。
いや、見えたのではなくきっとそうに違いない。

新曲が両A面であるというその事実そのものがこんなにも素晴らしく感動的なのは、「この地球の平和を本気で願ってるんだよ!」という今のこの秋の娘。そのものでしかない世界と、「彼と一緒にお店がしたい!」という愛ちゃんが抜けてしまった後の娘。を予言するようなさゆれいなちゃんが冒頭に強烈に産声を上げるその世界との断絶のないながれだ、MVにおいてもその両極を断絶する事を拒み、コンサートにおいてもその二曲だけは断絶せずにひとつのながれとして遂行する、コンサートでの「この地球~」から「彼と~」とに曲が変わる瞬間の沈黙のない変貌への移ろいの美しさだけが今の娘。の全貌を真実に物語れる、愛ちゃんが娘。を卒業してしまう事を覚悟できている、あれは凄まじい、この二曲の移ろいのなかに居る愛ちゃんの姿、俺はあの瞬間こそが愛ちゃんが娘。を離れてゆく(卒業してゆく)瞬間だと思ってる、「彼~」での愛ちゃんは「この地球~」から断絶的に確実に居なくなる事のない愛ちゃんのその姿はそこに確かにまだ存在してはいるものの余韻的に静かにそこに居る、この曲でのかわいくファニーな振り付けを踊る愛ちゃんのかわいさと愛おしさ、

さゆとれいなちゃんのこの曲での存在の仕方、MC「なんで私たち一度もオフで遊んだ事ないのにこんなにしゃべれるんだろう?」「二人でこの先の作戦練ってるんだ!」、二人の娘。としての今の意識がそのまま踊り歌うその姿になってるという感動、裏での二人の変貌その愛ちゃんの証言、


2.Only youを歌い踊る娘。の姿に心底惚れ込んでいた俺が陥った病というのはこうだ。

Only youという曲は歌い踊る娘。が真顔を保とうとしてつんくに注意されるくらいに、娘。たちからの印象としては微笑む事から娘。たちが娘。であるという証明をその愛をほとんど世界に表現通達させる事のできないような曲調やダンスでなおもOnly youでは娘。たちが出現させてしまった美しさに満ち溢れていた、振り付けが娘。たちの仕草ではなくなにかの瞬間的な衝動、まるで放たれた火灯る矢を腕にわざと刺す事で他の肉体を護るような、いや、ほとんどなにか、ほんとに見えないなにかで形成されつくした領域のダンスだった、娘。が娘。そのものと聖戦をしているかのような恐ろしさに溢れてた。

「暴力的に言ってしまえば、新曲二曲はまるでハロモニ。だ、いや、メイキングでの娘。たちの仕草で織られているかのようだ、あまりにも娘。の愛に対して曲調も振り付けも向かっていて愛に直接的だ」

そんな馬鹿な。

「ここで問題なのは(いや、圏外やディピオさんは陥ってはいない俺だけの問題なのだろうけど)
Only youそのどちらかが真の娘。の姿だという訳ではあたりまえだが「無い」訳だ、あたりまえの、Only you的な娘。の姿に心底惚れてしまっていた俺はついに、Only youを歌い踊る娘。たちに戦慄する事と、新曲二曲(二曲で一曲である)を歌い踊る娘。たちに戦慄する事が、まるで両極のよう。。。」

おまえはなにもわかってはいない。

3.10分を超えるMV、冒頭、寝ている娘。たち

娘。が娘。の愛を言語で仕草で表明してしまう事に(娘。たちがついに零してしまうキスや自己言及的な愛の言葉)だって時には我慢がならなくなるような歪んだ男なのだから、愛ちゃんが卒業をしてしまう最後の新曲のMVにおいて、Only youのように残酷なまでに娘。がそこに立っている光景、足踏みをしている光景の美しさを、歌い踊る娘。のあの姿だけを、残酷なまでに無脚色に近い形で現実現状の光景の美しさに到達したMVに比べたら、なんて娘。に娘。の愛をその仕草を物語を語らせるようなとんでもない冒涜的ストーリーに寝取られたような仕草の介入だ、散々な絵コンテだ!、娘。の語れない愛の行方を歌い踊るような美しさの破滅だ!、と嘆く事は完全に間違ってる、それを書く事。


娘。の物語をその愛をあからさまな意味合いの演出で意図的に召喚させ感動させるように作られているMVなどまったく娘。を捉えてはいないし苛々しながら見るのを止める事を選ぶだけなはずなのに、娘。の愛のなかに不純物が混ざり合うかのようで居心地が悪く一歩間違えれば俺は大声で最大の罪だと喚き散らすに決まってたはずなのに、それは冒頭に娘。たちが歌い踊る事もなく横に並べられたベッドに寝ているショットを見せたれた時に大体の事を覚悟したはずなのに、

なぜ俺は静かに泣いてしまうんだろう、


このMVはたぶん、娘。といちばん近い他者である制作者と娘。の感情や仕草が奇跡的に歪みなく重なっているんだと思う、出来ることならばダンスショットのようにあの金色の衣装で歌い踊る娘。たちを見ていたいのだけれどOnly youでそうするしかなかったと同様にたぶんこの二曲はこのPVでしかない、目覚めた愛ちゃんがドアを開けたらそこには娘。宇宙が広がっていて、そこで輝く星を愛ちゃんが掴んでそれをまた投げる、そうすると再びドアが出現しその扉の向こうにさゆが寝ていて、覗き込む愛ちゃんの視線とともに娘。宇宙の力がリップクリームくんに宿りながら再びさゆの唇に移ってさゆが眠りながらに歌い出す、最終的にさゆはさゆを覗き込んだあの愛ちゃんと同じ衣装になる、そんなものを見せられて、素直に感動できるかと言えば今の俺には到底無理なはずだったのだけれど、このMVで確かに俺は泣くのだ、人間の織りなす物語を

2.Only youからついに新曲に至る娘。たち

娘。の新曲についてはあんなにも狂気的な振る舞いで踊り歌っていた愛ちゃんがさゆやれいなちゃんとともに娘。たちのどこまでも人間的な仕草躍動のダンス領域で踊っているというその姿、単に彼女が幼児帰りしたかのように見えるのではなく、この子がもともとそういう仕草の子だったという事だけを今、この時期に再び自由に踊る事ができているという光景、愛ちゃんが調子に乗ってるその光景、まるで「フォー!」というあの雄叫びがダンスしているかのように、それだけで泣けてしまう、only youで表面に噴出する娘。の力を可視化してみたらどういう色でどんなフォーメーションだろうか、愛ちゃんだけが色を帯びて突き抜けてる?、まさか、Only youにおいて、いや、愛ちゃんが娘。の頂点で力を引率するというあまりにも安直な見解が新曲ではほとんど見間違いだった事をさゆやれいなちゃん


4.ダンス

Only youの残酷なまでに美しさは歌い踊る娘。のあの姿を、娘。が歌い踊っているというその現実現状の光景の美しさに到達したMVに比べたら、なんて娘。に娘。の愛をその仕草を物語を語らせるようなとんでもない冒涜的ストーリーに寝取られたような仕草の介入だ、散々な絵コンテだ!、娘。の語れない愛の行方を歌い踊るような美しさの破滅だ!、と嘆く事は完全に間違ってる、それを書く事。

「新曲は二曲で一曲」どころかOnly youの音の尾と歌声の尾とダンスの尾と切れ目なく断絶なくつながっているということ。



男は大号泣をする、気づくのだ、Only youにおいてまるですべてを剥奪され裸よりも剥き出しで歌い踊る娘。のその残酷さをただの残酷さではなかったのだと、Only youと新曲二曲は完全に姉妹だと、純血の血の繋がった姉妹だと、娘。たちの血で音を創られ、娘。たちの仕草で織られた振付けなのだと、Only youのMVで娘。以外のなにも纏ってはいないように見えた

2011年9月8日木曜日

2011-09-08 11:27:58 MoRning Musume。New single!!!!! テーマ:M。 Loooooook!!

娘。の新曲へのメモ、秋ツアー、愛ちゃん、秋。


9/14

この秋ツアーの愛ちゃんが素晴らしいのは、冒頭のミスムンからもはや他の娘。たちとは異質にひとりだけステージに出発する瞬間と立ち位置と形相とが違うというとてつもなく残酷な現実と闘いながらにステージに出現するという戦いからはじめなきゃいけないというその事態だ、この秋ツアーでは愛ちゃんは卒業パレードをまえにしてコンサートが高らかにはじまり娘。たちの群れがついにステージ上に現れて、観る者が娘。たちの姿をひとりひとり認めようと試みた瞬間に「あれ?、愛ちゃんがいねぇ!」となるような、娘。から不在になっているという状況を時間系列に逆らう形で、今まさに娘。に加入してゆくかのように、ステージ上に高橋愛という娘。だけが不在になり、シャンデリアのイメージのもとで踊りながらに他の娘。たちが愛ちゃんを全身で呼ぶという、そうだ、あの瞬間の愛ちゃんを無くした娘。たちのダンスが素晴らしいのは愛ちゃんを呼ぶという愛ちゃんを召喚するという踊りしか踊ってはいないからだ、あの娘。たちの踊りは完全にかつてのミスムンではない、そしてついに、愛ちゃんが娘。に合流する、愛ちゃんが娘。にまさに今加入してみせるという逆流させ巻き戻し娘。時間を真実の今に修正するというその報復だ、この秋ツアーは、愛ちゃんが5期として娘。になったミスムンという曲の冒頭に愛ちゃんが娘。のなかに「ひとりぼっち」で合流する瞬間からはじまる。

この登場が途方もなく美しく愛おしいのは愛ちゃんが娘。になったその瞬間に打ち勝っているその情景だからだ。娘。になれた瞬間、娘。になってしまった瞬間、幸福であり不幸であるその瞬間と愛ちゃんが訣別することなく出会い別れようとしているその姿だ。

自身が事実として娘。になったはじめての娘。の曲であるミスムンに再び「やってくる」というその姿からずっと貫く娘。になったという瞬間の理性にある、愛ちゃんを除いた娘。たちだけが姿を見せるミスムンの冒頭にシャンデリアの影のなかに愛ちゃんの意識はふつふつと予告をはじめ、これから訪れる途方も無い不在を瞬間的に宣告するかのような瞬間的な不在から愛ちゃんが現れる、不在のなかから愛ちゃんが現れるというとんでもないこの歓喜の瞬間でもなおも、右手には顔にあてがうこともない仮面舞踏会のマスクを持ちながらあ現れるという、かつて高橋愛という女の子が遊ぶことも瞳をとろけさせる事も君臨する事も理性で撃つ事も知らなかった5期になったというその瞬間を今一度真実に更新するかのような、娘。のなかに現れるという瞬間の姿だ。
理性、理性、娘。という乙女たちのもっとも理性的な姿、
ミスムンではじまる
このツアーでの愛ちゃんのダンスの領域の理性の発火、ミスムンのあとに歌い踊るのが新曲二曲であり、そこで愛ちゃんの瞳のなかで静かに宣言される、表現しながら「イッちゃう」ような甘くとろける瞳をしてはらならないというような、娘。として踊り歌う事の億千の法律を愛ちゃんが肉体に綴りながら踊っている事だ、一見すれば無法地帯的に動きまわる乙女集団にとてつもない数の法律があるという事を愛ちゃんは動きながら示してゆく、胸のなかの法律が焼け爛れ花の灰になってしまう危うい欲望の到来するであろうリゾナントやOnly youでも新曲二曲で愛ちゃんが唱えた法律を寸前で破ることはない、いつでも狂気では無く理性だった、愛ちゃんの恐ろしい花の形相は狂気に寝取られるのではなく狂気を討つその理性の形相だ、この秋ツアーのリゾナントでの地救騎乗が感動的なのはほとんど俺からしたら用意周到に愛ちゃん自身が演出してきた肉体がいつしかダンスから墜落するという事態を、その恐ろしい緊急事態を、愛ちゃんがまだここでも突発的な事故である墜落として世界に表現している事だ、あの瞬間、墜落するというそのスリリングな演出を企み支えている足首を凝視していれば誰もが気づくだろう、墜落に向けて用意する肉体の静まりギュッと内ももに力を入れる仕草の可憐さ、あれこそ踊るという理性の音だ、しかし、ほとんどの観客はそこを見てはいない、愛ちゃんが見せないように上半身でその下半身の企みを隠しているから、だからこそ観る者にとってあの墜落は突然なのだ、あれは墜落のまえか後か、愛ちゃんは散々地面を足踏みで一人だけ強く踏み続ける、あの恐ろしい美しさ。。。。。またもや映画の話を持ちだして申し訳ないが、スコリモフのエッセンシャルが感動的だったのは、冒頭からずっと突発的になにかが容赦なく起きてしまう、または起きてしまった事に対向するすべなく男が起こしてしまう途方も無い出来事の連続性のその残酷さだった、散々なにかが起きる事を撮ってきた映画が最後に撮したのは男が乗っていた白馬だった、男は乗ってはいない、白馬だけだった、白馬のうえには男はいない、ついに生き途絶えて墜落してしまったのか、馬から降りただけなのか、そのシーンの手前で寝てしまった俺だから、男が落馬する、もしくは馬から落ちてゆく、そのシーンをもしかしたらその瞬間を撮っていた映画なのかもしれないが、俺は観ていない、もしも俺が観ていないようにこの映画がその瞬間を撮っていないとすると、エッセンシャルでもっとも歓喜したのは飛散な出来事の集結するその瞬間を映画自身が撮ることができなかったという映画的な突発的な事故だ、散々男の飛散な突然に不幸に見舞われる姿を見てきた映画を観る者が最後にその男以上の突発的な不意打ちを食らう、不可視という撮られていない瞬間を観るという突然の課題を、あの映画がその瞬間を撮らなかったという事を選んだ美しさ、いったい、男はいつ白馬から降りたのか、墜落したのか、スコリモフの映画のなかで人間は転げ落ちるし墜落するし飛び乗るし飛び降りる、不戦勝でのスコリモフ自身の電車からバイクに飛び乗ってみせるあの伝説のアクションシーン、エッセンシャルは絶望的なまでに最後の最後にこのスリリングな瞬間を不可視させる事の映画だった、映画の画面のなかに映る視覚可能な可視可能な白馬が雪を食べるそのイメージとともに我々がその瞬間永延にと想像しながらまるで、イメージの外で輝くイメージのようにさんざめくのは男の最後の突然、映画のなかからの失踪する姿のイメージだ、素晴らしい。。。。。。愛ちゃんに話を戻すが、俺は愛ちゃんのリゾナント地救騎乗を見てエッセンシャルのそれを思い出す、リゾナントの地救騎乗がここに来てまたもや変貌をしてみせたのはスコリモフのアクションシーンの変貌に似ている、その葛藤のダンス、肉体との対話、俺たちの歓声をも瞬間的に自身の肉体の次の動きえと反応させる本能と理性の共犯的な静かな遊戯、衣装を着てもなおも裸のように剥き出しになってしまう身体の透明性と歌声がフレーズ単位の意味をも超えてあらゆる言語を響かせてしまう音の無指向を愛ちゃんはかつてない理性で制御する、娘。たちには譜面はないが、それぞれの譜面が踊りながらに体内で形成されてゆくようだ、剥き出しの表現をコーデするように愛ちゃんは理性の服を着ながらダンスする。




9期メンは娘。たちが写真撮影をする時に、お姉さんである娘。たちの隙間に侵入し映り込む事ができる娘。たちだ。かつてのれいなちゃんのように。

また、ハロプロTIMEの事も書かなければいけない。

愛ちゃんの蝋燭、娘。の蝋燭、

待ち合わせ、だからいけない、ツイッターなんかに書いてもなんの意味もなかった。
あのドブ川から俺の言葉を取り戻せ。

9/13

さゆとれいなの距離。さゆにとってのれいなちゃん、さゆにとってのれいなちゃんの娘。としての大きさ。さゆがれいなちゃんに出会う。小春というさゆを顕微する距離視線がトラウマのままに終わってしまったかのように見える今、さゆはれいなちゃんを愛しはじめてる、さゆの大好き大好きな絵里という交わり重なる程の距離の人、愛ちゃんという大らかな距離の人、オフでは一度も遊んではいないというれいなちゃんとの距離、かつてれいなちゃんの福岡弁につられてさゆは山口弁を喋ってしまう事があった、さゆにだけ発動するれいなちゃんの引力、さゆとれいなちゃんの距離。

島、遊牧民、豪華客船、

娘。の新曲二曲の断絶のない繋がりの美しさと愛しさと感動的な情景は「地球~」と「彼~」がなにか娘。たちが表現という術で航海するその瞬間のドキュメントであり歌い踊り娘。と成るその表現という手段でしか海を動きまわることができない娘。たちは曲という一緒の嵐天災でもあり人災でもある曲という強敵に、いや、娘。という強敵に、表現の移行をもってして立ち向かっているその歌声のダンスの光景だ、娘。船という聖地は移動しながらに四方を剥き出しにしている、この曲の横暴な企み地雷に誰がどうやって身体で立ち向かうのか、突っ込んでいく娘。、その娘。の脚に小指で身体を結んで「海」に落ちないように表現の理性で支える、ほとんど命がけの応対は、娘。の身体の運動の全量が娘。の肉体もろとも海の底へ落ちてしまわないように墜落しないように反応し合う、宇宙そのものを航海してみせた「地救~」での娘。たちの身体が宇宙に投げ出されるのをあまりにも美しい応対で、そうだ、曲の宇宙の刃先に娘。の宇宙の刃先で立ち向かう事を愛ちゃんはいよいよ拒否した、曲そのものを、緩やかに子供扱いするかのような愛ちゃんのその態度、その応戦でいよいよ愛ちゃんは娘。たちを地上に還した、自らの表現の臨海の宇宙に娘。たちを連れ去るのではなく、愛ちゃんは娘。たちをついにそれぞれの娘。たちの姿そのままに地上に帰還させたのだ、さゆとれいなちゃんが娘。宇宙の航海のなかで同時になにかを見つけているかのような眼差しとダンスと歌声の頷き合うすべてが、そこからはじまる「彼~」で大爆発する、その歌声からすべてがはじまってゆくようなさゆの産声は、愛ちゃんがいなくなってしまった娘。という地上にはじめて雨を降らすかのようにそのかわいい産声のような歌声を降らす、こんなにも感動的なのは、「愛ちゃんが抜けたモーニング娘。なんて想像できない、たぶん娘。という光は崩壊するだろう。」と誰よりも恐れた娘。であるさゆが、娘。という地上に若くはじめて心から芽生えた母性で母乳を与えるかのように涙のかわりにさゆの魔法のすべてを精製したかのようなそのかわいい歌声を降り注いでいる事だ、その歌声の願いを意味を誰よりもまっさきに悟って頷きなついいてさゆのその無謀な放線の軸にでもなるように(れいなちゃんのフラフープ身体、れいなちゃんの歌声のその身体の軸でさゆのかわいい歌声がぐるぐるんまわりつづけついに二人の領域が地上に花を咲かす)、全身全霊で反応するれいなちゃんの共犯、さゆの「かわいいの知恵の輪」はさゆがどんな思考しても解くことはできない、俺たち男が思考してもだ、「彼」があまりにも感動的なのは、もしかしたらさゆのかわいいの輪が解けているみたいに思えるからだ、さゆの解ける事のないかわいいの輪の歌声をれいなちゃんがフラフープを回すかわりにあのヒップワークでその身体で回してあげるとき徐々にさゆのかわいいの輪が解けていってその傷からさゆが「かわいい」という言葉に秘めていた全想いがれいなちゃんの身体に染み渡り、れいなちゃんの歌声がさゆを抱きしめているように思えるのだ、どう考えてもこの二曲は凄まじい、「地救~」は娘。が娘。宇宙を娘。表現で航海する曲だ、そして「彼~」は地上に降り立ち、娘。たちがいままた、ただ静かにかわいくかわいく歌を歌いはじめそのかわいい声はさゆとれいなちゃんの冒頭の切り返し反復歌声やり取りみたいなのは同じ目線で娘。というものを歌声で見ているその歌声の位置の美しさだ娘。として歩き出したその一歩の歌声のように二人の歌声は娘。として娘。のなかを歩き出す、そのかわいい声にそのかわいい踊りに他の娘。たちも歩み出す、ただひとり、曲のある瞬間から歩く歩幅を緩めながら静かに消えさってゆく愛ちゃんのさよならのかわりの歌声(それに、Chorus:AI TAKAHASHI、という声はきっとこれから太陽のように娘。を見守る)、娘。が地上に帰還したその瞬間の歌だ、娘。は宇宙から帰還する、旅だったのは愛ちゃんだけではないのかもしれないというその事実が、なぜ、こんなにも涙が出るのかと言えば、愛ちゃん以上にさゆとれいなちゃんが娘。として娘。に旅立とうとしているから、娘。に旅立たなければいけないその瞬間は卒業以上に重要な瞬間だ、愛ちゃんがリーダーになってあの時、愛ちゃんは娘。に真に旅立たなければいけなかった、あの旅立ちが娘。をここまで連れてきた、あの瞬間と同様に、今、さゆとれいなちゃんは娘。に旅立とうとしている、その感動なのだ、その感動だ、娘。に物語はある、その感動なのだ、「彼~」これからの歌だ、

りほりほのインディアンの幼女のような混血児のような娘。に迷児しながら小さくなついてゆく呼吸、Only youからのガキさんのあの肉体そのものを旗が降りる瞬間のように躍動させる娘。になにかのスイッチを入れるようなダンス、ふくちゃんの不敵さ、生田の動揺しながらに娘。になろうとしつづける過激な籠城、鈴木の辻ちゃんをも無意識に記憶しただろう理性しながら自分を放り投げる意志、愛佳の壊れた脚、愛佳の壊れない心、この季節の愛佳のこの不在ではない娘。への存在の仕方は愛ちゃんにとっての愛佳の存在の仕方にとても似ている気がする、



今の娘。は一定の場所に楽園的に永遠に根を生やしいつまでも世界に発見される事を拒むような閉鎖的な乙女孤島ではない、むしろ楽園化する事を拒むためのあまりにも実際的な肉体の経済、蠢き、魂の生活的、生態的な生きる島だ(だからこそ娘。が一年に一度、孤島であるハワイに旅立ち、うつつをぬかす姿が、それだけで俺に寂しさと感動を与えつづける)、夢の時間にも到達できずに楽園にも閉じる事のできないただただ命を機能する事しか許されなくなった女の子たちの生の漲りに他ならない、今の娘。の現状というのは一度、大きく発見された大陸が、地殻変動を起こしながらに空を地上にしたり雲で蜜を編んだりしながらに、娘。という島を発見したと思い込んでいる者たちに新たな真の発見をせがむ凶暴な島だ、娘。というのは乙女という魂と肉体の民族移動の全景に他ならない、動く島、なによりも恐ろしいのは娘。は「隠れない」し「閉じない」、娘。が屋外にいるか屋内に居るかなどほとんどもう関係のないことだ、愛ちゃんは旅達、愛ちゃんは停留しない、愛ちゃんは常に移動している、動き回る、散策者、捜索者、探索者。。。。。。。。シ。。。。。ネ。。。。マ。。。。。。。。。。。ゴダール。。。の。。。。ソシア。。。。。リスムの。。。。。豪華客船。。。。の一連のシー。。。。ンのあの映像が絶望的に美しいのは、。。。。。。。。資本の比喩であろうあの蠢く海に。。。。。。。。。。無防備に巨大な棺桶のように豪華客船が行方を定める事もできず(行き場所は常に定まっていたはずの乗り物が)。。。。。。。。に漂いながらにその棺桶のうえ。。。。。。。。。。に居る人間の身体のどよめきと振り付けと。。。。。。脚色と。。。。。。存在し得ない行動でしか。。。。。。。。。。。なにかを示す事ができなくなったその光景だ。・。。。。レオ・マッケリーの邂逅のように。。。。人類はもう豪華客船を。。。。。描けない。。。。。。。。。













22時31

見惚れて君の胸に触りたくなって唇に愛を告げて瞳のなかに溶けてしまいたいって願う君に恋する男の俺を今だけは黙らせたい、君が好きだ君が好きだ君が好きだ、愛を語るよりも君のその美しさを綴りたい、
君が泣かないっていうように、君が泣かないって言うなら俺は君に好きだって感情をじゃくらない、そうだろ、そうだろ、踊る君見惚れる俺、


■ずばり、高橋愛とは何ですか?

なんだろ…逆に教えて欲しい。





今の自分には冷静に一切の逸脱、吃り無く、娘。の事を書くという事はできない。
だから、万人に理解され、頷いてもらえるような娘。を語る言語を綴りたくともできそうにない。

それでも、たぶん、自分しか証言する事のできないなにかがかならずある。
散らばって、意味を成さない、錯乱した言葉が溢れると思うが、
その破片のなかにひとつでも、ただ娘。の真実を、愛ちゃんの真実を語る事ができたらと思い書く事にする。

ここでは、分裂病的に人格も破裂し、視点も思考も左右に上下に散らかる、読む者に、それらを拾ってもらうだけでなく、その剥き出しの言語の汚れと傷を修復してもらい翻訳してもらわなければいけないだろうというとんでもなく卑劣な文章行為でしか発信できない事に深くお詫びを申しあげる。

壊れる思考よ、散らばる言語よ、集まれ、集まれ、娘。に。娘。を。娘。よ。

9/11 大阪 夜公演

「友」を歌い終えた愛ちゃんとれいなちゃんの衣装のアクセが繋がってしまった。


圏外ごめんね、俺、Only you後遺症だったんだね
圏外ごめんね、俺、Only you後遺症だったんだね
圏外ごめんね、俺、Only you後遺症だったんだね

圏外ごめんね、俺、Only you後遺症だったんだね
圏外ごめんね、俺、Only you後遺症だったんだね
圏外ごめんね、俺、Only you後遺症だったんだね
圏外ごめんね、俺、Only you後遺症だったんだね
圏外ごめんね、俺、Only you後遺症だったんだね
圏外ごめんね、俺、Only you後遺症だったんだね
圏外ごめんね、俺、Only you後遺症だったんだね圏外ごめんね、俺、Only you後遺症だったんだね
圏外ごめんね、俺、Only you後遺症だったんだね
圏外ごめんね、俺、Only you後遺症だったんだね
圏外ごめんね、俺、Only you後遺症だったんだね
圏外ごめんね、俺、Only you後遺症だったんだね
圏外ごめんね、俺、Only you後遺症だったんだね

圏外ごめんね、俺、Only you後遺症だったんだね
圏外ごめんね、俺、Only you後遺症だったんだね

圏外ごめんね、俺、Only you後遺症だったんだね
圏外ごめんね、俺、Only you後遺症だったんだね

Only youの後に出された「この地球の平和を本気で願ってるんだよ!彼と一緒にお店がしたい!」という二曲が娘。たちの踊り歌う姿のもっとも凄い到達だという事に異論はないと思う。

ここで俺が語らなければいけないのは、高橋愛という女の子が「表現する」という領域からついに、ただただ娘。としての真の躍動にこの曲をもってしてはじめて到達したのかも」しれないというたぶん、10年も愛ちゃんを中心に娘。を見ている彼女への愛に一ミリの歪みもない人間からしたら残酷でほとんど今まで、何も観ていなかった、または見えていなかったと罵られるだろう事を俺は語ろうとしている、が、俺からしたら本当に、現実に、なによりも現実に、娘。はこの曲をもってしてはじめて娘。に到達できたのかもしれないというその感動をこの季節に思える事の歓喜、その美しさの全貌を俺はせめて、言葉にしたいと思うのだ。
馬鹿な事を言おう。
Only youではまだ愛ちゃんは娘。ではなかったのだと。
Only youではまだ娘。たちが娘。ではなかったのだと。
ついに愛ちゃんが娘。を見つけた気がする。

娘。というものがどんな乙女集団であり、あんなにも木っ端微塵にそれぞれの強い色を帯びて手放す事のない乙女たちの集団の全貌を見せてくれと誰かが望むなら、新曲の二曲を。

娘。を知る者にも、知らぬ者にも、新曲の二曲を。

なぜにここまで感動的だと言えば、マジすかがあってOnly youがあって、ついに新曲に到達したという事。

「秋ツアーは、シャンデリア(俺たちの知っている視覚的イメージではないが、このシャンデリアこそ愛ちゃん)が映り、愛ちゃん不在のミスムンからはじまり、やがて愛ちゃんは娘。たちのもとにやってくる」

表現する事に四肢の末端までそれこそ「見えないところにも気をつかうのがファッションなんやよ」と靴下を鈴木に見せて語る愛ちゃんという女の子は目に見える可視領域のずっと奥を踊るからこそ微笑む表情の奥で泣き喚き、静かに厳しく微笑むことを禁止した四肢が優しく微笑むという不可視の花の造形を躍りながらに彫刻する事ができた、たぶん、肉体をその場で「現実」に「現象」にしながら本人でさえ見つける事ができなかった高橋愛という表現する女の子の捜索を永遠と続けていたのだ、Only youまでは。

「娘。の高橋愛」として勇ましく不敵にかっこよく舞う事を誰よりも意識的に捜索していたのが高橋愛という捜索者であり、その捜索は他者から観れば半ば狂気にも似た香りを孕んでさえいた(まるで彼女が見つけた唯一の罪のように、それはいつも、少しだけ少しだけ酷かった、即興劇で泣き喚きながらダンボールを蹴り潰す残酷さが確かにその表現する意識のなかにはあった)、リゾナントでついに地上に膝をついて崩れ落ちてなにやら微動しながらに地上に騎乗してみせたあの伝説的な瞬間を高橋愛という人が踊ってしまったのはいったいいつの事だっただろうか、あの動きを彼女自身が発明したのかどうかはわからないが、この表現を踊る彼女をあの時に見つける事のできた発見者であり目撃者である何人かの男たちはその瞬間に、高橋愛という娘。がなにかとてつもないライフワークを密かに抱いている事をその欲望をその表現の企みとその意志とを知らされ、これからはその瞬間を見つける事でその表現の共犯者になるんやよという約束を、互いに気づかぬうちに約束したのだと思う、Only youという曲がこの世に生まれたのは間違いなくあの瞬間があったからこそであり、彼女の孤独な表現の一瞬はその後の娘。の曲にいつしか表面的に大きな色として流れ込んでくる事になる、娘。たちもそのながれに生身の身体で魂で聖戦するという凄まじい領域がはじまっていった、驚くことに、地上騎乗が、あれから数年は経っているだろうその表現が、この秋ツアーによってかつてない危うさで今再び新たな表現として、いや「誰にも見える形」ではじめて世界の表面に浮上している事においても、やはり、彼女の表現する者としての背負ったものはとてつもなく大きなものだとわかる、あのはじめて人類の乙女が地上に騎乗してみせたような瞬間の彼女の表現が生まれた頃からOnly youに至るまでのその一連の彼女の表現する身体、思考、その発火君臨に隠されたものは、間違いなく表現する事の絶望だった、彼女が意識し志向するその表現の色が娘。の全体のなかでは不意にアクシデントと化し彼女だけを娘。のなかで異端者であるかのように世界に発見させてしまうというその恐れがいつでもついてまわっていた、愛ちゃんのこの軌道を無くした無謀な表現の発火の色は着床し生きる事ためのキャンパスを許されない絵の具の花火のようにただただ恐ろしく噴火していた、だけれども、生まれた場所も暴れる場所も娘。というキャンパスだけしか存在しなかった、軌道を与えられたのも着床を許してくれたのも表現する事の意識の蘇生を教えたのは、表現してしまう時の恐ろしいその逸脱を防いできたのが誰でもない他の娘。たちの表現だった、彼女たちの素晴らしさはこの世の誰よりも高橋愛その人の表現に戦慄して慄き憧れてはみながらも時には苦笑してみせ誰よりもその表現に真面目に迫りながら互いの肉体の舵をとりあい娘。という海に彼女たちは表現するという閃きと欲望と目標で挑んだ、いつしか無意識的であろうが反抗しながらもせめぎ合い慄き合いながらにその表現の側に散りばめる表現する身体としてのいくつかの可能性を各それぞれの方法で形造っていった事だ、それはまさしく巨大な海のなかにいくつもの身体の島が形成されたようなものだった、れいなちゃんの揺るがないその振動こそが愛ちゃんを支えていたのだし、さゆの真顔の表情は愛ちゃん以上に震撼しなければいけないものだった、娘。という乙女集団の結晶がとてつもなく恐ろしく輝くのは、絶望的に一緒に輝くことのできないとてつもなく花の毒を孕むいくつもの乙女の肉体と魂が一緒に輝いている事だ、今、高橋愛という女の子がアイドルという領域においてある種の絶対的な表現の臨海、彼方で蠢く星のように輝けるのは、彼女自身の表現身体と魂と「同じくらい」に他の娘。たちのとなりで踊る傍らで踊る肉体運動と魂が不可欠なのだ、Only youという曲が凄まじいのは、最早あの曲においては高橋愛という表現者が逸脱してはいないしその表現に迫る勢いで他の娘。たちの何人かが自らの表現でとてつもない領域に結晶していた事だ、「高橋愛劇場」だとか「高橋システム」と誰かが語るような、彼女が一人で君臨するその瞬間にまるで世界からただ一人に迷児になりながら自惚れの彼方で表現の歓びに自分だけが溶けていってしまうかのようなあの昏睡を壊す事ができたのは、間違いなく今の娘。たちの力だ、彼女の病であり美しさであり愛おしい仕草であるその表現するという領域の歴史は、いつも、見る者の驚きと慄き、それらの恐怖そのものが彼女の欲望を満たすという表現する事の攻撃意識があった、戦慄、泣き喚きながら暴走するような幼稚な戦慄、高橋愛の君臨の至が感動的なのは、そうした衝動が彼女のなかで意識となり文明となりはじめての欲望のようなその表現するという野蛮であったその行為が彼女のなかでもっとも文明的であり人間的であり思考的な知性に今はなっているという感動だ、乙女が疼くだとか濡れるだとかクラクラするだとかあの花の滴る自身のなかの自分ではない何者かのしでかす粗野な乙女の野生をも自ら知性のなかで暴れさせる事のできる事の立証だった、高橋愛の表現は乙女野生であり乙女のもっとも完成された理性の到達としか言えない、踊り歌うという二つの武器でもあり地雷でもあるものを用いて近代の女の子ができる躍動は、狂言ではなく絶対に、高橋愛という女の子がこの世界に形にして魅せたのだ、さゆの語る上目遣いに見下すような君臨が、捜索の残酷であり、たぶんその領域には際限がない事だ、無限の領域のようにあの肉体の運動は、あの志向は彼女の肉体と魂が壊れてしまうまで続いてしまう恐ろしさだった。

ついに見つけたという


1.圏外ごめんね、俺、Only you後遺症だったんだね

この新曲を歌う娘。を知り合いではじめて目撃したのが圏外で、圏外は初見から娘。の新曲をただただ褒めていたにも関わらず自分という男はそこから数日遅れていよいよ新曲に触れて、初見で戦慄しはしたものの目のまえで巻き起こる娘。たちの愛の噴火の速度にその散らかり具合に半ば吐き気を覚えて、圏外に向かって暴言にも近い意味不明な怒りを交えながらにぶつけてしまうというキチガイ&娘。視点無センス不届き者野郎な訳だった。

今思えば、新曲に過剰に俺がありえない見解でアレルギーを起こしてしまったのは、新曲の光景が、Only youで娘。たちが表現を極限まで意識させた肉体と歌声とその眼差しでとんでもない到達をしでかしたその娘。文明の事さえも忘却してしまったように舞うその躍動だった、こいつら。。瞬間的にジュラ紀。。。その残酷さにいよいよついていけなかったのだ。

そう、そこでまず大きな勘違いをしているのだ。
娘。たちという集合体は常に、一定の領域、一定の紀であるはずがない。
曲や世界との接点で、いくらでもなにもかもをも飛び越え、往復できる怪物たちなのだから。

でも紳士、Hey!娘。紳士ども、ちょっと待て、でも、でも、こうは思わないか?、ついに往復をやめたのだと、愛ちゃんがついに往復をやめたのだと、もう戻る事はできないその最後の表現を開け放ってしまったと、狂気にかっこよく表現する事の向こうでついに愛ちゃんはただただ娘。として遊ぶ、遊ぶ事、それはポーズではない、日曜日空いてる?、うん空いてる!、じゃっ、新宿でもいこっか!?、うん!、ハイポ~ズ!、ちげぇ、ちげぇ、そんなこの世に溢れる遊びじゃない、ハロモニ。でもない、メイキングでもない、メイキングでの笑いの引用という道具を娘。たちが無邪気に暴力的に発火させるあの遊びでもない、歌い踊るという遊びだ、表現するという遊びだ、そこだ、そこなんだ。

新曲での娘。たちが左右に散らばり縦に置くへと道をつくりその奥から愛ちゃんとさゆが二人で歩いてくるときにさゆと愛ちゃんの「大きさ」のまったく凸凹のないまったく異質にして同質の巨大さで二人が並びながらにこちらへ歩んでくる瞬間に、その二人の姿を見つけた瞬間に、それだけでもう俺たちは歓喜しながら泣かずにはいられなかったはずだ。
さゆのオーラが巨大になったのか、愛ちゃんのオーラが小さくなったのかなどと、そんな戯言が一秒にして崩れさる見つめで、ああ、これは、、、これは、、、そう、ついに、。、、ついに。。。ああ。。。ただそうやって泣きながらに微笑むしかない。


新曲の娘。たちがまるで、Only youでの表現さえも木っ端微塵にしながら表現するなんて事自体を娘。たちが子供扱いしながらに、今まさに娘。が誕生するそのビッグバンの爆発のように躍動しているあまりにも恐ろしい光景のように見えた。
いや、見えたのではなくきっとそうに違いない。

新曲が両A面であるというその事実そのものがこんなにも素晴らしく感動的なのは、「この地球の平和を本気で願ってるんだよ!」という今のこの秋の娘。そのものでしかない世界と、「彼と一緒にお店がしたい!」という愛ちゃんが抜けてしまった後の娘。を予言するようなさゆれいなちゃんが冒頭に強烈に産声を上げるその世界との断絶のないながれだ、MVにおいてもその両極を断絶する事を拒み、コンサートにおいてもその二曲だけは断絶せずにひとつのながれとして遂行する、コンサートでの「この地球~」から「彼と~」とに曲が変わる瞬間の沈黙のない変貌への移ろいの美しさだけが今の娘。の全貌を真実に物語れる、愛ちゃんが娘。を卒業してしまう事を覚悟できている、あれは凄まじい、この二曲の移ろいのなかに居る愛ちゃんの姿、俺はあの瞬間こそが愛ちゃんが娘。を離れてゆく(卒業してゆく)瞬間だと思ってる、「彼~」での愛ちゃんは「この地球~」から断絶的に確実に居なくなる事のない愛ちゃんのその姿はそこに確かにまだ存在してはいるものの余韻的に静かにそこに居る、この曲でのかわいくファニーな振り付けを踊る愛ちゃんのかわいさと愛おしさ、

さゆとれいなちゃんのこの曲での存在の仕方、MC「なんで私たち一度もオフで遊んだ事ないのにこんなにしゃべれるんだろう?」「二人でこの先の作戦練ってるんだ!」、二人の娘。としての今の意識がそのまま踊り歌うその姿になってるという感動、裏での二人の変貌その愛ちゃんの証言、


2.Only youを歌い踊る娘。の姿に心底惚れ込んでいた俺が陥った病というのはこうだ。

Only youという曲は歌い踊る娘。が真顔を保とうとしてつんくに注意されるくらいに、娘。たちからの印象としては微笑む事から娘。たちが娘。であるという証明をその愛をほとんど世界に表現通達させる事のできないような曲調やダンスでなおもOnly youでは娘。たちが出現させてしまった美しさに満ち溢れていた、振り付けが娘。たちの仕草ではなくなにかの瞬間的な衝動、まるで放たれた火灯る矢を腕にわざと刺す事で他の肉体を護るような、いや、ほとんどなにか、ほんとに見えないなにかで形成されつくした領域のダンスだった、娘。が娘。そのものと聖戦をしているかのような恐ろしさに溢れてた。

「暴力的に言ってしまえば、新曲二曲はまるでハロモニ。だ、いや、メイキングでの娘。たちの仕草で織られているかのようだ、あまりにも娘。の愛に対して曲調も振り付けも向かっていて愛に直接的だ」

そんな馬鹿な。

「ここで問題なのは(いや、圏外やディピオさんは陥ってはいない俺だけの問題なのだろうけど)
Only youそのどちらかが真の娘。の姿だという訳ではあたりまえだが「無い」訳だ、あたりまえの、Only you的な娘。の姿に心底惚れてしまっていた俺はついに、Only youを歌い踊る娘。たちに戦慄する事と、新曲二曲(二曲で一曲である)を歌い踊る娘。たちに戦慄する事が、まるで両極のよう。。。」

おまえはなにもわかってはいない。

3.10分を超えるMV、冒頭、寝ている娘。たち

娘。が娘。の愛を言語で仕草で表明してしまう事に(娘。たちがついに零してしまうキスや自己言及的な愛の言葉)だって時には我慢がならなくなるような歪んだ男なのだから、愛ちゃんが卒業をしてしまう最後の新曲のMVにおいて、Only youのように残酷なまでに娘。がそこに立っている光景、足踏みをしている光景の美しさを、歌い踊る娘。のあの姿だけを、残酷なまでに無脚色に近い形で現実現状の光景の美しさに到達したMVに比べたら、なんて娘。に娘。の愛をその仕草を物語を語らせるようなとんでもない冒涜的ストーリーに寝取られたような仕草の介入だ、散々な絵コンテだ!、娘。の語れない愛の行方を歌い踊るような美しさの破滅だ!、と嘆く事は完全に間違ってる、それを書く事。


娘。の物語をその愛をあからさまな意味合いの演出で意図的に召喚させ感動させるように作られているMVなどまったく娘。を捉えてはいないし苛々しながら見るのを止める事を選ぶだけなはずなのに、娘。の愛のなかに不純物が混ざり合うかのようで居心地が悪く一歩間違えれば俺は大声で最大の罪だと喚き散らすに決まってたはずなのに、それは冒頭に娘。たちが歌い踊る事もなく横に並べられたベッドに寝ているショットを見せたれた時に大体の事を覚悟したはずなのに、

なぜ俺は静かに泣いてしまうんだろう、


このMVはたぶん、娘。といちばん近い他者である制作者と娘。の感情や仕草が奇跡的に歪みなく重なっているんだと思う、出来ることならばダンスショットのようにあの金色の衣装で歌い踊る娘。たちを見ていたいのだけれどOnly youでそうするしかなかったと同様にたぶんこの二曲はこのPVでしかない、目覚めた愛ちゃんがドアを開けたらそこには娘。宇宙が広がっていて、そこで輝く星を愛ちゃんが掴んでそれをまた投げる、そうすると再びドアが出現しその扉の向こうにさゆが寝ていて、覗き込む愛ちゃんの視線とともに娘。宇宙の力がリップクリームくんに宿りながら再びさゆの唇に移ってさゆが眠りながらに歌い出す、最終的にさゆはさゆを覗き込んだあの愛ちゃんと同じ衣装になる、そんなものを見せられて、素直に感動できるかと言えば今の俺には到底無理なはずだったのだけれど、このMVで確かに俺は泣くのだ、人間の織りなす物語を

2.Only youからついに新曲に至る娘。たち

娘。の新曲についてはあんなにも狂気的な振る舞いで踊り歌っていた愛ちゃんがさゆやれいなちゃんとともに娘。たちのどこまでも人間的な仕草躍動のダンス領域で踊っているというその姿、単に彼女が幼児帰りしたかのように見えるのではなく、この子がもともとそういう仕草の子だったという事だけを今、この時期に再び自由に踊る事ができているという光景、愛ちゃんが調子に乗ってるその光景、まるで「フォー!」というあの雄叫びがダンスしているかのように、それだけで泣けてしまう、only youで表面に噴出する娘。の力を可視化してみたらどういう色でどんなフォーメーションだろうか、愛ちゃんだけが色を帯びて突き抜けてる?、まさか、Only youにおいて、いや、愛ちゃんが娘。の頂点で力を引率するというあまりにも安直な見解が新曲ではほとんど見間違いだった事をさゆやれいなちゃん


4.ダンス

Only youの残酷なまでに美しさは歌い踊る娘。のあの姿を、娘。が歌い踊っているというその現実現状の光景の美しさに到達したMVに比べたら、なんて娘。に娘。の愛をその仕草を物語を語らせるようなとんでもない冒涜的ストーリーに寝取られたような仕草の介入だ、散々な絵コンテだ!、娘。の語れない愛の行方を歌い踊るような美しさの破滅だ!、と嘆く事は完全に間違ってる、それを書く事。

「新曲は二曲で一曲」どころかOnly youの音の尾と歌声の尾とダンスの尾と切れ目なく断絶なくつながっているということ。



男は大号泣をする、気づくのだ、Only youにおいてまるですべてを剥奪され裸よりも剥き出しで歌い踊る娘。のその残酷さをただの残酷さではなかったのだと、Only youと新曲二曲は完全に姉妹だと、純血の血の繋がった姉妹だと、娘。たちの血で音を創られ、娘。たちの仕草で織られた振付けなのだと、Only youのMVで娘。以外のなにも纏ってはいないように見えた

2011年8月8日月曜日

「もうすぐ あいchan卒業やし腹をくくって話したゼッ」

まさに娘。の新曲の領域はこのれいなちゃんの言葉そのものだ。

2011年7月15日金曜日

あさちゃんへ

あさちゃん、暑中お見舞い申し上げます。

俺は自分の過去をなにもまとめることができません。

感情に降りてくる、いや、感情に登る、どちらにせよ好きな女の息づかいにさえ、その言動や仕草をも、恥ずかしくて見ていられないのだからここまでくるともう、愛だの恋だのもただの悪寒誘発絶句です。
ある瞬間に、この世の多くの者が追随できないであろう領域の思考発火に僕が炎上し、ああ、こんなにくだらなく熱い夏だ、そんな風に吐くとき、良くも諦めもせずにせっせと厚かましく人間面であろうとする他者どもの行為と発言と自意識のすべてがお盛んな赤子のように思えてしょうがないのです、けれど、こうしたまるで己だけがそこから遠くに居るのだと吠えて透明になろうと僕が企てるのなら、僕は僕を終えたい。

人間は破壊を猟期とみなし営み孕んで暮らす、激情を酒の肴にする、僕の怠情も恋心もそうした席のかっこうの餌になってしまうのだろうな、それも僕が僕を酔わすために自らを肴にするのですから、これはいけません、けれども、ちょっとだけコーヒーの缶に向かって恥ずかしいと微笑む事しかできません。

現世において女を語ることに至っては他の者などはほんとに屑にしか過ぎない。
俺に愛されずに、俺の言葉をもらえない表現者である女の子たちはなんてかわいそうかと思う。
そうした言動が血の内部で騒ぐときがいちばんに悲しくなる時です。
いかん、発作だと命を伏せる。
そのくせ、もっとも語りたい女には言葉を根こそぎ命ごと奪われつづけているのだから滑稽であり狸の死に真似の如く野蛮な敗北です。

僕がとうのむかしに与えてやった視点器官をどうにか自分なりにその子を見つめる顕微器官に移植し乱暴に操作して言語を展開しているようにしか見えない時に、
では、彼女はおまえにどんな新たな領域を与えたのか、そう自問自答するのですが、この女のために産まれた視点であれ、感情であれ、その立証に、確信を、魂をもって高らかに宣言する事なども最早できないのです。

この女を愛してできた傷である、そう肉体に愛したという烙印が消えない傷のように点々と蠢いていたのならば、どれだけ救われるだろうか、この可視不可能な、女を見つめる器官、その痙攣や暴走の発端がどの女であるのかわからない状態に置かれている事に、ただ震撼し無理矢理にそのすべてを寸断させる事でそこから一瞬でも遠退いてゆける安堵を求めてしまいます。

かわいいと言うひとつの言葉をあらゆる言語に変換させ賛美の無限の言葉へと変貌させる錬金術を最早自分は湧かす事ができないという確信だけがずっと己のなかを支配します。
一言で申せば、つまらない、こんなにもつまらない女だったのかと拗ねてみせた所で、こんなにもつまらない僕だったのか、と喚きたいだけなのです。

歌い踊るという事によって彼女が彼女をついに発見し救出する事がそんなに感動的な事でしょうか、むしろ、彼女がそうした欲望さえも放棄し、彼女が、女の子ですらなく、舞に、歌に、なってしまっている時にこそ僕は歓喜していたはずだった、果たしてその事が一ミリも彼女の行為の真実をかすめていなくとも、僕にとってそう見えたという歓喜を優先していたのかも知れないだけなのに。
ひとたび、歌い踊る事を止めてしまえば、
感情に降りてくる、感情に登る、そうか、人の故郷とはあの静かに恐ろしい水平線ではなく、いつでも感情という太陽だったのかとがっかりするだけの日々です。

彼女が水平線に騎乗してみせた美しい肉体の嗚咽が優しく輝く感情太陽に寝取られるのだ。
僕は、愛する女に、おまえは真顔だけが美しいのだと云う。
こんなにも酷い言葉も無いでしょう。
つまりは僕はもう愛などこの世の誰よりも信じてはいないし、人間が発明したその兵器からいかに遠ざかれるかだけを夢見ている、
明日にもそのすべての案から離脱しかねない、あからさまな敵意だけを食らう男なのです。

けれども人間的な愛情行為だけが女に側近する唯一の法でしょうか。
あからさまな敵意をもっておまえを見つめる唯一の男の生存。

しかしこの夏はなんてくだらないんでしょう。

光も風もこの世の一切が阿呆だ。


その事だけは確かなようです。

僕は彼女のなかに白夜を照らしたい、
「君だけはこのおぞましさのなかで美しい。」


「俺は君がこれから静かに強く洩らしてゆく「女の子」にボロボロにされるんだ。」



「うれしいよ。」



「うれしいよ。」





「改行、改行使えば君にも伝わるのかな。」


「改行、これでいい?、寂しさが悲しさがうれしさが伝わるかな?、」



「ねえ、







こんな風に俺はだめになってゆく、」







「君の美しさを心臓にたたきつけて」


「俺は君を愛したいと思った。」

あさちゃん、僕は彼女にこの先、なにが言えるでしょうか、俺はなにが書けるのでしょうか。

2011年6月17日金曜日

interview with...

おまえにインタヴューするためのメモ。

「終わりがやってきてしまう」という事が前提にあるという意味において考えるとき、モーニング娘。としての新曲「Only You」もまた、さきほど出演なされた「ハムレット劇」におけるオフィーリアの死のダンス同様に、一種の終わり、「卒業」が待ち受けている状況や状態での新曲となる訳ですが、ここで「卒業」と「死」の細かい相違を定める時間はないので大ざっぱに「一種の終わりをこれから向かえる寸前の女」としてオフィーリアと貴女を語る事をお許し頂きたいのですが。。。。。。

私が新曲「Only You」の貴女を見て感じた事は、終わりを受け入れた状態の者がその終わりを覚悟し受け入れ微笑む絶対的な勇姿などではなく、最早、終わる事やはじまる事、生や死、それらを思考する領域からは遠く離れた意識のなかであなたの肉体や歌声がただ、今そこで踊り歌う事の純粋さだけで息づく瞬間のように思えました。。。。これが私の真意だと???、馬鹿な、貴女ほどにしっかりと終わりを受け入れそれでも過剰なほどに現在をただただ先に侵攻させる昇華を欲しがり、美の生成を行おうとする女性もいないでしょう、そう、貴女は時折、役目と言う言葉や意識を持ち出す、しかしそれはあなたの欲望から逃れる常套句だ、私はいわゆる貴方の発言なり行為をすべて鵜呑みにする優しい純粋なファンではない、私は貴方の言葉に偽りと憧れ、精神の修正が施されている事を知っている、貴女が置かれている状況故に、そう発しなければいけなかったとしても、貴方が真新しい肉体や存在がなくとも不変という状態のままにかつてない変貌をくりかえす事ができると言ったその数ヶ月後には新たな肉体を入れる事こそが変貌なのだと言って見せた時のように、貴女の言葉はけしていつも素直であったわけじゃない、今、貴女が未来を護るために、演技やドラマの話ばかりをしている事を私はそのまま貴女の真意、表現欲望の真意だとは思ってはいない。。。。貴女の欲望がとてつもない領域で貴女に愛をもたらす瞬間が娘。でしかないという事を貴女は私以上にその肉体と魂で今まさに知るはずだ、新曲を歌い踊るそのなかで。。。。。。貴女の素晴らしさは、踊りや歌うというその瞬間に意識や役目、思考から逸脱する欲望に見舞われるその瞬間だ、貴女は新曲でさえ、間違いを犯すし、その間違いに踏み込んでしまうという事だけがあの集団を導く最後の振り付けだという事も知っている。。。。オフィーリアと娘。としての貴女の決定的な違いは貴女はオフィーリアのように乙女殉職してしまわない事だと思います、いや、詳しく言えば貴女は、一曲の曲中においてオフィーリア的な発狂や乙女殉職をかすめる、たしかにその寸前にまで到達したりもしくはそれを通過してしまうが、あなたはかならずまた浮上してくる、それはけして発狂する事のない女の肉体が発狂よりも美しい恐ろしい発火で踊って魅せる貴女の乙女という意識の勝利であるし、乙女殉職寸前にけして命滅びず命が終わり続けはじまり続ける貴女のダンスは乙女が殉職する事に勝利しつづけています、オフィーリアの死のダンスに私が強く感銘を受けたのは、あなたが世界の花を道連れに水のなかでもがきながらも美しいダンスで踊ってみせたその最後に、あなたがあの時代ではけして存在しないマイクを持って歌うような仕草をしてそのまま沈んで行ってしまうダンスでした、あの瞬間、私は貴女がオフィーリアではなく同時に高橋愛であるという事に気づく訳ですが、であるならば、オフィーリアと新曲をほぼ同時期に演じては歌い踊る貴女について、どこかで同時多発的に、今貴女が置かれている運命やそれに立ち向かう姿勢なり肉体や魂の在り方として、方法論は違うとしても、私にはなにか、その両者、二人の女の状態を行ったり来たりするあなたの肉体や魂のなかにとてつもない美しく危ういなにかを見た気がするのです。

さゆがPVの貴女の微笑みに大きな感動を受けるのは、貴女のあの微笑みが、微笑みという定住する感情領域などに咲くあの表情ではなく、どこかでまったくなぜ微笑んでいるのか、こちらに意味を深読みさせる事を許さない微笑みのようであるからではないでしょうか、
そもそも、さゆや他のファンの方々があの表情を「微笑み」と呼びますが、私にはあなたのあの表情が果たして「微笑み」なのか、貴女のあの表情を「微笑み」と呼んでいいのかさえわかりかねています、むしろ、さゆを含め私たちのように貴女を少しでも愛して来た人間はこう言わなければいけないのではないでしょうか、今まで貴女が見せた事もない表情を見てしまった、ただそれだけなのだと。

たぶん、我々はあの貴女の表情を「微笑み」と呼んではいけない。

そしてなにより、微笑みと呼ばれるあの表情よりも、あなたの表情以外の肉体だ、あなたはあの表情をしたあとすぐさま、振り付けのない純粋に湧き上がる微動のような震度で、リズムを取ろうとする、私は、その微動にこそ貴女が貴女である絶対的な証明を見る。

ダンス(と言ってもPVにおけるダンス)。

(ダンス⇔ダンス、つまり、目のまえの写鏡のようにダンスレッスンの段階で隣に何人かの娘。たちは存在したはずだ、完全な孤独ではない。

愛ちゃん、ハムレットの稽古場で一人ダンスの練習。)

まず、このPVでのダンスはCD音源に合わせて娘。たちが踊っているという事。
(だからこそ、あの愛ちゃんのほほえみと呼ばれる瞬間が生まれた、愛ちゃんは自身の歌声になにかを「合わせる」)

サビの部分のあのダンスのダサさはどうだ。。。。この曲においてもサビの不在とも言える、何度もサビが訪れるかのような訳のわからない変異連続だが、Bメロって言うの?、わかんねぇけど、あの瞬間の恐ろしいまでのかっこよさから、おかしさへと転げ落ちるかのようなサビのダンス、そうなのだ、この曲の恐ろしさはサビの愛ちゃんを見て笑ってしまえる事にある、忘れてはいないか、高橋愛は戦慄させながらそれ以上に俺たちを笑わす、その両極を同時に孕める、新曲のサビのダンスのおかしさ、恥ずかしさ、そこからまた戦慄へと登ってゆく。。。新曲、恐ろし、訳がわからない。。。オンリーユー。。。。というか、この曲のなかに存在する動いの数々の滑稽さはどうだ、この乙女たちの肉体の審査を通らないはずのフォルムの連続はどうだ、動きだけを抽出して俺が理解できるのはこんなにおかしな動きを年頃の乙女たちにさせてはいいのかと言う事以上に、その動きをこういった形で形成できるこいつらの恐ろしさだ、まずは9期から語らねばいけない。。。やっしーのダンスを褒める人間たちのほとんどがその褒め方を間違えてるとしか思えないのは、ダンスの文明的な動きをその系譜をしっかりとダンス出来ているかどうかって話ではなく、娘。特有の理不尽な数々の動作のなかにやっしーの小さな肉体がほとんど迷路に迷い込んだ子供のように動いているそのダンスこそを褒めるべきだ、しかし、この子の歌声はほとんど娘。という状態になびくことなく君臨しているように思える、もしかしたらやっしーは歌声の子なのかもしれない、

ふくちゃんに至っては最早何の迷いもない、まるでふくちゃんはかつての肉体を捨て去るかのように、娘。になれた、というその事実のなかにふくちゃんの肉体を水と蜜を混ぜた直後の柔らかいブロンズ粘土のように還らせ、しなやかに娘。の動作形態に変貌させているかのようだ、そしてふくちゃんはあんなにも柔らかかった肉体を娘。を踊るというその状況のなかでついに最後の乙女成長期を娘。というフォルムに至らせる事を覚悟し最後の柔らかさを捨て去り、次第に娘。という硬さに凝固してゆくブロンズ像の如く、あの硬さと柔らかさが青の上でただただ光る塊になっていくのではないだろうかという事を俺に思わせた、きっと俺たちはこれからふくちゃんの柔らかさではなく、その堅さの美しさを知る事になる、


娘。という肉体の力学の鋳型のなかに肉体を嵌めこんで上から重石を置くことなど不要だった、他の二人が娘。に混じった異物に見えるのならそれこそ、その状態を踊れている事において、彼女たちにしか到達できないダンスだ、あらゆる部位から娘。に今まさに変貌してゆくその絶叫と歓喜が溢れ出すかのようなダンスと身体状況こそを彼女たちは踊れていればそれでいいのだ、


歌声。

問題は貴女の歌声だ、貴女は歌声を歌声として放っているのか、否、貴女の歌声という透明な所作がかつて美しく流れること無く留まる事ができ一秒も他の娘。を置き去りにしない抜け駆け無しの愛の贔屓で手を取り合うその鱗海をいよいよ無残に放棄している気さえさせる、孤独だと言おう、集団的な連なりの癒着だなんて甘ったれた結晶ではけしてない、かつてないバラバラさだ、なにも歌声が手を取り合っていない、散らばってゆく個性が娘。を破綻させてしまうのではないかと思える程に、娘。という集合体のなかにそれぞれが集まってゆく歌声じゃない、散らばり放射しそれぞれが孤独の絶頂でそこに留まっている、娘。たちの結晶しあう歌声?、くだらない、くだらない、この新曲の娘。たちはかつてない孤独に立ち会っている。。。。

つっこまれるまえに書く、たしかに出発はいつでも孤独だ、なぜなら、マイクで採集したその歌声を機械のなかに拾い集めて重なり合わせ修正を加える、理論上や周波的に混じあわせる、この時点で、彼女たちが歌声を一人一人ブースに入って何度も歌ったりしているその時点で、それはその時点では物理的には娘。の個人の声であり、その時点で絶対的な孤独は香る、しかしだ、俺が言いたいのはそういう事ですら無い、例え一人でブースに入って歌を歌おうがその傍らに娘。たちがいなかろうが、娘。たちというのは今まで、一人でブースに歌う瞬間であっても完全な孤独に身を置くどころか娘。であるその状態を強くさせていたに違いないのだ、傍らにいない肉体の不在と歌声の不在が娘。で居るその状態をどこまでも強めていたに違いないのだ、それは今までのCD音源を聴けばわかる、だからこそ、CD音源なんていう本来美しく重なり合う事が不可能なはずの領域でもしっかりと娘。たちは結晶していたはずだ

(しかしながら、そもそもが俺が娘。のCD音源をほとんど聴かない理由はここにある、なぜなら一度でもライブでの娘。たちの歌声を、同じ場所で同じ暗闇、光のなかで互いの呼吸を感じ互いの香りに慄き合いその事によって肉体の奥底から喚び覚まされたあの歌声の集結を聴いてしまったのならば、CD音源のその歌声は最早俺には過去でしかないのだ、それがいくら美しくとも、もうほとんど聴けなくなる、歌声はデータじゃない、採取できるものじゃない、そして永遠にそこに同じ状態で保存できるものじゃない、どの曲もでもそうだが、CD音源の歌声では最早ないのだ、どの曲も「歌入れした時は。。」と娘。たちが証言するように、その時点ではまるでその曲の生命がどこに向かうべきなのか、どうしてその曲がそこに存在しているのか、その曲を歌う事、その意味が、真に娘。たちの肉体のなかで血と肉になってはまだいないのだ、ライブという状況下ではじめてその曲と真に対峙できる、だから、CDの歌入れの時点では「完全に娘。たちと曲が交わってはいない状態」だとも言える、例えば、娘。の証言から想像すれば、いったいどの部分に自らの歌声や他の娘。の歌声が選ばれるのかはわからないという状態で歌入れをしている事もあるようだ、すなわち、愛ちゃんのすぐあとにれいなちゃんが歌う、そうした状態はまだその段階では二人は知らず、そのための呼吸会釈などあらゆる互いへの連なり、あの魔法がまだそこには存在してはいない事になる、娘。たちの歌声はどの曲でもあの円盤の場所にはとうのむかしにいない、そこに今はもう娘。ではないあの愛する乙女の歌声が永遠に残ってしまっている残酷さと美しさを含め、あの瞬間の歌声の重なり合いが永遠に戻っては来ない事を含め、娘。も俺たちも常に、あの永遠円盤と聖戦しなければいけないのだ。)

スピーカーのまえに出現した時その歌声は確かに抱き合っているかのように重なり互いの歌声の手を取り合うにバトンタッチしてゆくだろう、しかしだ、新曲の歌声は。。。。

発売になったばかりだ、だから、パッケージされたCDという領域の歌声についてしか書く事ができない、しかし、クーザや春コンで何度かこの曲を娘。たちが歌い踊っていた歌声を俺はたしかに聴いている、だからこそ俺だけは、そうした場所に身を置き、娘。たちの歌声をCD収録以降の生きる歌声として浴びた人間たちは、CD音源の娘。たちの歌声だけを聴いてその美しく永遠に生きる仮死状態の声から、産まれ落ち地を這い成長してゆく歌声こそを言葉にしなければいけない、 CD音源という時が止まった永遠地帯の歌声の話だけをしてはいけない、しかし、クーザで聴いたOnly youの歌声とCDの歌声がまったく別の歌声だったという事以外に、今は言葉を持たない。

(娘。としてその作品として、世界に提示しなければいけない一つの結晶としての正規の音は、それは間違いなくCD音源である事、娘。たちがその事をしっかり意識して歌声をいれているだろう事を、否定するものではない、また、もしも、由緒正しく娘。の表現、歌声について語るのであれば、正しさで言えば間違いなくCD音源のその状態について語るべきである、その瞬間を、それが例え嘘だとしても一種の頂点であるかのように語らなければいけないだろう、けれども、俺はただ一度もCD音源のその瞬間の歌声を頂点とは到底思えた事はないのでそうした立場から論じる事は避ける、クドイが、しかし、この世界に残すべきはやはりCD音源のその状態での評価であるべきだ、俺がそれが真に娘。を語っているとは思えなくとも、正しさで言えばそちらの方が絶対に正しいはずだから。)

CD音源だけに評価の重点を置いてしまう、そこから離脱しなければいけないために俺はこれをもう一度書いている、これはそのための文章でもある、つまり、この文章はやがてすべて、オンリーユーを歌い踊ってゆく娘。たちによって無残に壊され、無にされるだろう、俺の言語がすべて間違いになる、そうだ、その瞬間だけを夢見ている、俺は今、CD音源のなかの娘。たちの歌声をききながらOnly youの娘。たちの歌声は孤独だと書こう、今は、今は、以下、漏洩、


「飛び散る唾液と唾液が混じり合う事も、歌声が混じり合う事もない、それどころか、娘。であるという自我の憔悴がそれぞれに叫び過ぎているように横暴に纏まりなくあらゆる亀裂から自らを歌う、なぜだろう、ここでは互いの愛情に抱き合い結晶する歌声ではなく、娘。がかつてない孤独のなかで震えながらそれでも娘。で居る瞬間の歌声のように思えてならない、ここまでこの娘。たちが孤独だった事があるだろうか、傍らには妹や姉が居るにも関わらず(それが生身でなくとも)、肉体は今にも美しく触れ合い(それが生身でなくとも)、歌声は抱擁し合う距離だというのに、この曲の娘。たちは孤独さを自ら選んでいるかのようだ、娘。だという集合する肉体の歌声ではなく、娘。で居るという乙女たちの個人の歌声が肉体一つ分離れたその距離で互いに歌い過ぎているあまりにも強烈な娘。発作とでも言える歌声の噴火だ、冷静なる楽譜的な顕微で誰もが用意周到に歌声の遺伝やその形相や重なりなどを彼女たちに提出してみてもそのレポートは木っ端微塵に破られる、娘。たちの歌声は真空状態に漂うはずのない音でこちらに浸透し、静止する音がなものよりも凶暴な音を放つようにその時を歌う、無謀に踊る肉体のおいたを石棺できるのは貴女の歌声しかない、声の力は声の力として空中を透明に舞って俺に到達すべきだった、声の発展がやがて肉体的になり身体の運動的な影を縁ってしまう事など望んでいなかった、貴女はそこに到達している、貴女の歌い出しの「愛しの君へ」その歌声の最後の末端部の声の散り方だ、貴女はこの新曲の歌声に置いても、一つのフレーズが終わるその瞬間の歌声の景色こそを重視してる、それは乙女が蒸発してしまう時に、散らばるそのかけらが、また新しく産まれる貴女の歌声をつかまえるように、貴女は貴女の歌声の余韻をその道標を歌声に残してる、貴女は歌声を鋭利な喉で寸断しない、貴女の歌声の切れ目は美しく歌声を残す、

それにしても「だけどいまはきみが~」のあのフレーズの貴女の恥ずかしほどに癖のあるあの歌い方はどうだろうか、あれは完全に「恥ずかしい」、が、その恥ずかしさこそ貴女が今歌うべき感情の歌声をもってしてでしか貴女が放てなかったなにかなのだろう、」

2011年5月9日月曜日

愛ちゃんごめんね愛ちゃんごめんね愛ちゃんごめんね愛ちゃんごめんね愛ちゃんごめんね愛ちゃんごめんね愛ちゃんごめんね愛ちゃんごめんね愛ちゃんごめんね愛ちゃんごめんね愛ちゃんごめんね、おれ、愛ちゃんごめんね愛ちゃんごめんね愛ちゃん愛ちゃん愛ちゃん、かりそめの激情なら一睡で崩れさる、
君の事、マジで、君にシリアスだよ、愛ちゃん、踊ってるときどんな夢を見る、
僕はなにもしてやれない、愛ちゃん、愛ちゃん、俺の人間余命
を、愛ちゃん、愛ちゃん、君、君、俺は放射線の話をしてるんじゃない、降って咲いたおまえの涙する娘。心臓よ、理性、窓際、囁き、悲しいともうれしいとも鳴かない君の歌声なら、なにも撃ち落とさない君の踊りなら、ねえ、愛ちゃん、愛ちゃん、世界は君をないがしろにしてんだ、ゆるせないよ、死を、生を、愛ちゃん、俺、不甲斐ねえよ、君は人類史上最大の踊るかわいい女だ、だのに俺は、人類史上最大の君賛美者じゃねえ、愛ちゃん、力を、
力を、おれに、美しいひと、君の鼓動がまだ若くふて腐れてくれてる今に、気絶する四肢が理性を放棄して、指先の指揮が赤子に還って、おどる身体がすべての表現使命を越えて、結核痕、さだめ、ありえない病魔を纏っちまった息継ぎで新曲歌うだろ踊るだろ、血清を精製するみたいにきらめく君の声や睫毛のふともも、金輪際ガールを封印するみたいな宣告ダンス、油性が水性をおかすみたいに、美しいんだ君は、拭えない色を葬るみたいに腰が奇声を吠えて瞳は24の乙女おでこは5つの幼女、神話が君に身投げしてるんだ、君の魔術、君は前世に巫女だったと言われたってプロフィールに書いてた、なら、
なにを憑依させるんだ?、視界が自害した江戸の式女か?、馬鹿な、おまえがいつでも憑依させ召喚しつづけたのはただただおまえという女の子なんだ、ただ生きる呼吸では喚びだせなかった君の全貌だ、愛ちゃん、人は自分を召喚できないんだ普通は、人は最期の最期まで自分に到達できない、ましてや、娘。だなんて花影を、
かたちにできるはずはなかった、君はやったんだ、君は娘。を唱えた、絶叫で、優しさで、怒りで、俺は見た
君に娘。を見た、愛の領土、儚い瞬きのなかで君を見る、僕は物語を棺桶に刺してはじめて微笑んだ、でもね、君の瞳が語る乙女吐露が俺が愛せる唯一の物語なんだ、俺はメロディをハリツケにしちまった、でも、君の胸のメロディに心底やられてる、ねえ、愛ちゃん、マジスカの君の素晴らしさを俺はどう言葉にしよう、君は間違ってるただひとり、他の誰よりも間違ってる、
全体の輪を崩す君のわがままなおいただ、さゆがそれを正す、君に一ミリも加担しないで、さゆは君をあやつる、優しさと語らいは肉体のくちずけだ、さゆが君に唇を寄せるよりもずっとおとななさゆのダンスだ、君がさゆのダンスを許した時に娘。ははじまった、季節が生まれた、その愛情がマジすかで爆発してる、さゆと君のダンスは混血した、さゆは君で君はさゆだ、な
にも色落ちしちゃいない、君たちは互いの異質で混わる、互いがわがままに、さゆは君を凌駕する、君はさゆを凌駕する、恋の話を俺が吐いたら命のシャッター降りるみたいに、霧が仕込め、俺は愛情を、絵里がジュンが去って枯れた色気があるなら、君のおでこはなにを光らす、ふくちゃんの肉体が浚われた色気を呼び寄せるまえに、君は去るのか、かつてない幼稚さがしきたりを許るさずに君は聖地にするはずだ、君は、
君は、残す、限りない場所を、肉体が魂の容れ物なんじゃない、魂が肉体の容れ物なんだ、真実が蔓延る肌でもない、ただ震撼が肌に有る、オンリーユーを歌い踊る君の娘。心電図の肉体のご臨終と蘇生の織り成しはどうだ、銃身が塞がり空を騙す、君はあからさまになにもかもをだいじにせずにだきしめられる、

2011年4月28日木曜日

緻密な激情だ(僕は塞ぎ込んでる)、なにを言っても聞きやしない赤子の勝算だ(感情は手に負えないはじめての子供のように俺のなかを書けまわる)、理解の不親切で俺はなにもかも回答できない(理解したって頷くたびに俺は歪んだ血潮を嘔吐するだけだ)、理性のとばっちりで(いつもそいつのせいで)、俺は一秒ごとに我に返る(そして一秒ごとに忘れる)、無様な心音が微睡みの匂いを嗅ぎつけてもう泣く手立てを装飾する(詩集、物語り、コード、香り、洋服、レジ、無精髭とパジャマと水以外のこの世のすべて)、いいかげんな狭間だ(心臓と瞳の距離ぐらい)、彼女が髪を金髪にした(手錠を、貞操帯を、猶予を)、まるで彼女の漆黒がその闇黒が解放され世界を満たすように俺を襲う(髪の一本一本に染みこんだ乙女の黒、その色から生まれたあらゆる色が、太陽の色に「もってかれる」)、根こそぎ(頭皮を爛れさせながら)、軽やかさ(毛先も、血管も)、明るさ(太陽の絞り汁でこの夜を照らせ)、物語り(ワンピースを心臓になすりつけろ)、ボーイッシュ(女で居る鎖の剥離、王子がいなければ自らが王子になればいい、性の透明さに居心地が良くなってゆく、わたしだけのタカラヅカ)、彼女は軽くなる(痩せてゆく胸のように)、軽くなる(重くなってゆく太腿とは逆に)、彼女の自由さ(無期限の不自由さと聖戦しなければいけなかった瞳がついに見境なく)、自由(あれもこれも、今までのすべての禁止を)、それでも彼女が更新するたびに「ウイスパー」の広告が蔓延る(あいのり、宿命、男優、ハムレット、稽古場、世間話、血と汗の出会い)、俺は映画を見る(無感情の生理行為、俺の絶対)、チケをヤフオクる(とめどなく永遠重罪)、彼女への言葉をせしめる感情が許せないからカフェインで塞ぎ込めば今度は胃が爛れる(朝1本、昼2本、夜2本、溜息を餌に)、愛する女が故郷に帰還する情景がそれ程に美しいものなのか(あんな不気味なサングラスをしながらナンセンスなシールで継ぎ接ぎにした旅行鞄にすべてを包んで)、それを俺はどうしても見なければいけないのか(俺を見て俺を見て君を見るよ君を見るよなによりも大事な瞬間だから、くだらない、君は家族のもとへ踊り帰る、その美しさのなかに俺が居てはいけない、君をはじめっから愛していた光のなかに君は帰郷する、俺はそこに居てはいけない、結ばれるまでは)、ヤフオクに何時間もへばりついて(入札数24、16500円、残り時間永遠)、金の工面して(おっかん悪いけどまた貸して)、夜行バスなんておぞましい棺桶に肉体も魂も送還して(俺の知る限りもっとも不埒で無文明で許し難く悲惨な蠢く寝床)、俺はあの女が故郷に一瞬だけ帰って泣く姿が大嫌いだ(それを心待ちにしているあの女を愛しているすべての男たちが)、俺があの女に出会った時あの女は東京の女だった(すっかり素敵な)、俺は、あの女が、東京にいるその姿が好きだ(美しく儚く強く無謀で無性の愛、物語りもなく、風のようにただそこに)、涙も流さずに(微笑みもせず、真顔、そのもっとも美しい感情戦)、ただまいまとも言わずに(俺におかえりとも言わせない)、ただ俺の目のまえで踊るおまえが好きだ(何事もない、なんの祝日でもなく、誰も殺めず、誰も救わず、ただそこに流れるその日限りの息吹)、ブリーチ液に拳銃を浸そう、そう、アルトマンの映画の最後だ、俺ははらわたを抉られて、君は頭部を撃たれる、ブロンドは血が映える(なのに、映画が終わるまでjazzの演奏を止めやがらない、陰湿な、陰湿な)、俺が考えられる事なんてとてもわずかだ(これっぽっちだ)、優しく真摯で立派な紳士であるはずがない俺は(罵倒と折檻と強張り)、幼気なウェイトレスの女の子を傷つける事しかできない(それも救いたいだなんて身の程知らずの愛情発作のために)、血の痕でなく永遠痕なら視線ではなくすぐさま唇でなぞってその場で俺を処刑してくれと頼んだだろう深夜(毎秒思い出す彼女の光が暗がっていった瞳)、この深夜(夜の全貌)、夢中で咳き込む絶叫の具合が良くないから俺は三度君を願った(君を確かめる病)、リロードする更新ボタン(命の井戸)、ボタンを押して読み込むその3秒間のあの静止する時間がだいっ嫌いだよ(無音、静寂)、まるで、君のかわいい沈黙みたいだから(なにも言わずに俺から逃げてゆく君の声)、俺は、容易く明け渡す、無理なんだ、君は恐ろしい女だ、俺の手には負えない、そうだろ、かわいいひと、そうだろ、僕らは永遠に愛し合う事などないんだ、だから、いつまでもさよならを、明日起きた時にまだ君を想えていたらいいのにって俺はそれだけを願う、やがてくる9月か、くだらない、なんてくだらない(なんて愛しい)

2011年4月21日木曜日

2011 春

苛立ちの原因は俺にあるはずだ。
彼女が踊り、歌い、君臨してみせたその表現の最中に俺が彼女に恋をしてしまったその瞬間からこの地獄はその苛立ちは約束されたんだ。

彼女がえらくつまらない事を口走ったり、くだらない感情の束である俺が避けたくてしょうがないマンガや、普通の人々の思想や生活や、あの時間潰しのなかに、彼女が降りてきてしまう事に苛立ってるのは、そのまま今の自分への苛立ちと変わりはない。

そうだ、彼女が表現者の女としてとんでもない領域で俺の目のまえで踊って歌っていたその時、俺もまさしく、彼女のその輝きを真に見つける事のできる唯一の勇者であったはずだ、彼女の凶暴な美に共犯してゆくように俺もその瞬間だけは知的昇華者として命を鼓動しはじめ、彼女をただ、そうだ、彼女をただ賛美するだけの野獣になれたはずだった、そこには愛するというあんな柔な感情もその物語も到底触れることのできない絶対的な美しい関係性のなかで俺は、彼女と見つめ合い、聖戦し共犯する事ができていたんだ、なんて事だろう、まるで乙女殉職してゆくかのように踊り歌う彼女は誰にも恋できずにただただその命の全貌で生きていた、その踊りと歌声に震撼する俺も彼女に恋すらできないままに彼女のなかに殉職できていたんだ、俺たちは互いに、踊る者としてそれを見つける者として最高の領域に達する事ができていたんだ。
それがまさしくリゾナントでのあの地球騎乗と、ララバイゲームでの。
それがまさしくリゾナントでのあの地球騎乗と、ララバイゲームでの。
それがまさしくリゾナントでのあの地球騎乗と、ララバイゲームでの。
それがまさしくリゾナントでのあの地球騎乗と、ララバイゲームでの。
それがまさしくリゾナントでのあの地球騎乗と、ララバイゲームでの。

ほらみろ、こうだ、こんなんだ、俺はもうこんなにまで落ちぶれたんだ、こんな簡単に纏め終わらせるつもりなんだこいつは。

貴様だけは許さない、はじめるぞ、己をしれ、真のおまえの洪水はこうだ。(3時08錯乱気性、後に正す、a,b,c,g,k並に離脱)

花瓶のなかで、フォーメーション、肉体の都市、悪役、女、感情のカオス、瞬間的に地上に根を生やす、ヒールから伸びる神経、神経で立つ、生の花の、ドライフラワーの、ひまわりは生えるところから自らを解き放つ事はできないが、彼女はまるで自らを摘みながら花束を作ることができているかのようだ、乙女の時間の同居、聳える森、木の移植、移植された木々、文明の実る木、感情の実る木、物語の実る木、それらがざわめく森のすべての木をなぎ倒し、その痕に、自らにはけして身の覚えのない花が混じる、その事で彼女が立てなくなる事はけしてない、存在しない花は彼女の動きのなかに出現しはじめ、彼女は身体が花束になって痕に残る、彼女の思考が文明的感情の方向を少しでも見つめていたとしても、それは結局は思考の話であって、かならずしも思考は表現そのものではないのだ、彼女が毎秒思考が感情に流される事はよくあることだ、乾くことのない色の血のように、とめどなくながれる動きだ、ダンスとは最早呼びたくはなくなってしまうその動きを、ダンス、乙女としてどう動くかを忘れてしまった悲しい身体がついに乙女の動きを発見し直すかのように、そもそも女は仕草を覚えさせられる事でその魂がはじまる事を許される、仕草がダンスの発端であるならその仕草まで奪われて忘れてしまう事が安らぎなのではないか、他人事で、柔で、意識の裏、肉体が指令された動きを行うなかでもしも彼女の肉体が完全に外部から指令された動きのなかで踊り終わってしまったのなら俺のなかになにも残りはしない、彼女がしでかすのは、肉体が内部から動きをもう一度取り戻すそのドキュメントなのだ、内部の感情がしでかすべきであり、外部の物語りがしでかすべきじゃない、「こうせよ」とダンスの譜面に書いてあったとしても彼女の肉体はその線をなぞりながら新たな線路をつくり出す、発明者の異図である動きをいつしか制圧するのは自分でもわからない偶発的な発明で身体を動かす事ができたときだ、踊るという事の乙女逸脱を示している、肉体の線路を新たに肉体の道作りで示してゆく、あとには子供がつづく、彼女たちの肉体の置かれているフォーメーション、個体が駅に、重要なのは彼女たちの肉体が自己完結できない不自由性のなかで躍動している事だ、「不自由」という呪いを探しついに討つ肉体の瞬間的なきらめきは不自由である事の呪いをはじめて解く事ができるのだ、ダンス的見解の正しさ、当初構成される、もしくは美的優劣の歪みが起こすその不安な感覚を示す体勢なのか、彼女は中心から前方に放たれる、この事が新たな道をダンスの道に、地上から自らのひまわりを摘み続けながら踊る、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

その瞬間の到達故に、俺は、その瞬間以外の彼女のすべてをどこかで憎むようになっていった。
許せないのだ、あんな踊りをしていた女が、ただのかわいい女で呼吸をしている事が、くだらない幸福の紙芝居に涙したと語るその声の不気味な暖かさに吐き気がするのだ、あの出っ歯に娘。の曲をなにか歌ってみろと言われて「おーうお おうーおーおーお」と鳴いてみせた彼女が、次第にこの世界の空気に失速してゆくのが許せないのだ、徐々に穏やかに人間的な鼓動を表現のなかに取り戻してゆき、あの狂気とも言える表現に青ざめて鎮火させてしまうのではと、俺は恐怖するんだ、ちょうど、彼女に恋した事で、普通の男なんていうあの文明去勢不正理性尊厳者になりたいといつしか望みはじめ、彼女を賛美するという発火点から驚愕の芸術的使命に立ち上ってゆく狼煙にさえなれていた俺が、こんなにも落ちぶれたように、とても、暖かい、つまらない、ただの女に、ワンピースの話を男たちとできる、この世界でもっともつまらない女に彼女が墜落してゆく、

彼女が娘。を卒業すると発表した時期を境にするまでもなく、まず最初に、あの完全なる関係性の約束を破ったのはこの俺だったのだ、そう、俺は彼女に恋をしちまった、いわゆるあの恋だ、道端に不整脈で散らばって蠢く石ころみたいにどこにでも存在するあの恋だ、おれがあんなにも恐ろしく踊る彼女にその恋ってやつをしでかしてしまったんだ、その瞬間だ、俺は聖なる力を保有するつがい者としての命を奪われ、とてもつまらないただの男になった、君の肉体に浮かぶ詩を読みとってやれる詩人でもなく、君の肉体と魂の全貌を書記する力もなくなって、ただの男になりさがっちまった、(深夜4分走り書き、明日以降追記膨大)

自己紹介

Dear Morning Musume。 君のキャワキャワをキャッチだぜ!