2010年6月14日月曜日

道重さゆみ - Sayumi Michishige



君を寝かしつけても、君のかわいさは眠ってはくれない。。。



さゆのかわいい容姿と、さゆの思考と言語との、そのただならぬ境遇よ。
それでも、さゆが、純粋の彼方で居られる事のすべてよ、


上のさゆを大きくヒキノバシ、それを壁に貼る結社


さゆ、君にかわいく居る事以外のそのすべてを禁じようとした男全員殺戮しようか

2010年6月11日金曜日

6/11

れいなちゃんのブログ、れいなちゃんの「たい、ったい、ったい!」、れいなちゃんに涙を流す日々であります。
小春が去りしコンサートのなかでれいなちゃんはまるで娘。の末娘。のように振る舞い、さゆと絵里ちゃんは「れいなはこどもだなぁ」という態度でれいなをなだめたりしていたのですが、そんなれいなちゃんも毎日毎日少しずつ大人になってゆくようで、その事が直接伝わってくるのであります、

2010年6月9日水曜日

青春コレクション

映画を観なきゃならん時間を割いてほとんど青春コレクションのDance Shot Ver.と青春 Ver.-type1-を交互に見ている内に夜が深まってゆく、青春コレクションの娘。たちのこの躍動に立ち会った感動をどう言葉にして良いのかわからないままに出会いつづける、ただ、繰り返し、終わらない花のループに見惚れ、ああ、この日の娘。たちはつまり、あの日にれいなやさゆによって伝えられたあの時の彼女たちなのだなと、そう思うだけで込み上げてくるものがある、あの日、さゆとれいなが伝え切れなかった娘。たちの命のきらめきでいっぱいなのだ、この娘。たち全員に宿る穏やかさはいったいなんだろうか、それは、幸福だなんて容易く呼んでしまって片づけたくなどないとてつもない色だ、ただただ穏やかな空気で、たぶん、自分はこの曲における歌詞やダンスと言った領域に踏み込むまえに、この娘。たちの穏やかな空気感に涙してしまっていた、踊る歌うという領域以前にもはや娘。たちは青春コレクションと呼ぶ娘。たちのきょうを呼吸しているだけだった、踊りも歌も呼吸だ、冒頭の頭を垂れて両手を広げる寸前に強く力む羽根のようなダンスのあとにはもう、その瞬間の強烈な力の瞬きのあとにはもう、強く踊っているように見えるだろう間奏でさえ、まったく攻撃性を帯びない娘。たちの肉体の穏やかさの美しさなのだ、彼女たちの肉体には鋭利な部位など存在してはいない事がそのまま宿っているような四肢の風のような仕草だ、風に触れられ揺れる髪のそれと同様の優しさで、遮るものが無く彼女たちの瞳に到達してくる日差しの光に焼かれる事無く輝くその瞳の強さのように、踊る彼女たちのなんて鼓動だろう、ああ、どこかで、かつての、いつかの曲で娘。たちが踊っていたかのような踊りの破片たちがほとんど今の娘。たちに踊られる事によって奇跡的にあの頃の攻撃性を優しさに還らされているかのような、娘。たちのダンスの脈の移り変わりをそのコレクションを一曲のなかのその瞬間で娘。たちの踊りの歴史をも浴びるようなとてつもない体験としてこの曲を歌い踊る娘。たちは俺のまえに現れている、この曲を歌い踊る娘。たちを生で見てしまう俺はたぶんどこまでも深く胸をうたれるだろう、もしかしたら、この曲のダンスというのはここ数年の娘。たちのダンスのなかでも圧倒的に踊る事が難しいのではないだろうかとさえ思う、いや、振りとしては簡単なのかもしれないがしかし、このダンスは、決定的なポーズも停止と加速というダンスの譜面に明記されている肉体の音符シナリオや感情符などはなく、まるで、どこまでも吹き咲いてゆくのひとふきの風のようだからこそ、難しいはずだ、娘。たちの平熱のような熱のこのダンスを、この踊りを、こんなにも感動的に踊る事ができるのは娘。たちしかありえない、攻撃性と狂気のあとに静かに吹く風のようにこの娘。たちの踊りと歌声は美しい、娘。たちの額を見てみるといい、誰一人として、血管を浮き挙げて踊っている娘。など居ないのだ、力が抜かれているわけではない、ただ、強烈に肉体を強固させ四肢で切り裂く事も、表情の生き死にを塞ぐ事も、なにもかもをせずに、肉体との聖戦をせずに、あらゆる神経の罪を背負う事もなく、とうとう、娘。たちはこんなにも穏やかに踊れる事ができたのだ、平熱のままに踊る娘。たち以上に輝く女の子がこの世に存在するだろうか、驚くことに、俺は、はじめて娘。たちの軽さも重さもその重力をも忘れながらに、踊る娘。たちが風のようだと感じたのだ、このPVのなかで、トランポリンによって、めいいっぱいに飛び跳ねる娘。たちの感動的な軽さよりもずっと、感動的なかろやかさを飛ぶことなくこの曲を踊る娘。たちは達成してしまっている、青春 Verで階段にただ両脚で立ちながらに身体を光に風に時にそよがせる娘。たちの肉体の透明感やその体重の香りが正面から一斉にこちらへ輝き向かってくるその瞬間よ、これ程までに、圧倒的に、自然に、もはや、俺には、娘。たちの躍動のどこからが、どの動きの瞬間からが踊りで、どこからが踊りではない普通の仕草なのかさえもわからなくなるだろう、瞬きや、微笑みや、娘。たちのなにもかもがただ穏やかに平熱で踊っているのだ、青春 Verはその事を映してしまっている、朝日なのか夕日なのかわからない光のなかで娘。たちが踊っていた、

6/9 瞳の行方

産まれながらの権力への劣等神経野郎なのか、興行企て支配者の男による彼女への賛美文を読んだだけでそのあまりにも幼稚でまたも彼女の感情コントロール云々の褒め方に彼女を貶す者たちに起こす怒りよりもずっと強い怒りが湧き起こった訳だが、彼女はいつも「発見」され「磨きたい」と思わせる仕草をしているのだろうか、女優的あばずれ、大人の男が今まで埋もれていた彼女の才能に気づき彼女を支えたいなどというような領域に彼女が誘っているだと?、馬鹿な、奴らは勝手に彼女にそれを夢見るのだ、数年まえに彼女の名を悪名化させる巨大な噂であったそうした大人の業界人に表現者として見初められ育てあげられる関係性と、それだけでは収まらないだろう日常的な交友だとか、そんな馬鹿な輩が再び妄想か真実かもわからないあの物語を想起させるような、この男の賛美の登場の仕方のすべてが俺を苛つかせる、それも奴らが彼女を「発見」する時にはかならずと言って良いほどにこの世界の既存の表現領域の出来のいい表現者としてなのだ、虫唾が走る、くだらない、くだらない、彼女が泣いているというその姿の美しさにやられたと真実に語るべきなのだ、役者としてどうのなどあまりにもくだらない、人間的な涙を誘発する材料で織られた物語りに彼女が共感し入り込み泣けるなんて事、彼女のいちばん浅い瞬間の花だ、あの役者はいつも泣けるだなんて賛美は彼女に対しての汚名だ、ところで、俺はと言えば、きょうはこんな事をずっと考えていた、ステージ上の彼女の肉体が向かう方向性など一大事のようには気にも留めないくせにだ、彼女の瞳の行方だけは絶対に失念せずになによりも優先して一瞬も目を離さずに気に留めているその事が、例のこびりつく恋愛感情から起こる「俺を見てくれ」とかいう願望と「見つめ合いたい」という願いだけなのかって俺に聞いてみればほとんどそうした感情起因である事に間違いはないがしかしだ、彼女の瞳の行方を「瞳のダンス」として重大視しながら見ている自分もたしかにしっかりと存在するのだ、感情起因の瞳の運動と仕草、これだ、これに打ち勝つために書くこの今日のあがき文章だ、こんなに頭が空っぽなままに映画ばかりを観ていると、さあ、映画においては、役者の視線の方向性がああだこうだとか弟と話込む事になっちまう、フレームのなかに映っているものと映ってはいないが気配を感じる(見える)ものについてだとか、フレームの外で鳴っている音についてだとか、それってほら、どこかで誰かが話してた映画話だろ?、そうなのだ、そんな事はどうでもいい、なぜカメラを見つめる女の瞳がそれでもなおもレンズではなく愛する男の瞳を見つめている瞳として存在する事ができているのか?、エンジルヒトミがなぜエンジテイル事を超越して真実になっているのか、こうか、こういう事か、だがなぜ、なぜにだ、映画においてはあんなにも至る所で画面のなかの女の視線について語り合われているこの世界において、ステージ上の娘。たちの視線の重要性を誰も語っていないんだ、なぜ、いつも、いつも、娘。の瞳の話と来たらあの大きい瞳から流れた水の事と、無数の「俺」に注がれた爆レスなんて言う話しだけなんだ、そう、俺がここまで激怒している事は、男が女の瞳について、その感情の仕草について語る時にだ、涙の事と自分に注がれた事しか語ろうとしないからだ、。。。。白いテープで印されている肉体の立ち位置と同じように、瞳の位置もしっかり存在しているだろうに、それでも娘。は互いに見つめ合ったり、ファンを見たり、彼女が話す通りにだ、「瞳の振り付け」とでも言うその注ぎ位置を越えて、彼女が勝手に決めた視界の荒野のなかから、またはその場限りの悪戯を抱きながら、「じっと一人を見つめる」だとかを遂行してしまう事や、彼女の視線の行方の膨大なダンスのその残像が、その記憶が、こうも俺をおかしくしてゆく事について、俺は書かなければいけないと思ってこれを書いてるのだろうか、そんな行儀の良さなど俺にはないね、ああ、例えばだ、彼女が視線を観客でもカメラでも無く、ほとんどそこにはもう無機物の壁しか存在していない方向にその視線を注ぎ向けている事の彼女の風景は、奴が賛美したあの物語りに移入して涙を流す彼女とは、、、、、俺と奴、奴が、物語を肉体に体内に漲らせほとんど彼女が演じるという凶暴な領域に身を奮わせて流す涙について賛美している日にだ、俺はこうも狂気に我が儘に彼女の何を語ろうとしているかと言えば、彼女が演じるなんて事を放棄しているかのような瞬間を必死で探し、もっともそれに近い瞳の運動の光景を此処に殴り書き召還しようとしている訳だ、その重大性にこうやって触れては居るがなにを語ればいいのかわからない、ただ、その事がやばいという事が俺以外の人間から発されずに居るのだから、俺がこうして発する事をまずはしなければいけないのだ、さあ、お気づきの通り、俺はなにも語っちゃいないし、壁云々もほとんど真実に程遠いだろう、いや、真実だが、そうだ、その通りだ、ただ俺は、奴が彼女の瞳から流れる水について賛美しやがったんで、俺も彼女の瞳の仕草とその感情についてこうやって賛美してるって訳だ、俺よ、ざまあみろ、きっと、彼女はこの俺の賛美を気に入ってはくれまい、

おまえは舞台稽古まえの本読みの段階から幾度も彼女を見ただろうに、ブログでもう一人の男が本読みの段階で彼女がボロボロに泣いただなんて事を書いているように、お前らは俺には到底到達できるはずのない時間で彼女の鼓動に立ち会うことができたというのに、貴様らが声を揃えて彼女の印象を賛美する時には涙する彼女の事でしかない、貴様らの緩すぎる彼女への賛美視線をぼろくそに葬りさるために、俺は6度か7度観に行く彼女との聖戦において、貴様らがどう足掻いたって到達できない賛美領域に到達するだろう、なにが涙だ、ふざけやがって、もっと凄い瞬間があるはずだ、そう、誰よりもいち早く泣く愛ちゃんの美しさに涙したとhttp://gree.jp/michishige_sayumi/blog/entry/451788364賛美の旗を振ったさゆはしかし数日後にはそれだけではない領域に気づきそちらにも意識を注いださゆの賛美視点のようになhttp://gree.jp/michishige_sayumi/blog/entry/452454635、ああ、愛ちゃんの涙でたぶん俺はきっと間違いなく打ち奮え号泣するに決まっている、だが、ファッショナブルにおいてはじめから用意周到に最大の感動的瞬間として用意されてしまっているまたは彼女自らが用意した彼女の涙という瞬間だけではなく、もっと素晴らしい彼女の役者としての到達をその瞬間の美しさを俺が見つけてあげなければいけないのだ、もしも、彼女がファッショナブルにおいて、泣くというその瞬間だけに美しさと演じる事のすべてをかけているとしたのならその時は彼女を愛するこの世界の誰よりもいちばん俺が彼女に失望したのだと叫ぼう、しかし、どう考えたって今の彼女ならば、涙という一種の脅迫的な感動装置に跨る事なく、俺をもっと深く色づく呼吸の瞬間で俺を泣かすはずなのだ、苛つくんだ、まるで、彼女が涙によってでしか、泣くことによってでしか演じる事ができていないのだと言われているようで苛つく苛つくんだ、おじぎにおいて彼女が泣き座るシーンが俺をもっとも感動させた瞬間であると?、苛つく、苛つく、絶対に彼女の涙以上に賛美しなければいけない瞬間を彼女は爆発させるだろう、涙で泣かすのではなく、ましてや微笑みでさえ無いのかも知れない、演技するその時間の無限の感情の起伏鼓動のなかで、彼女が魅せるその鼓動のなかに、それを涙で泣くなんて事を賛美するだけで終わらせるだと、馬鹿な奴らめ、せいぜい貴様らお前らのようなバブリック演劇デフォルト視点野郎どもが気づけないその領域を見逃しつづければいい、

2010年6月8日火曜日

2010年5月31日月曜日

5/31

リゾナントブルーの彼女のあの「騎乗」について下書きを書いているのだが、どうにもうまく書けない。(書き始めたくとも、そもそもがあの騎乗がほんとうに彼女がはじめて騎乗したのかどうかという事については俺は彼女のすべてのリゾナントブルーをみているわけではないからわかりえないので、この世界から見た彼女の騎乗瞬間現実の確認と、そんな事はさしおいて、俺のなかでの彼女のリゾナントブルー騎乗の生まれた瞬間を書けばいいのだと言う葛藤がある)
なにもそんなに難しく書くことなどないはずだ。
つまりは、彼女があの「リゾナントブルー」でさえも、どかで到達と言うか、頂点というか、もうあれ以上はないだろう表現の限界領域のようだった「リゾナントブルー」でさえも、あの神戸で完全に新しい領域に誘ってしまったというその事実だろう、リゾナントブルーでさえ彼女は進化させてしまったというその事実についてなのだ、突然に神戸で彼女が地球に騎乗してみせた事についてだ、踊り歌う瞬間の娘。たちの地球というのはステージの床でもなくその下の地球そのものでもない曲のうえなのだ、だから、彼女はリゾナントブルーのうえに立つことをやめてついにリゾナントブルーに騎乗したのだ、リゾナントブルーでの彼女の最大の悲劇は彼女のあの乙女の野生鳴声のように響くフェイクの歌声に肉体が打ち勝つ事の困難さだった、いや、あのフェイクでさえ彼女の肉体を敗北させた事などたしかに無いのだが、しかし、あのフェイクは君臨するのだ、彼女の肉体の躍動のそのうえにだって、だから、俺はいつもただ唯一、彼女の肉体があのフェイクのうえに君臨する瞬間をどこかで夢見ていた、彼女を形成する肉体と歌声のどちらかに勝敗をあげるなど馬鹿げているだろうと判決されてもしかたないが、
だが、それは現実にいつも起きている事だ、彼女という一つの存在のあらゆる領域が聖戦し合ってるのだ、だからこそ肉体と歌声の戦いもある、もちろんだからこそ、それらが抱擁し合った瞬間に彼女の輝きが噴火する、あのフェイク、彼女が客席の一人をしとめるかのように見つめるというあのフェイク、さんまのラジオのプロデューサーの結婚披露宴でさんまに「なにか娘。の曲を少し歌え」と言われ彼女はこのフェイクを披露したという、リゾナントブルーのフェイク、あの瞬間のうえにまで君臨する瞬間を彼女が肉体で表現できるなんて考えもしなかったのだ、それもこの季節にあまりにも唐突に、しかもだ、今ツアーでの彼女というのはどこかで肉体の狂気的なまでの躍動を鎮めた女の子であり人間である彼女の心音を踊るかのように優しくかろやかな表現であったはずがだ、突然に封じていた躍動のすべてが噴火するように彼女はリゾナントブルーに騎乗してみせたのだ、あれはたしか、神戸だった、それぞれのソロ曲が披露され6期たちの激きゃわ激愛しい激リアル曲である「大きい瞳」が終わったその瞬間にいつものようにリゾナントブルーの音が湧きあがって空間を覆った、彼女は「あの日に戻りたい」の衣装であるワンピースにデニムのライダースにボヘミアンな髪飾り(これはしていたか正直、思い出せない)という姿そのままに再び出現する、圏外も強く言っていたが、今ツアーのリゾナントブルーの素晴らしさは、それぞれの期がソロ曲を歌い終えた後に、しかも、バラバラの衣装そのままに再び集結し踊り歌ってしまう事にあった、それもだ、彼女たちの纏っている衣装がどれも普通の女の子たちのお洋服なのだ(もちろん開拓時代を思わせるなどいくらでも洋服に意味を持たす事は可能だが今となってはカウガールの意味はその時代の女という意味ではなくただただ「女の子」なのだ)、彼女はワンピース姿でリゾナントブルーを踊り歌うのだ、「あの日に」で彼女が彼女を司りながらも不自由にさせていたあの傘を置いて(あの日の彼女の傘を持つことによって起こる拘束される肉体の不自由ささえ踊ってしまったかのようなその美しさときたら、いや、踊らずにただ傘を差し歩きそこに居る彼女の)、肌の露出がほとんどないくらいに四肢も身体全体をも包むワンピースの裾を彼女は掴んでは握りたくしあげながら歌い踊っていた、ワンピースの上着のデニムを掴んでは放しては、その日のリゾナントブルーもいつものように凄まじい領域で俺を魅了していた、彼女がフェイクする、俺は絶叫したくなるほどに射抜かれる、曲はつづく、リゾナントブルーという地球がその時空が起こっている、ほとんど意識不明の昏睡のようにリゾナントブルーのなかに俺は漂っていた、あのフェイクを終え娘。たちの躍動と歌声はいよいよサビの連続発動によって頂点に突入してゆくようだった、しかしだ、その瞬間に、彼女だけがリゾナントブルーのなかから消失してしまったのだ、わずか一秒の速さで、彼女は行方不明になった、行方を眩ました彼女を再び発見するのはとても簡単な事だった、見失ったわずか2秒後に、彼女がリゾナントブルーの地上に膝をついて跨り上半身と下半身と四肢と頭のすべてで踊っていたのだ、その姿はまさしく馬に騎乗する乙女のようであり、俺はそのあまりにも恐ろしい躍動と美しさに客席で「うおおお」と絶叫し暴れるように身体を痙攣させたのだ、彼女は、とうとうあのフェイクに肉体の躍動で追いついたのだと思った、いや、リゾナントブルーというもはや創造する透き間など無く娘。のすべてが充満している世界でさえも、彼女がまだ変化させ進化させる事ができるというその事実に俺は立ち会ってしまったのだ、はたして、あの動きがあの瞬間に奇跡のように彼女自身から生まれたものであるのか、それとも、振り付け師などと相談しての動きであるのかは憶測でしかないのだからどちらかはわかりえない、しかし、彼女があの瞬間にきょうのこの季節にだ、リゾナントブルーに新たな躍動を踊ってみせた事の重大さだけは誰かが宣言しておかなければいけない事なのだ、ここから先は、とてつもなくながく破綻した彼女の肉体の躍動についての憶測考察になってゆくだろうが、しかし、どうしても、この重大な踊りについてはどうしようが書かなければいけないのだ、





彼女が「リゾナントブルー」に騎乗した瞬間の事


彼女について考える事の目眩に酔いしれている時の鼓動の往生際の悪さを憎むべきではあるのだろうけども自分にはその瞬間しか住み心地が良くないものだから好き勝手に鼓動させておくのですが、だからといって、ここまで狂暴な彼女の残り香への執着にはいいかげん自分でも嫌気が差してこないはずもない、しかしだ、彼女がなぜこんなにも執拗に俺のなかで舞いつづけるのかという事を考えるまでもなく考え出すから彼女がただ俺のなかになにか美しい瞬間の記念撮影でもされた写真のように君臨してくれれば良いのだが彼女の君臨はまさしく先に述べたように「舞って」いる、かわいらしくただ俺のなかに写真のようにしとやかに君臨すればよいものをなぜ彼女は舞うのか、いや、なぜ俺は舞っている彼女をこんなにも思い出し浮かべるのか、彼女の踊りがそんなに好きなのか、いや、好きという訳ではないだろうに、なぜなら、彼女をひとりの娘として女としてみるのならばだ、はしたなくかわいくラー油を粗末な宅配弁当の白米のうえにかけようとしている姿にこそ見惚れるのだ、だから、彼女に恋している心情の過剰な領域に心音が高鳴っている時はただそうした彼女のなんでもない肉体の運動をその瞳の佇まいをそのフォルムに見惚れ大事にしたいと思うだろうに、なぜ、そうした彼女のかわいらしい姿に見惚れる事を犠牲にしてまでも、こんなにも「舞う」彼女を夢見るのか、いや、見惚れているのか、執拗に執拗に、こんなにも彼女の事を書かなければいけないという意識に呪われている奥底には彼女の事と言うよりも「舞う」という彼女の状態にこそ興味があるのではないか、なぜその瞬間の彼女にそれほどまでに執着するのか、俺の「書く」という行為と彼女の「舞う」という行為の一騎打ちを企てたいのか、それはつまり、彼女との情事に至れない事の代理的な愛撫なのか、彼女を愛撫する手段なのか、不可解だ、自身でもこの使命とも欲望とも違うだろう意識が厄介でしょうがない、















リゾナントブルーでなぜ彼女はリゾナントブルー(地球(その時、娘。たちはスタージの床に地球に立っているのではなく曲のうえに立っているのだ))に跨り乗馬してみせたのだろうか、それもあまりにも突然にだ、あの時、俺は彼女側の席だった、あれは。。。最後のサビの繰り返しの時だっただろうか、彼女が突然に、まさしく視界から「消えて」しまったのだ、彼女はステージから一瞬にして姿を消してしまった、いったいどの表現者がどんな思惑を抱いて行うって言うんだろうか、いや、消えたはずの彼女を見つけるのに2秒もいらなかった、彼女は立つことをやめて地面に完全に座り込むのでもなく、まさに馬に跨り砂漠地帯を疾走するかのように、地球に、地面に跨り踊っていたのだ、その時の彼女の「舞」が焼き付いて離れないのは彼女が一瞬だけ行方を娘。から眩ましてしまった事による彼女の不在感ではないその存在証明の遂行の花の形相だ、彼女の肉体は地面に触れるか触れないかの瀬戸際で重力をありえない方向にぶちまけていた、ここで語る重力というものは地球が彼女を引き寄せ直立させ吊し上げているその重力ではない、そうした重力と攻防する彼女自体の重力の事だ、彼女の身体は極限まで無駄な私情を感情をないがしろにしながらなにか、そうだ、ただ純粋に生命を躍動する臓器のように、彼女は心臓になっていた、娘。の集団から消えてしまった彼女の立ち位置の上部の空間には穴が空いていた、そのすぐ下の空間では彼女が小さくしかしとてつもない巨大さで両膝を尽き地面に肘で鞭を入れ上半身と下半身の結界を説き解きただ躍動する心臓になっていた、今までのリゾナントブルーの彼女に唯一残念に思っていた事は彼女のあの野生の鳴声のように美しいフェイクに打ち勝つ肉体の躍動がなかった気がしたからだ、彼女はあのフェイクの瞬間に客席の一人に狙いを定め視線を外さずにフェイクすると36回目の苺いちえで言っていたが、そうした野蛮さに打ち勝つ肉体の躍動がどうしても生まれなかった、しかしだ、彼女はついに、あのフェイクと聖戦できる肉体の動きを創造し生んでみせたのだ、いや、またこう述べなければいけないのだろうか?、事実関係としてはその動きをはじめて確認できたのは突然に神戸であったと、そして、その動きが彼女が独断で瞬間的に創造し生み出し遂行したものなのかはわからないと、しかし、そうした事をすべてないがしろに横に放り投げても俺は言いたいのだ、彼女がとうとうあのフェイクを越える肉体の瞬間をリゾナントブルーで踊っていると、リゾナントブルーでさえ進化可能なのだと、彼女というひとりの存在のなかで巻き起こる肉体と歌声の凄まじい戦いがある、その事だ、ずっと俺が思い浮かべる彼女の「舞」と「歌声」の、今ツアーでの彼女のどこかで優雅な余裕とでも言うのか力を抜いているかのように、筋肉質な感情と烈火と物語りへ服従を軽蔑でもするかのような突然の放棄を、いや、たしかに彼女はどこかでなにかに反抗し放棄していた気がするのだ、そしてそのダンスはなにかもしかしたら今の彼女の表現のひとつの到達なのだろうかとさえ思わせる異様な瞬間だったのだ、しかしあまりにも、その力を抜いた優しい彼女の躍動がつづく事も、優雅さやそのかろやかさは凶暴な印象を俺に与えた、静かな四肢の優雅さがただの優雅さではなくどこかでとてつもなく恐ろしい瞬間への序章のような気がしてならなかったのだ、彼女は優雅さリゾナントブルーという曲は彼女にとっても娘。にとっても俺にとってもとてつもなく大事な曲だ、あの曲はとても野蛮だ、その野蛮さはどこか彼女の野生に似ている、リゾナントブルーは今の娘。の恐ろしさが朧気にもその骨格を抱きはじめた刻印のような曲でありとてつもない運動で躍動してゆくのだという肉付きしてゆく瞬間そのものだったつまり!、リゾナントブルーという曲のどこか普通ではない蠢きと狂気と運動を秘めた不気味に美しい曲の「生きている」のだというその現在進行形の躍動の動きこそ今の娘。の動脈なのではないか、

彼女が「リゾナントブルー」に騎乗した瞬間の事

どちらも諦めていない、つまり、軽さも、重さも、リゾナントの動きと、歌声の軽さ

彼女について考える事の目眩に酔いしれている時の鼓動の往生際の悪さを憎むべきではあるのだろうけども自分にはその瞬間しか住み心地が良くないものだから好き勝手に鼓動させておくのですが、だからといって、ここまで狂暴な彼女の残り香への執着にはいいかげん自分でも嫌気が差してこないはずもない、しかしだ、彼女がなぜこんなにも執拗に俺のなかで舞いつづけるのかという事を考えるまでもなく考え出すから彼女がただ俺のなかになにか美しい瞬間の記念撮影でもされた写真のように君臨してくれれば良いのだが彼女の君臨はまさしく先に述べたように「舞って」いる、かわいらしくただ俺のなかに写真のようにしとやかに君臨すればよいものをなぜ彼女は舞うのか、いや、なぜ俺は舞っている彼女をこんなにも思い出し浮かべるのか、彼女の踊りがそんなに好きなのか、いや、好きという訳ではないだろうに、なぜなら、彼女をひとりの娘として女としてみるのならばだ、はしたなくかわいくラー油を粗末な宅配弁当の白米のうえにかけようとしている姿にこそ見惚れるのだ、だから、彼女に恋している心情の過剰な領域に心音が高鳴っている時はただそうした彼女のなんでもない肉体の運動をその瞳の佇まいをそのフォルムに見惚れ大事にしたいと思うだろうに、なぜ、そうした彼女のかわいらしい姿に見惚れる事を犠牲にしてまでも、こんなにも「舞う」彼女を夢見るのか、いや、見惚れているのか、執拗に執拗に、こんなにも彼女の事を書かなければいけないという意識に呪われている奥底には彼女の事と言うよりも「舞う」という彼女の状態にこそ興味があるのではないか、なぜその瞬間の彼女にそれほどまでに執着するのか、俺の「書く」という行為と彼女の「舞う」という行為の一騎打ちを企てたいのか、それはつまり、彼女との情事に至れない事の代理的な愛撫なのか、彼女を愛撫する手段なのか、不可解だ、自身でもこの使命とも欲望とも違うだろう意識が厄介でしょうがない、














振りを変革するのは愛情だったりする事があるが、自分の肉体と連動sあせる

リゾナントブルーでなぜ彼女はリゾナントブルー(地球(その時、娘。たちはスタージの床に地球に立っているのではなく曲のうえに立っているのだ))に跨り乗馬してみせたのだろうか、それもあまりにも突然にだ、あの時、俺は彼女側の席だった、あれは。。。最後のサビの繰り返しの時だっただろうか、彼女が突然に、まさしく視界から「消えて」しまったのだ、彼女はステージから一瞬にして姿を消してしまった、いったいどの表現者がどんな思惑を抱いて行うって言うんだろうか、いや、消えたはずの彼女を見つけるのに2秒もいらなかった、彼女は立つことをやめて地面に完全に座り込むのでもなく、まさに馬に跨り砂漠地帯を疾走するかのように、地球に、地面に跨り踊っていたのだ、その時の彼女の「舞」が焼き付いて離れないのは彼女が一瞬だけ行方を娘。から眩ましてしまった事による彼女の不在感ではないその存在証明の遂行の花の形相だ、彼女の肉体は地面に触れるか触れないかの瀬戸際で重力をありえない方向にぶちまけていた、ここで語る重力というものは地球が彼女を引き寄せ直立させ吊し上げているその重力ではない、そうした重力と攻防する彼女自体の重力の事だ、彼女の身体は極限まで無駄な私情を感情をないがしろにしながらなにか、そうだ、ただ純粋に生命を躍動する臓器のように、彼女は心臓になっていた、娘。の集団から消えてしまった彼女の立ち位置の上部の空間には穴が空いていた、そのすぐ下の空間では彼女が小さくしかしとてつもない巨大さで両膝を尽き地面に肘で鞭を入れ上半身と下半身の結界を説き解きただ躍動する心臓になっていた、今までのリゾナントブルーの彼女に唯一残念に思っていた事は彼女のあの野生の鳴声のように美しいフェイクに打ち勝つ肉体の躍動がなかった気がしたからだ、彼女はあのフェイクの瞬間に客席の一人に狙いを定め視線を外さずにフェイクすると36回目の苺いちえで言っていたが、そうした野蛮さに打ち勝つ肉体の躍動がどうしても生まれなかった、しかしだ、彼女はついに、あのフェイクと聖戦できる肉体の動きを創造し生んでみせたのだ、いや、またこう述べなければいけないのだろうか?、事実関係としてはその動きをはじめて確認できたのは突然に神戸であったと、そして、その動きが彼女が独断で瞬間的に創造し生み出し遂行したものなのかはわからないと、しかし、そうした事をすべてないがしろに横に放り投げても俺は言いたいのだ、彼女がとうとうあのフェイクを越える肉体の瞬間をリゾナントブルーで踊っていると、リゾナントブルーでさえ進化可能なのだと、彼女というひとりの存在のなかで巻き起こる肉体と歌声の凄まじい戦いがある、その事だ、ずっと俺が思い浮かべる彼女の「舞」と「歌声」の、今ツアーでの彼女のどこかで優雅な余裕とでも言うのか力を抜いているかのように、筋肉質な感情と烈火と物語りへ服従を軽蔑でもするかのような突然の放棄を、いや、たしかに彼女はどこかでなにかに反抗し放棄していた気がするのだ、そしてそのダンスはなにかもしかしたら今の彼女の表現のひとつの到達なのだろうかとさえ思わせる異様な瞬間だったのだ、しかしあまりにも、その力を抜いた優しい彼女の躍動がつづく事も、優雅さやそのかろやかさは凶暴な印象を俺に与えた、静かな四肢の優雅さがただの優雅さではなくどこかでとてつもなく恐ろしい瞬間への序章のような気がしてならなかったのだ、彼女は優雅さリゾナントブルーという曲は彼女にとっても娘。にとっても俺にとってもとてつもなく大事な曲だ、あの曲はとても野蛮だ、その野蛮さはどこか彼女の野生に似ている、リゾナントブルーは今の娘。の恐ろしさが朧気にもその骨格を抱きはじめた刻印のような曲でありとてつもない運動で躍動してゆくのだという肉付きしてゆく瞬間そのものだったつまり!、リゾナントブルーという曲のどこか普通ではない蠢きと狂気と運動を秘めた不気味に美しい曲の「生きている」のだというその現在進行形の躍動の動きこそ今の娘。の動脈なのではないか、

自己紹介

Dear Morning Musume。 君のキャワキャワをキャッチだぜ!