「実際、「涙ッチ」でさえ「近頃の娘。の新曲は歌っている内容に意味がない」等と言われていた愛しい曲たちと同様に意味などないと思っている。もしも、この優しい意味を抱いたかのような善良な歌詞の抱擁だけを娘。に求めていたのなら俺は娘。になど恋焦がれてはいない。もっと言ってしまえば、もう僕にはこうした娘。たちに「唱われるべき歌詞」などと言う使命の領域の話しなどどうでも良くて、涙ッチでさえ俺には気まプリとまったく同じものとしか思えないのだ、それは娘。たちが歌うとき時に「おしり」であれ「溢れ出る感情にまかせばいい」であれまったく同様の強度を持つどころか、「おしり」の方が目映く力を抱くってその意味のわからない輝きの領域にこそ娘。は今降り立っているからで、それ程にまで娘。たちは歌詞の意味を凌駕しているとしか言いようがない、だから、娘。が涙ッチのような歌詞を口にした途端に娘。最高!などと近寄ってくる輩を俺は信用しないし、そういう人間たちは真に娘。に歓喜してはいないと俺は判断する、むしろ、涙ッチのもっとも感動的な場面っていうのは素晴らしい「人間らしく誇り高くな」歌詞の花畑のなかで突如として娘。たちが絶叫する瞬間だと確信する、美しい顔を歪ませては身体を中心にグッと引き寄せて地面すれすれにまでその身体を折り曲げて落としながら娘。たちは「ウォー!」って絶叫する、れいなちゃんのフェイクもそうだ、ラップまえのあの掛け声も、娘。たちが、今歌っている歌詞の重大な意味をも喪失しかねない乙女の発熱でもう言葉に留まってはいないその言葉を崩壊寸前にまで乙女掘削で壊しまくって声を発しているその瞬間と心中したくて俺は娘。たちの歌声を浴びに行くんだ、愛ちゃんが「カモン、あっ」ととどめをさすまで、娘。たちは涙ッチの生温い温室に身を許してはいない、むしろそこをぶち破ってゆく、小春が去った直後に人間に還ったみたいな論法こそが最大の敵だ、むしろ小春不在のままに小春の狂気が娘。のなかを駆け巡っているというのに、だから、もしも涙ッチがただのやさしい人情ソングだから近づいたとかそんな事を、または今の娘。たちがこんなただの人間的な歌うのは似合わないとかその両極でしか語れない人間ならさっさとその腐敗心臓に世紀をめかしこんで思想と近親相姦でもしながら娘。たちの集まるその場所から去ればいい、女の子たちのもう言語の原型を留めてはいないその歌声を、意味も愛も歴史も憎しみもそのすべてがただただ境界線なく混ざり合ったあの娘。たちの歌声こそを、あの歌声だけがこの世の乙女たちの真の絶叫だ、祈りにも勝るその声だ、声だ、声!、声!、声!、原始の雨乞いの絶叫ですら到達できなかった、生け贄も神も不在の彼女たちの存在しか其処には存在しない彼女たち以外のなにもかもの介入を許さない、その歌声だ、」
と、叫んで見た。
娘。たちがもうほとんど人間的な物語を言葉を歌わなくなってしまったその後に、突如、人間の言葉を物語を歌い出した事の重大な意味を、どうしてこの世の人間が、それもただの男が理解できるだろうか、このツアーの恐ろしさは愛ちゃんの語る「バラバラ」にあるはずだ。それは娘。たちそれぞれの乙女の魅力の「バラバラ」であるし、娘。たちが歌うべき曲の「バラバラ」でもある、娘。が恐ろしいのは、そうした絶対に一緒に存在できるはずのないあらゆる粒子が互いを消滅させる事なく同じ場所に同じ瞬間に存在させてしまう事だ。
だからこそ、10 MY ME という、ほとんど統一感なく狂っているとしか思えない曲が並んでいるかのように思えてもなおも、それらの曲ははじめから其処に存在する事しかできない宿命を持って生まれてきたかのように皆彼女たちの香りを抱いた曲なのだ。
娘。たちっていうのは、ほんとうに、恐ろしいまでに危うい、かろうじて、ほんとうにかろうじて彼女たちははなれることなく集結して存在している。ほとんど存在が誕生して消滅するまでのその一瞬だけが永続して輝いているかのようだ。
だから、細胞分裂やビックバンやそれらの崩壊と誕生を秘めて存在している。小春が居る9人で証明したのは外部から新たな使者を抱きしめるのではなくその9人が全員で新たな乙女の領域に到達する事だった。そして、それこそが、それだけが娘。を娘。として息づかせる事ができるのだと俺たちに彼女たちは身を持って知らせてくれた。
だからこそ、小春が抜けた娘。たちの乙女の肌の水面の表面には小春の影が永遠に映って離れないのだ。
彼女たち9人は9人で過ごしてしまった。新たな乙女を迎え入れる変わりに彼女たちが互いに結ばれて一つの乙女になっていった。
それこそが存在しえないはずの目には見えないはずの「娘。」という乙女の姿だった。
俺は概念でしか愛でしかない肉体の存在しない「娘。」をたしかに目にしたのだ。彼女たち9人が横一列に縦一列に整列して花の拡散で飛び散ってゆくそのたびに。
それらの揺らぎをある一定の美しい瞬間で結露凝固して留まりつづける絶対の美を求めているなら本当に近づかないでほしい。
近づかなくてもいいが、ただ、お願いだから解ったような事を言わないでほしい。その言語はあなたの知性やセンスの無さを露骨に宣伝しているだけだから。
デュシャンの大ガラスの亀裂を美と認識できると演説しておきながら、あんなガラスが到達できなかった、娘。たちの乙女の亀裂の開拓の地図を、そう、さゆと絵里とれいなと愛と小春と里沙と愛佳とジュンとリンの乙女の亀裂の連なりを見つけられないのなら、もう美の事になど一言も触れてなどほしくない。
たしか、絵里ちゃんは涙ッチに対して、「絵里の中ではサンボマスターさんっぽい感じかな。叫ぶ系というか…」ってな事を言っていた。
僕は、ああ、本当に何気ないところでこの子は凄い事を言うなぁって思った。
絵里ちゃんは適当な事を言ったのかもしれないし、その絵里ちゃんの発言を聞いた者からすれば愛ちゃんの「英語のラップ」が入っているからこの曲は好きになる予感がした!」とか言ってひとつの曲について語っていたあの発言同様に的はずれなのかも知れない、ただ、真実として、涙ッチを歌い踊る絵里ちゃんと言うのはそうした絵里ちゃん自身の発言のまったく手の届かない領域に居ると言う事だ。「なになにっぽい」や「なになに系」と言った括りが娘。には通用しない、だから、娘。愛者や楽曲派がいくら持ちうる知識や愛でもって、娘。が歌い踊る涙ッチや気まプリについて言葉を持ち出したとしてもそれらは絵里ちゃんのサンボマスターっぽい同様にあまりにもかわいい言葉でしかないのだ。