2010年3月24日水曜日

小春去りしそのあとに

PikaッPikaッ!ツアーがはじまった。

今回のツアーははじまるまえから以前のツアーがはじまる事とは違う何かがいくつも同時に不気味に蠢いていた。
小春が娘。ではないその季節を迎えた冬は、寒さの正気もその移ろいもなにもかもに異常をきたしたみたいにはじめて感じる寒さに覆われていた。娘。である彼女たちの女の子としての年頃と乙女集団としての娘。の年月との異常な私信の往復は、その毎秒が肉体の瞬間的な乙女の発育の激情であり、彼女たちの感情もまた、肉体と同様にいや、それ以上に、ただただ、女の子としてのその佇まいをそれぞれが帯びて来ているようだった。それらの花の断片はそれぞれのラジオやテレビ番組で彼女たちが数十秒でも世界にその姿を顔を肉体を声を出してしまう時には隠されることなく溢れ出ていた。ある日突然に、途絶えていた小春から「すいません!小春は生きてます!!!」とメールが来たとき、俺たちは小春が無事に生きている事にやっと出逢えた、小春が生死の問題を持ち出して来た事に驚いたのはその意味を知ろうとした時だ、あの卒業後に小春の姿も消息も俺たちはかすかに知れていた、それに、小春自体もおはスタのイベで赤Tの集団を目撃しているのだ、圏外くんがおはスタのイベに行ったときに赤Tの奴らちゃんと死なずにまだ生きていましたよ!と会話し合った、久住小春というひとりの女の子が生きているという事実は小春が言うまでもなくあたりまえの事だった、あの卒業後でさえ、俺たちも娘。たちも小春も生きていた、けれども、あのメールで小春が「小春は生きてます!!!」と言ってみせたのは、あの小春が今も「生きている」という意味でしかないのではなくそれはあの小春が居た娘。が「生きてます!」と言ってくれてるようで胸が壊れそうになった、その声の意思の眼差しがただただ愛おしかった。

小春の卒業のセレモニーは小春が娘。たちのすべての殻を崩壊させた決定的な何かだった。なんて事だろう、小春をまえにした時、今から小春が娘。を去るその時に、娘。たちは心をどこまで裸にして小春に飛び込んでいったのだ。小春と正面衝突した娘。たちのその後はどうだ、まるですべての娘。たちが瞬間的に小春のように振る舞い、どこまでも子供であり、正直で、時に誰よりも大人で、さゆは俺の子供になり、俺の母親にまでなった、さゆは俺に甘えてはおれをまた叱ってみせた。絵里ちゃんはとめどなく女になっていった。れいなちゃんの幼児さはどうだ、その毎日が乙女ビックバンのように移ろいつづけていた。ガキさんは、愛ちゃんは、みっつぃーは、ジュンジュンは、リンリンは。。。。俺には語れないあらゆる娘。たちの乙女の激情に小春が点在し、彼女たち全員に小春が巻き起こっていたに違いない。
彼女たちのあのかわいい美しい乳房を形作るものがその奥に隠れている心であるのだと彼女たちの心の美しいその成長は彼女たちの何気ない仕草に何気ない言葉こそに宿って放出されていた。肉体の成長の美しさを心の成長が裏切る事はなかった。23歳という「女」であるはずの「女の子」がリーダーを務めるこの乙女集団は誰よりも危うくしかし、その危うさで自らと姉妹たちを守り続けていた。小春という子供の最大の愛を傍らに置けないなら彼女たちは小春を内部に迸らせたのだ。小春は娘。たちの横にいなくなった、しかし、小春は娘。たちの内部へともっとずっとずっと奥へと娘。として再びやってきたのだ、小春としてではなく娘。としての小春は娘。たちにもしかしたらはじめて今この時にこそ去来したのかも知れなかった。小春が娘。に加入したずっと昔、この世界において絶対の子供だけが大人たちをその世界を今一度生まれ還らす事ができるように、小春は娘。を娘。に還らす道しるべになった。小春は再び娘。たちのなかにやって来ている。俺たちのなかにも。

彼女たちの周りには常に娘。たちの輝きとは別に、幸福と絶望とが同時に蠢いてたのだから、いったい、娘。たちのこの強度が、この世界の暴挙に心を折られないかとただ心配になる事ばかりだった。世界は娘。たちの輝きをただそっとしておくことを許そうとはしない。

が、

愛ちゃんは、「何事でも何者でもかかってきなさいよ!」って不敵にかわいく美しく歌い踊ってみせた。

この世界の歴史においてどんな季節であれ、どんな場所であれ、どんな環境下でさえ、この世の女たちが女でありつづけてきたように、娘。たちは娘。でありつづけている。

小春が娘。から離れてしまう事になってから、それでも娘。も俺たちもこの冬を越えて春を迎え、ツアー前日まで生き延びたのだ。

娘。を愛していると大口を叩く輩のなかにも、そうではない異常な悪意で娘。の挙動に張り付く娘。を見つめる悪意共は、あの月に遠吠えする愛のシルエットの「オオカミ」とは違う爛れた絶叫の「狼」で娘。に食らいつく、小春が居なくなった喪失では飽きたらず、その罪の引き替えに、また一人、もう一人と、娘。を去るべき人間の話しをし出していた、いや、奴らがいくら理由をつけようが、奴らの言いたいことはただひとつ、もうそろそろおまえは立ち去るべきなんだ、ただそれだけの無様に閉じることもできない能なしの口呼吸みたいな生存してんのかしてねえのか外気の暴言をぱくぱくと金魚のように言葉なく吐いている輩の唾がどこからともなく騒ぎ漏らして思考をどもらせてくってかかってくるそいつらの悪臭行列の最中、

3/19日、愛ちゃんはこう言ったのだ、モーニング娘。でした!

愛ちゃんのあの過剰なジャンプの頻度はどうだ、「階段なんていらないんやよ!」、まるで小春が憑依したみたいなあのジャンプはなんだ、愛ちゃんのあの力のやさしい放出はどうだ、愛ちゃんははじまって数曲で素直に子供になってみせた、その事自体がこのツアーの凶暴性を狂気をただ事ではない事の証明だった、けれども、小春のように離陸も着陸も乱暴な子供の悪戯には溢れてはいなかった、ジャンプでさえ愛ちゃんは愛ちゃんを踊ってみせた、愛ちゃんはとうとうジャンプで踊っていたのだ、離陸と着陸と浮遊のあのわずかな一瞬の仕草に、何度も彼女は生身の彼女を込めてる、苺いちえで語るあの甘い素直な声のように、愛ちゃんのジャンプが感動的なのはそれが振りでは届くことのできない領域の素直な感情のダンスだからだ、踊る事において四肢が地面と空とに触れていないその事は、愛ちゃんの肉体を不自由にするが、愛ちゃんはその不自由の拘束のなかで可憐に踊る、あのジャンプの砲撃のなかに愛ちゃんは今までの愛ちゃんの美それよりも美しい穏やかな感情を装填している、ライブが終わり去るその瞬間まで愛ちゃんだけがジャンプをしていた、愛ちゃんはジャンプで去って至った。

小春がジャンプが好きなのはなぜなんだろう?、ジャンプ!、ジャンプ!。
小春、小春よ、小春去りしそのあとに、俺は愛ちゃんとただ大きくジャンプをしています。

PikaッPikaッ!ツアーがはじまった。

自己紹介

Dear Morning Musume。 君のキャワキャワをキャッチだぜ!