2011年6月17日金曜日

interview with...

おまえにインタヴューするためのメモ。

「終わりがやってきてしまう」という事が前提にあるという意味において考えるとき、モーニング娘。としての新曲「Only You」もまた、さきほど出演なされた「ハムレット劇」におけるオフィーリアの死のダンス同様に、一種の終わり、「卒業」が待ち受けている状況や状態での新曲となる訳ですが、ここで「卒業」と「死」の細かい相違を定める時間はないので大ざっぱに「一種の終わりをこれから向かえる寸前の女」としてオフィーリアと貴女を語る事をお許し頂きたいのですが。。。。。。

私が新曲「Only You」の貴女を見て感じた事は、終わりを受け入れた状態の者がその終わりを覚悟し受け入れ微笑む絶対的な勇姿などではなく、最早、終わる事やはじまる事、生や死、それらを思考する領域からは遠く離れた意識のなかであなたの肉体や歌声がただ、今そこで踊り歌う事の純粋さだけで息づく瞬間のように思えました。。。。これが私の真意だと???、馬鹿な、貴女ほどにしっかりと終わりを受け入れそれでも過剰なほどに現在をただただ先に侵攻させる昇華を欲しがり、美の生成を行おうとする女性もいないでしょう、そう、貴女は時折、役目と言う言葉や意識を持ち出す、しかしそれはあなたの欲望から逃れる常套句だ、私はいわゆる貴方の発言なり行為をすべて鵜呑みにする優しい純粋なファンではない、私は貴方の言葉に偽りと憧れ、精神の修正が施されている事を知っている、貴女が置かれている状況故に、そう発しなければいけなかったとしても、貴方が真新しい肉体や存在がなくとも不変という状態のままにかつてない変貌をくりかえす事ができると言ったその数ヶ月後には新たな肉体を入れる事こそが変貌なのだと言って見せた時のように、貴女の言葉はけしていつも素直であったわけじゃない、今、貴女が未来を護るために、演技やドラマの話ばかりをしている事を私はそのまま貴女の真意、表現欲望の真意だとは思ってはいない。。。。貴女の欲望がとてつもない領域で貴女に愛をもたらす瞬間が娘。でしかないという事を貴女は私以上にその肉体と魂で今まさに知るはずだ、新曲を歌い踊るそのなかで。。。。。。貴女の素晴らしさは、踊りや歌うというその瞬間に意識や役目、思考から逸脱する欲望に見舞われるその瞬間だ、貴女は新曲でさえ、間違いを犯すし、その間違いに踏み込んでしまうという事だけがあの集団を導く最後の振り付けだという事も知っている。。。。オフィーリアと娘。としての貴女の決定的な違いは貴女はオフィーリアのように乙女殉職してしまわない事だと思います、いや、詳しく言えば貴女は、一曲の曲中においてオフィーリア的な発狂や乙女殉職をかすめる、たしかにその寸前にまで到達したりもしくはそれを通過してしまうが、あなたはかならずまた浮上してくる、それはけして発狂する事のない女の肉体が発狂よりも美しい恐ろしい発火で踊って魅せる貴女の乙女という意識の勝利であるし、乙女殉職寸前にけして命滅びず命が終わり続けはじまり続ける貴女のダンスは乙女が殉職する事に勝利しつづけています、オフィーリアの死のダンスに私が強く感銘を受けたのは、あなたが世界の花を道連れに水のなかでもがきながらも美しいダンスで踊ってみせたその最後に、あなたがあの時代ではけして存在しないマイクを持って歌うような仕草をしてそのまま沈んで行ってしまうダンスでした、あの瞬間、私は貴女がオフィーリアではなく同時に高橋愛であるという事に気づく訳ですが、であるならば、オフィーリアと新曲をほぼ同時期に演じては歌い踊る貴女について、どこかで同時多発的に、今貴女が置かれている運命やそれに立ち向かう姿勢なり肉体や魂の在り方として、方法論は違うとしても、私にはなにか、その両者、二人の女の状態を行ったり来たりするあなたの肉体や魂のなかにとてつもない美しく危ういなにかを見た気がするのです。

さゆがPVの貴女の微笑みに大きな感動を受けるのは、貴女のあの微笑みが、微笑みという定住する感情領域などに咲くあの表情ではなく、どこかでまったくなぜ微笑んでいるのか、こちらに意味を深読みさせる事を許さない微笑みのようであるからではないでしょうか、
そもそも、さゆや他のファンの方々があの表情を「微笑み」と呼びますが、私にはあなたのあの表情が果たして「微笑み」なのか、貴女のあの表情を「微笑み」と呼んでいいのかさえわかりかねています、むしろ、さゆを含め私たちのように貴女を少しでも愛して来た人間はこう言わなければいけないのではないでしょうか、今まで貴女が見せた事もない表情を見てしまった、ただそれだけなのだと。

たぶん、我々はあの貴女の表情を「微笑み」と呼んではいけない。

そしてなにより、微笑みと呼ばれるあの表情よりも、あなたの表情以外の肉体だ、あなたはあの表情をしたあとすぐさま、振り付けのない純粋に湧き上がる微動のような震度で、リズムを取ろうとする、私は、その微動にこそ貴女が貴女である絶対的な証明を見る。

ダンス(と言ってもPVにおけるダンス)。

(ダンス⇔ダンス、つまり、目のまえの写鏡のようにダンスレッスンの段階で隣に何人かの娘。たちは存在したはずだ、完全な孤独ではない。

愛ちゃん、ハムレットの稽古場で一人ダンスの練習。)

まず、このPVでのダンスはCD音源に合わせて娘。たちが踊っているという事。
(だからこそ、あの愛ちゃんのほほえみと呼ばれる瞬間が生まれた、愛ちゃんは自身の歌声になにかを「合わせる」)

サビの部分のあのダンスのダサさはどうだ。。。。この曲においてもサビの不在とも言える、何度もサビが訪れるかのような訳のわからない変異連続だが、Bメロって言うの?、わかんねぇけど、あの瞬間の恐ろしいまでのかっこよさから、おかしさへと転げ落ちるかのようなサビのダンス、そうなのだ、この曲の恐ろしさはサビの愛ちゃんを見て笑ってしまえる事にある、忘れてはいないか、高橋愛は戦慄させながらそれ以上に俺たちを笑わす、その両極を同時に孕める、新曲のサビのダンスのおかしさ、恥ずかしさ、そこからまた戦慄へと登ってゆく。。。新曲、恐ろし、訳がわからない。。。オンリーユー。。。。というか、この曲のなかに存在する動いの数々の滑稽さはどうだ、この乙女たちの肉体の審査を通らないはずのフォルムの連続はどうだ、動きだけを抽出して俺が理解できるのはこんなにおかしな動きを年頃の乙女たちにさせてはいいのかと言う事以上に、その動きをこういった形で形成できるこいつらの恐ろしさだ、まずは9期から語らねばいけない。。。やっしーのダンスを褒める人間たちのほとんどがその褒め方を間違えてるとしか思えないのは、ダンスの文明的な動きをその系譜をしっかりとダンス出来ているかどうかって話ではなく、娘。特有の理不尽な数々の動作のなかにやっしーの小さな肉体がほとんど迷路に迷い込んだ子供のように動いているそのダンスこそを褒めるべきだ、しかし、この子の歌声はほとんど娘。という状態になびくことなく君臨しているように思える、もしかしたらやっしーは歌声の子なのかもしれない、

ふくちゃんに至っては最早何の迷いもない、まるでふくちゃんはかつての肉体を捨て去るかのように、娘。になれた、というその事実のなかにふくちゃんの肉体を水と蜜を混ぜた直後の柔らかいブロンズ粘土のように還らせ、しなやかに娘。の動作形態に変貌させているかのようだ、そしてふくちゃんはあんなにも柔らかかった肉体を娘。を踊るというその状況のなかでついに最後の乙女成長期を娘。というフォルムに至らせる事を覚悟し最後の柔らかさを捨て去り、次第に娘。という硬さに凝固してゆくブロンズ像の如く、あの硬さと柔らかさが青の上でただただ光る塊になっていくのではないだろうかという事を俺に思わせた、きっと俺たちはこれからふくちゃんの柔らかさではなく、その堅さの美しさを知る事になる、


娘。という肉体の力学の鋳型のなかに肉体を嵌めこんで上から重石を置くことなど不要だった、他の二人が娘。に混じった異物に見えるのならそれこそ、その状態を踊れている事において、彼女たちにしか到達できないダンスだ、あらゆる部位から娘。に今まさに変貌してゆくその絶叫と歓喜が溢れ出すかのようなダンスと身体状況こそを彼女たちは踊れていればそれでいいのだ、


歌声。

問題は貴女の歌声だ、貴女は歌声を歌声として放っているのか、否、貴女の歌声という透明な所作がかつて美しく流れること無く留まる事ができ一秒も他の娘。を置き去りにしない抜け駆け無しの愛の贔屓で手を取り合うその鱗海をいよいよ無残に放棄している気さえさせる、孤独だと言おう、集団的な連なりの癒着だなんて甘ったれた結晶ではけしてない、かつてないバラバラさだ、なにも歌声が手を取り合っていない、散らばってゆく個性が娘。を破綻させてしまうのではないかと思える程に、娘。という集合体のなかにそれぞれが集まってゆく歌声じゃない、散らばり放射しそれぞれが孤独の絶頂でそこに留まっている、娘。たちの結晶しあう歌声?、くだらない、くだらない、この新曲の娘。たちはかつてない孤独に立ち会っている。。。。

つっこまれるまえに書く、たしかに出発はいつでも孤独だ、なぜなら、マイクで採集したその歌声を機械のなかに拾い集めて重なり合わせ修正を加える、理論上や周波的に混じあわせる、この時点で、彼女たちが歌声を一人一人ブースに入って何度も歌ったりしているその時点で、それはその時点では物理的には娘。の個人の声であり、その時点で絶対的な孤独は香る、しかしだ、俺が言いたいのはそういう事ですら無い、例え一人でブースに入って歌を歌おうがその傍らに娘。たちがいなかろうが、娘。たちというのは今まで、一人でブースに歌う瞬間であっても完全な孤独に身を置くどころか娘。であるその状態を強くさせていたに違いないのだ、傍らにいない肉体の不在と歌声の不在が娘。で居るその状態をどこまでも強めていたに違いないのだ、それは今までのCD音源を聴けばわかる、だからこそ、CD音源なんていう本来美しく重なり合う事が不可能なはずの領域でもしっかりと娘。たちは結晶していたはずだ

(しかしながら、そもそもが俺が娘。のCD音源をほとんど聴かない理由はここにある、なぜなら一度でもライブでの娘。たちの歌声を、同じ場所で同じ暗闇、光のなかで互いの呼吸を感じ互いの香りに慄き合いその事によって肉体の奥底から喚び覚まされたあの歌声の集結を聴いてしまったのならば、CD音源のその歌声は最早俺には過去でしかないのだ、それがいくら美しくとも、もうほとんど聴けなくなる、歌声はデータじゃない、採取できるものじゃない、そして永遠にそこに同じ状態で保存できるものじゃない、どの曲もでもそうだが、CD音源の歌声では最早ないのだ、どの曲も「歌入れした時は。。」と娘。たちが証言するように、その時点ではまるでその曲の生命がどこに向かうべきなのか、どうしてその曲がそこに存在しているのか、その曲を歌う事、その意味が、真に娘。たちの肉体のなかで血と肉になってはまだいないのだ、ライブという状況下ではじめてその曲と真に対峙できる、だから、CDの歌入れの時点では「完全に娘。たちと曲が交わってはいない状態」だとも言える、例えば、娘。の証言から想像すれば、いったいどの部分に自らの歌声や他の娘。の歌声が選ばれるのかはわからないという状態で歌入れをしている事もあるようだ、すなわち、愛ちゃんのすぐあとにれいなちゃんが歌う、そうした状態はまだその段階では二人は知らず、そのための呼吸会釈などあらゆる互いへの連なり、あの魔法がまだそこには存在してはいない事になる、娘。たちの歌声はどの曲でもあの円盤の場所にはとうのむかしにいない、そこに今はもう娘。ではないあの愛する乙女の歌声が永遠に残ってしまっている残酷さと美しさを含め、あの瞬間の歌声の重なり合いが永遠に戻っては来ない事を含め、娘。も俺たちも常に、あの永遠円盤と聖戦しなければいけないのだ。)

スピーカーのまえに出現した時その歌声は確かに抱き合っているかのように重なり互いの歌声の手を取り合うにバトンタッチしてゆくだろう、しかしだ、新曲の歌声は。。。。

発売になったばかりだ、だから、パッケージされたCDという領域の歌声についてしか書く事ができない、しかし、クーザや春コンで何度かこの曲を娘。たちが歌い踊っていた歌声を俺はたしかに聴いている、だからこそ俺だけは、そうした場所に身を置き、娘。たちの歌声をCD収録以降の生きる歌声として浴びた人間たちは、CD音源の娘。たちの歌声だけを聴いてその美しく永遠に生きる仮死状態の声から、産まれ落ち地を這い成長してゆく歌声こそを言葉にしなければいけない、 CD音源という時が止まった永遠地帯の歌声の話だけをしてはいけない、しかし、クーザで聴いたOnly youの歌声とCDの歌声がまったく別の歌声だったという事以外に、今は言葉を持たない。

(娘。としてその作品として、世界に提示しなければいけない一つの結晶としての正規の音は、それは間違いなくCD音源である事、娘。たちがその事をしっかり意識して歌声をいれているだろう事を、否定するものではない、また、もしも、由緒正しく娘。の表現、歌声について語るのであれば、正しさで言えば間違いなくCD音源のその状態について語るべきである、その瞬間を、それが例え嘘だとしても一種の頂点であるかのように語らなければいけないだろう、けれども、俺はただ一度もCD音源のその瞬間の歌声を頂点とは到底思えた事はないのでそうした立場から論じる事は避ける、クドイが、しかし、この世界に残すべきはやはりCD音源のその状態での評価であるべきだ、俺がそれが真に娘。を語っているとは思えなくとも、正しさで言えばそちらの方が絶対に正しいはずだから。)

CD音源だけに評価の重点を置いてしまう、そこから離脱しなければいけないために俺はこれをもう一度書いている、これはそのための文章でもある、つまり、この文章はやがてすべて、オンリーユーを歌い踊ってゆく娘。たちによって無残に壊され、無にされるだろう、俺の言語がすべて間違いになる、そうだ、その瞬間だけを夢見ている、俺は今、CD音源のなかの娘。たちの歌声をききながらOnly youの娘。たちの歌声は孤独だと書こう、今は、今は、以下、漏洩、


「飛び散る唾液と唾液が混じり合う事も、歌声が混じり合う事もない、それどころか、娘。であるという自我の憔悴がそれぞれに叫び過ぎているように横暴に纏まりなくあらゆる亀裂から自らを歌う、なぜだろう、ここでは互いの愛情に抱き合い結晶する歌声ではなく、娘。がかつてない孤独のなかで震えながらそれでも娘。で居る瞬間の歌声のように思えてならない、ここまでこの娘。たちが孤独だった事があるだろうか、傍らには妹や姉が居るにも関わらず(それが生身でなくとも)、肉体は今にも美しく触れ合い(それが生身でなくとも)、歌声は抱擁し合う距離だというのに、この曲の娘。たちは孤独さを自ら選んでいるかのようだ、娘。だという集合する肉体の歌声ではなく、娘。で居るという乙女たちの個人の歌声が肉体一つ分離れたその距離で互いに歌い過ぎているあまりにも強烈な娘。発作とでも言える歌声の噴火だ、冷静なる楽譜的な顕微で誰もが用意周到に歌声の遺伝やその形相や重なりなどを彼女たちに提出してみてもそのレポートは木っ端微塵に破られる、娘。たちの歌声は真空状態に漂うはずのない音でこちらに浸透し、静止する音がなものよりも凶暴な音を放つようにその時を歌う、無謀に踊る肉体のおいたを石棺できるのは貴女の歌声しかない、声の力は声の力として空中を透明に舞って俺に到達すべきだった、声の発展がやがて肉体的になり身体の運動的な影を縁ってしまう事など望んでいなかった、貴女はそこに到達している、貴女の歌い出しの「愛しの君へ」その歌声の最後の末端部の声の散り方だ、貴女はこの新曲の歌声に置いても、一つのフレーズが終わるその瞬間の歌声の景色こそを重視してる、それは乙女が蒸発してしまう時に、散らばるそのかけらが、また新しく産まれる貴女の歌声をつかまえるように、貴女は貴女の歌声の余韻をその道標を歌声に残してる、貴女は歌声を鋭利な喉で寸断しない、貴女の歌声の切れ目は美しく歌声を残す、

それにしても「だけどいまはきみが~」のあのフレーズの貴女の恥ずかしほどに癖のあるあの歌い方はどうだろうか、あれは完全に「恥ずかしい」、が、その恥ずかしさこそ貴女が今歌うべき感情の歌声をもってしてでしか貴女が放てなかったなにかなのだろう、」

自己紹介

Dear Morning Musume。 君のキャワキャワをキャッチだぜ!