2010年1月18日月曜日

最高にエロくない

女の子がしてはいけない仕草がある、動きがある、女子って言うのは昔から肉体の魂の動きをその仕草を男子以上に制限されてきた、それは性のしきたりだったり、いわれのない品格だったりする、教えられずとも自らの身を守るようになるずっと以前から、教えられたその仕草たちを彼女たちはよちよち歩きの時からどこかで無意識に授かっていたのかも知れないのに、気まぐれプリンセスの娘。のダンスを見ているとなぜ唐突に泣きそうになるのかって訳を夜中にずっと考えている事の無意味さはしかし、ふと、彼女たちの身体の自由について思考させてまた困惑する、振りがある限りは、身体は完全な自由ではない、というか、女の子って生命が肉体の自由を完全に謳歌している瞬間なんて存在するのだろうか、肉体のすべてが差別なく同時に自由になる瞬間など、スカートのなかを見ている存在がどこかに居るかも知れないという脅迫で股の閉じ方を習ったその肉体が、踊りなんて言う試みのなかでどれだけ自由になれるのか、むしろ凶悪な程の振りの制圧のなかにあって、どうして彼女たちの身体が自由なんて平凡で安易な感覚を僕に想起させて歓喜させるのか、しかし、中央で踊る絵里ちゃんのあの粗野に乱暴な肉体の震度で絵里ちゃんの胸がおいたにそれこそ女性の品格なんて言う文明の身体運動から遠くかけ離れた美しい動きで躍動している時、この光景は、あの肉体の動きはやはりこの子が娘。であり気まプリなんて曲が誕生しなければこの世に存在し得ない女性の美だと強烈に今更知る、なにが言いたいかと言えば、オッスだかなんだかしらねえけど、彼女の歌声、彼女の顔から指先にすべての末端に至るその踊りの美しさを、幼少期から「見られる」という意識を強いられてきたその肉体がまさか娘。として踊っているその瞬間にまでただの、性の結晶する発疹かのように、あんなにもそうした性別確定を覆し還ったりを往復するあの奇跡に舞っている姿を見てもなお、「最高にエロイ!」だなんて言う言葉で片づけてしまう輩が居るというこの状況下にあって、俺が、どれだけそうしたポップでオシャレで軽い言説の向こうで彼女を、、、、、娘。が一曲を歌い踊る時そこにはあらゆる制限とあらゆる自由の衝突があるだろう、おしりを撫でて見せる指先に美の意識を集中させる彼女たちの肩のあの力の解けた美しさまで咲かしながら、彼女たちは思考と感覚と意識と無意識と美とおこがましさの何一つ欠く事なく踊ってみせる、あまりに自由で不自由な、娘。という女の子たちだけが娘。で居る事の肉体の誓約をそのダンスで木っ端みじんにできる、あまりにも俺を涙させるのは、いつでも娘。である彼女たちだけが娘。を葬れるのだ、乙女の葬式のように、乙女の産声のように、彼女たちの歌声とダンスは一向に変動しまくって不安定で危なげない、そうなのだ、危なげない、危険なのだ、娘。という集合するひとつの乙女に娘。たちが毎秒に人工呼吸で息を吹きかけるように、それは試験管のなかの乙女天空部落に閉じこめられた肉体の内部告発なんかじゃない、娘。たちが外部との接触で歳を数えるなかで授かった純粋な肉体の反逆だ、振りの全面にヒビを入れてその亀裂から乙女を染みいらせる、エロいと聖なるのどちらかじゃないだろ、乙女なのか娘。なのかそのどちらでもないだろ、ただ、ただ、あの瞬間、彼女たちの命が、それは誰も真似はできない、あの恋レボの真新しさと広大な荒れ地と花畑が同居する景色は、キッスのような四肢の、

自己紹介

Dear Morning Musume。 君のキャワキャワをキャッチだぜ!