2009年2月10日火曜日

娘。の肉体の在り方。
驚愕すべき小春という存在。

小春は一種の肉体と声の動作とが完全に連動している女の子なのかもしれない、それも意識と無意識との葛藤さえ見えない領域で自然に起きているように思えてならない。
マイネームイズ小春うー!と自信満々に自己紹介に動き叫ぶ小春のその動作は、身体の動きと声の動きが
まったくズレテいない、肉体が声に引っ張られることや、声が肉体に引っ張られることは、
声を肉体を意識的に駆使しようとする女の子には多々あることであるのだけれど、小春はそうした崩壊がまったくなくその瞬間のなんと瑞々しく輝くことか。
娘。の素晴らしさは、やはり、この声や肉体との関係性にあるんではないだろうか、
つまり、意識としての動作の領域ではない瞬間の動作をかき消すことの少ない女の子たちなんじゃないだろうか、これは、所作といわれるものでもそうだが、女の子は動作を取得するのだが、それは直接異性への力である所作もそうだし、生活の所作もそうだが、なぜか、娘。たちは、そうした所作の領域でない、
もっと動物的な成長過程で絶滅しかねない動作を無くすことなく存在させているんじゃないだろうか、
小春の歌声のほとんど声の力を超えたかのような肉体的とも言える躍動はそのまま、小春の肉体のあのおかしくて最高にキュートな動きと連動しているんじゃないか、小春の身体の動きや声の身体の純粋さは出発が無いことだ、これは、辻加護がダッフンダなどのコメディ俳優やダンスやなにかしらの記憶から動き出したのに比べるとまったく自然現象的に小春から巻き起こる現象であり、それは例えば男が意識的に身体のバランスを歪ませる、ジェリールイスやチャップリンやユロ氏の継続でああったはずの辻加護のコメディ激情などではなく、それをあんなにもかわいい女の子がして見せるというのが衝撃だったという衝撃を通り越して小春普通におもしろ過ぎるのだ、辻加護は意識的に変顔をしてみせていたが、小春vs辻加護という構図を頭に抱く人間はあまり多くはないのかもしれないが、辻加護不在の今、現実に、小春は一人がち状態なのだ、小春は無意識のうちに変顔になってるのだし、小春の身体はきょうも無意識のうちに小春に脅威を抱くことのない女の子は

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