2010年6月9日水曜日

6/9 瞳の行方

産まれながらの権力への劣等神経野郎なのか、興行企て支配者の男による彼女への賛美文を読んだだけでそのあまりにも幼稚でまたも彼女の感情コントロール云々の褒め方に彼女を貶す者たちに起こす怒りよりもずっと強い怒りが湧き起こった訳だが、彼女はいつも「発見」され「磨きたい」と思わせる仕草をしているのだろうか、女優的あばずれ、大人の男が今まで埋もれていた彼女の才能に気づき彼女を支えたいなどというような領域に彼女が誘っているだと?、馬鹿な、奴らは勝手に彼女にそれを夢見るのだ、数年まえに彼女の名を悪名化させる巨大な噂であったそうした大人の業界人に表現者として見初められ育てあげられる関係性と、それだけでは収まらないだろう日常的な交友だとか、そんな馬鹿な輩が再び妄想か真実かもわからないあの物語を想起させるような、この男の賛美の登場の仕方のすべてが俺を苛つかせる、それも奴らが彼女を「発見」する時にはかならずと言って良いほどにこの世界の既存の表現領域の出来のいい表現者としてなのだ、虫唾が走る、くだらない、くだらない、彼女が泣いているというその姿の美しさにやられたと真実に語るべきなのだ、役者としてどうのなどあまりにもくだらない、人間的な涙を誘発する材料で織られた物語りに彼女が共感し入り込み泣けるなんて事、彼女のいちばん浅い瞬間の花だ、あの役者はいつも泣けるだなんて賛美は彼女に対しての汚名だ、ところで、俺はと言えば、きょうはこんな事をずっと考えていた、ステージ上の彼女の肉体が向かう方向性など一大事のようには気にも留めないくせにだ、彼女の瞳の行方だけは絶対に失念せずになによりも優先して一瞬も目を離さずに気に留めているその事が、例のこびりつく恋愛感情から起こる「俺を見てくれ」とかいう願望と「見つめ合いたい」という願いだけなのかって俺に聞いてみればほとんどそうした感情起因である事に間違いはないがしかしだ、彼女の瞳の行方を「瞳のダンス」として重大視しながら見ている自分もたしかにしっかりと存在するのだ、感情起因の瞳の運動と仕草、これだ、これに打ち勝つために書くこの今日のあがき文章だ、こんなに頭が空っぽなままに映画ばかりを観ていると、さあ、映画においては、役者の視線の方向性がああだこうだとか弟と話込む事になっちまう、フレームのなかに映っているものと映ってはいないが気配を感じる(見える)ものについてだとか、フレームの外で鳴っている音についてだとか、それってほら、どこかで誰かが話してた映画話だろ?、そうなのだ、そんな事はどうでもいい、なぜカメラを見つめる女の瞳がそれでもなおもレンズではなく愛する男の瞳を見つめている瞳として存在する事ができているのか?、エンジルヒトミがなぜエンジテイル事を超越して真実になっているのか、こうか、こういう事か、だがなぜ、なぜにだ、映画においてはあんなにも至る所で画面のなかの女の視線について語り合われているこの世界において、ステージ上の娘。たちの視線の重要性を誰も語っていないんだ、なぜ、いつも、いつも、娘。の瞳の話と来たらあの大きい瞳から流れた水の事と、無数の「俺」に注がれた爆レスなんて言う話しだけなんだ、そう、俺がここまで激怒している事は、男が女の瞳について、その感情の仕草について語る時にだ、涙の事と自分に注がれた事しか語ろうとしないからだ、。。。。白いテープで印されている肉体の立ち位置と同じように、瞳の位置もしっかり存在しているだろうに、それでも娘。は互いに見つめ合ったり、ファンを見たり、彼女が話す通りにだ、「瞳の振り付け」とでも言うその注ぎ位置を越えて、彼女が勝手に決めた視界の荒野のなかから、またはその場限りの悪戯を抱きながら、「じっと一人を見つめる」だとかを遂行してしまう事や、彼女の視線の行方の膨大なダンスのその残像が、その記憶が、こうも俺をおかしくしてゆく事について、俺は書かなければいけないと思ってこれを書いてるのだろうか、そんな行儀の良さなど俺にはないね、ああ、例えばだ、彼女が視線を観客でもカメラでも無く、ほとんどそこにはもう無機物の壁しか存在していない方向にその視線を注ぎ向けている事の彼女の風景は、奴が賛美したあの物語りに移入して涙を流す彼女とは、、、、、俺と奴、奴が、物語を肉体に体内に漲らせほとんど彼女が演じるという凶暴な領域に身を奮わせて流す涙について賛美している日にだ、俺はこうも狂気に我が儘に彼女の何を語ろうとしているかと言えば、彼女が演じるなんて事を放棄しているかのような瞬間を必死で探し、もっともそれに近い瞳の運動の光景を此処に殴り書き召還しようとしている訳だ、その重大性にこうやって触れては居るがなにを語ればいいのかわからない、ただ、その事がやばいという事が俺以外の人間から発されずに居るのだから、俺がこうして発する事をまずはしなければいけないのだ、さあ、お気づきの通り、俺はなにも語っちゃいないし、壁云々もほとんど真実に程遠いだろう、いや、真実だが、そうだ、その通りだ、ただ俺は、奴が彼女の瞳から流れる水について賛美しやがったんで、俺も彼女の瞳の仕草とその感情についてこうやって賛美してるって訳だ、俺よ、ざまあみろ、きっと、彼女はこの俺の賛美を気に入ってはくれまい、

おまえは舞台稽古まえの本読みの段階から幾度も彼女を見ただろうに、ブログでもう一人の男が本読みの段階で彼女がボロボロに泣いただなんて事を書いているように、お前らは俺には到底到達できるはずのない時間で彼女の鼓動に立ち会うことができたというのに、貴様らが声を揃えて彼女の印象を賛美する時には涙する彼女の事でしかない、貴様らの緩すぎる彼女への賛美視線をぼろくそに葬りさるために、俺は6度か7度観に行く彼女との聖戦において、貴様らがどう足掻いたって到達できない賛美領域に到達するだろう、なにが涙だ、ふざけやがって、もっと凄い瞬間があるはずだ、そう、誰よりもいち早く泣く愛ちゃんの美しさに涙したとhttp://gree.jp/michishige_sayumi/blog/entry/451788364賛美の旗を振ったさゆはしかし数日後にはそれだけではない領域に気づきそちらにも意識を注いださゆの賛美視点のようになhttp://gree.jp/michishige_sayumi/blog/entry/452454635、ああ、愛ちゃんの涙でたぶん俺はきっと間違いなく打ち奮え号泣するに決まっている、だが、ファッショナブルにおいてはじめから用意周到に最大の感動的瞬間として用意されてしまっているまたは彼女自らが用意した彼女の涙という瞬間だけではなく、もっと素晴らしい彼女の役者としての到達をその瞬間の美しさを俺が見つけてあげなければいけないのだ、もしも、彼女がファッショナブルにおいて、泣くというその瞬間だけに美しさと演じる事のすべてをかけているとしたのならその時は彼女を愛するこの世界の誰よりもいちばん俺が彼女に失望したのだと叫ぼう、しかし、どう考えたって今の彼女ならば、涙という一種の脅迫的な感動装置に跨る事なく、俺をもっと深く色づく呼吸の瞬間で俺を泣かすはずなのだ、苛つくんだ、まるで、彼女が涙によってでしか、泣くことによってでしか演じる事ができていないのだと言われているようで苛つく苛つくんだ、おじぎにおいて彼女が泣き座るシーンが俺をもっとも感動させた瞬間であると?、苛つく、苛つく、絶対に彼女の涙以上に賛美しなければいけない瞬間を彼女は爆発させるだろう、涙で泣かすのではなく、ましてや微笑みでさえ無いのかも知れない、演技するその時間の無限の感情の起伏鼓動のなかで、彼女が魅せるその鼓動のなかに、それを涙で泣くなんて事を賛美するだけで終わらせるだと、馬鹿な奴らめ、せいぜい貴様らお前らのようなバブリック演劇デフォルト視点野郎どもが気づけないその領域を見逃しつづければいい、

自己紹介

Dear Morning Musume。 君のキャワキャワをキャッチだぜ!