2010年6月9日水曜日

青春コレクション

映画を観なきゃならん時間を割いてほとんど青春コレクションのDance Shot Ver.と青春 Ver.-type1-を交互に見ている内に夜が深まってゆく、青春コレクションの娘。たちのこの躍動に立ち会った感動をどう言葉にして良いのかわからないままに出会いつづける、ただ、繰り返し、終わらない花のループに見惚れ、ああ、この日の娘。たちはつまり、あの日にれいなやさゆによって伝えられたあの時の彼女たちなのだなと、そう思うだけで込み上げてくるものがある、あの日、さゆとれいなが伝え切れなかった娘。たちの命のきらめきでいっぱいなのだ、この娘。たち全員に宿る穏やかさはいったいなんだろうか、それは、幸福だなんて容易く呼んでしまって片づけたくなどないとてつもない色だ、ただただ穏やかな空気で、たぶん、自分はこの曲における歌詞やダンスと言った領域に踏み込むまえに、この娘。たちの穏やかな空気感に涙してしまっていた、踊る歌うという領域以前にもはや娘。たちは青春コレクションと呼ぶ娘。たちのきょうを呼吸しているだけだった、踊りも歌も呼吸だ、冒頭の頭を垂れて両手を広げる寸前に強く力む羽根のようなダンスのあとにはもう、その瞬間の強烈な力の瞬きのあとにはもう、強く踊っているように見えるだろう間奏でさえ、まったく攻撃性を帯びない娘。たちの肉体の穏やかさの美しさなのだ、彼女たちの肉体には鋭利な部位など存在してはいない事がそのまま宿っているような四肢の風のような仕草だ、風に触れられ揺れる髪のそれと同様の優しさで、遮るものが無く彼女たちの瞳に到達してくる日差しの光に焼かれる事無く輝くその瞳の強さのように、踊る彼女たちのなんて鼓動だろう、ああ、どこかで、かつての、いつかの曲で娘。たちが踊っていたかのような踊りの破片たちがほとんど今の娘。たちに踊られる事によって奇跡的にあの頃の攻撃性を優しさに還らされているかのような、娘。たちのダンスの脈の移り変わりをそのコレクションを一曲のなかのその瞬間で娘。たちの踊りの歴史をも浴びるようなとてつもない体験としてこの曲を歌い踊る娘。たちは俺のまえに現れている、この曲を歌い踊る娘。たちを生で見てしまう俺はたぶんどこまでも深く胸をうたれるだろう、もしかしたら、この曲のダンスというのはここ数年の娘。たちのダンスのなかでも圧倒的に踊る事が難しいのではないだろうかとさえ思う、いや、振りとしては簡単なのかもしれないがしかし、このダンスは、決定的なポーズも停止と加速というダンスの譜面に明記されている肉体の音符シナリオや感情符などはなく、まるで、どこまでも吹き咲いてゆくのひとふきの風のようだからこそ、難しいはずだ、娘。たちの平熱のような熱のこのダンスを、この踊りを、こんなにも感動的に踊る事ができるのは娘。たちしかありえない、攻撃性と狂気のあとに静かに吹く風のようにこの娘。たちの踊りと歌声は美しい、娘。たちの額を見てみるといい、誰一人として、血管を浮き挙げて踊っている娘。など居ないのだ、力が抜かれているわけではない、ただ、強烈に肉体を強固させ四肢で切り裂く事も、表情の生き死にを塞ぐ事も、なにもかもをせずに、肉体との聖戦をせずに、あらゆる神経の罪を背負う事もなく、とうとう、娘。たちはこんなにも穏やかに踊れる事ができたのだ、平熱のままに踊る娘。たち以上に輝く女の子がこの世に存在するだろうか、驚くことに、俺は、はじめて娘。たちの軽さも重さもその重力をも忘れながらに、踊る娘。たちが風のようだと感じたのだ、このPVのなかで、トランポリンによって、めいいっぱいに飛び跳ねる娘。たちの感動的な軽さよりもずっと、感動的なかろやかさを飛ぶことなくこの曲を踊る娘。たちは達成してしまっている、青春 Verで階段にただ両脚で立ちながらに身体を光に風に時にそよがせる娘。たちの肉体の透明感やその体重の香りが正面から一斉にこちらへ輝き向かってくるその瞬間よ、これ程までに、圧倒的に、自然に、もはや、俺には、娘。たちの躍動のどこからが、どの動きの瞬間からが踊りで、どこからが踊りではない普通の仕草なのかさえもわからなくなるだろう、瞬きや、微笑みや、娘。たちのなにもかもがただ穏やかに平熱で踊っているのだ、青春 Verはその事を映してしまっている、朝日なのか夕日なのかわからない光のなかで娘。たちが踊っていた、

自己紹介

Dear Morning Musume。 君のキャワキャワをキャッチだぜ!