2010年5月10日月曜日

よっすぃーの助言引用、その助言から強ばりを解除した結果のエロかわいい。

かの

5/10彼女が掲げた目標が既存の世界概念であるエロかわいいだという事実は、彼女がととくに通過したはずだったはずだ、ななに、彼女は掲げた、帰ったのだ、乙女に、帰ったツアーだった。

編集なんてもう

5/9

「運び屋愛ちゃん。」
彼女の素晴らしさは娘。に世界をそのまま還元させるその力だ、彼女は娘。の内側へと世界とを繋げる力を持っている、彼女の娘。魂は娘。のなかへと愛情篭城するような閉鎖的なものではない、つまり、彼女は肉体的にも精神的にも娘。に世界を運ぶ運び屋なのだ、彼女は彼女の年代の女の子の誰もが知っているような外国のイケメン俳優を知っているし、国内外のセレクトショップで服は買うし、ドメスティックブランドなんかをコーデのなかに点在させる、いくら、その事がどこかに恥ずかしさを残していたとしてもだ、娘。で居る愛ちゃんが伊勢丹に買い物に行く事も500日のサマーを観に行くことはとてつもなく重要な事なのだ、娘。の内部に深く眠りつくのではなく、世界に肉体を精神を意識を持っているという事の愛ちゃんのバランスこそが今の娘。の重さとかろやかさそのものなんじゃないか、愛ちゃんは上手な言語物語りにおいてそれを語らずとも妹たちにその事を示唆している、彼女の素晴らしいところは彼女はあくまでも娘。であるまえに一人の女の子であり一人の女なのだ、それをひたかくしにせずにあまりにも素直にその息づかいを娘。のなかに連れ込む、その事を諦めてはいない、彼女はけしてそれを手放さない、それこそ、娘。である事の条件にある異性交際云々を禁止しているなどの禁止事項というものに彼女は囲まれてはいるだろうがしかしだ、だからと言って、彼女にとってその事が彼女の乙女生命を脅かす重大な事柄ではないかのようなかろやかさが。。。。。愛ちゃんの素晴らしいところは絶対的な密度で娘。である瞬間のなかに生身の女の子で居るその乙女状況を隠す術を持たずに躍動させる事なんじゃないだろうか、つまり、愛ちゃんは娘。で居ることと乙女で居る事の断絶がないのだ、その両極のように変動してみせるオフオンのスイッチがない、このバランスこそが今の娘。の素晴らしさなのではないか、かつての愛しい娘。たちの何人かは自らの乙女細胞をも壊死させてしまう程の濃度でただ娘。になろうとしつづけついにはその反動であるかのような内部から湧き上がる乙女反乱細胞に娘。であるその状態を壊されてしまったかのように娘。を去っていってしまった、しかしどうだ、現役の娘。であるにもかかわらず、しかもリーダーであるにもかかわらずだ、外国の男(俳優)や舞台俳優にたいして「とにかくイケメンで〜」などと言った言語をあんなにも素直に連続発言した娘。が今まで居ただろうか?、彼女はあらゆる禁止事項を重篤に意識していないその乙女意識の重いかろやかさこそが今の娘。の素晴らしい重さとかろやかさに繋がっている気がする、彼女は娘。のなかに世界が雪崩れ込んでくる事を否定もしないしその事を悪だとは思っては居ない、つまり、高橋愛というその人は、娘。たちになにも禁止してはいないのだ、禁止する事などなにも無くして娘。で居る事のできる実証をその存在で証明しているのだ、娘。たちは開けている、娘。たちは閉鎖的ではない、今の娘。の愛情はかならず世界に洩れる、その事の意味はけして小さくはないだろう、愛情によって膜が張ってそのなかで抱き合うのではなく、彼女たちは、俺たちの目が、世界の目が届くところで堂々と、そうだ、あまりにも堂々と抱き合いふざけあうのだ、高橋愛というその人がステージ上でかならず「此処ではないどこか」へ視線を意識を歌う事の意味はまさしくそこにある、「愛ちゃんがなんか、客席もない、ライトも当たっていないところを観ながら歌ってたんですけど!!!!!!なんかすごかった!!!!!」あの歓喜、客席どころか、右の壁を見つめている愛ちゃん、彼女は閉鎖されたその日限定のそのコンサートのなかにあってもなおも、閉鎖的ではないのだ、彼女の表現の凶暴さとおかしさと美しさはそこにある、彼女の肉体は娘。というその状態のなかに状況のなかに閉じ籠もってはいない、だからこそ、彼女の肉体はあらゆる世界からの引用を意識的にも無意識にもやってのけるのだ、娘。でしかないその領域のダンスのなかに彼女は自らと世界の同居を歌うかのように感激したあらゆる世界の身体的脈拍を浮上させる、驚くことにそれらはどれもがいわゆる娘。的なものではけしてないのだ、そこにこそ素晴らしさはある、与えられたものを娘。領域で表現しきる事は今までの娘。たちが娘。であった事の最大の条件であり最低限の条件でもあったはずだ、ダンスが娘。たちの肉体に授けられ娘。たちの筋肉にまで届けられるまでには、振り付け師が世界から再構築した娘。に相応しく形勢したダンスにまで濾すだろう、しかしだ、愛ちゃんという人は、露骨にある瞬間にそうした他者の創造デフォルトを有無を言わさずにまったく別物にしてしまうのだ、こんな事までして、怒られたりしないだろうか?、と心配になる事さえある、そうなのだ、今の娘。のあのダンスの恐ろしさはもしかしたら、与えている者たちの思想と思考との正しさの鼻を折りかねない、娘。たちの肉体の無意識の反抗にあるんじゃないだろうか、やはり、ここでも、強度に与えられた仕草で娘。で居ることの強度よりも、娘。で居ると同時に躍動する女の子で居る事の身体的微動が与えられた娘。的動きのなかに交じりどこかで共鳴しながらも邪魔をし合いのぼりつめる競争のその震度がダンスのなかに現れてしまったかのような凶暴性こそが娘。たちのダンスの相づちなんじゃないだろうか、絵里ちゃんのあの恐ろしいまでの肉体の躍動が与えられたものをただそのまま生き映しているだけだとは思えない、あれはまさしく過剰なまでの自己の証明反乱だ、愛ちゃんをかわきりに娘。たちがそうしたおいたとでも言うのか、表現する事への狂気に移った瞬間にそれは愛ちゃんただ一人の暴走ではなくなるのが今の娘。の恐ろしさなのだ、というのは、今の娘。はアカデミックな技能者の、つまりは、与えてくれる者を与えられたそのものを打ち負かしてしまうかのように無謀な反乱とも言える残忍さをダンスの領域に孕んでいる、その事が、例え与えられた事を裏切る事になろうとも、愛ちゃんは愛ちゃんのその瞬間の肉体の直感を選ぶし、その事こそがとてつもなく感動的なのだが、周りの娘。たちも振り付け師やつんくたち与える側にではなく完全に愛ちゃんに味方するのだ、愛ちゃんに同期しいよいよ彼女たちは共犯してとんでもない領域のダンスをしでかしてしまうのだ、と、ここまで書いてきて、これは俺の思い過ごしだろうか?、どこのどの振りでそれが起きているのかなどと例を出せとか言うのであればそうした領域の話ではないので貴方は永遠に愛ちゃんのダンスや娘。のダンスの至りなど理解する事などできませんねとしか返す言葉はない、もはや、筋肉レベルで違うのだ、マイクを持つ指先のダンスでさえ彼女は毎回違う、そもそもが授かったその瞬間がダンスの完全体ではけしてあるがずがない、その事は彼女が彼女に授けたはずの「エロかわいい」なんて言う目標をとっくに忘却してしまう領域で踊ってしまう事からも明らかな事だ、と、思わせる程に、性別の彼方に身体を持って行ってしまう、「日本好きか?」という曲で浮上する性別の彼方きゅん、彼女は壮大にひらけているのだ、問題は、幕が上がったときのあのウサギの耳の折れ曲がり具合にあるのではない、その下のスカートのなかの解れにある訳でもない、そこにかたちあるものではなく、彼女のあのオーラそのものがもっとも重要なものなのだ、誰だろうか、ふとMCで、娘。の一人がこんな事を言った、「なんか会場がモクモクしてる!」、あの蒸気、あれこそ、娘。たちの意識や愛情が外側に向けられている事の証明だ、娘。から立ち込めた、俺たちから立ち込めた、彼女は娘。に相応しくはないはずのダンスの粒子を娘。に運んでくるのだ、肉体を用いて。。。今までの娘。たちとの決定的な違いは、かつての娘。にも既存の振り付けを壊しては新たな領域に咲かしてしまう子供たちも大人たちも居た、しかしだ、それらの多くはどこまでも愛情的なのだ、いや、既存の与えられた振り付けのなかでかたち化されてはいない互いの愛情をどうにかかたちとして躍動させたいと願う結果のキッスや、触れ合い、そうしたどこまでも愛情に特化した新たな振りつけの誕生だった、愛ちゃんの素晴らしいところは、けして愛ちゃんが振りを崩しながし、フリースタイルで新たに導入してみる振りというのが、他の娘。への愛情表現に特化した今までの娘。振りぶっ壊しとまったく違う領域の、

5/8

ファッショナブルのブログでの愛ちゃんの「Today’s Fashion point♪」のブランドバランス感にいよいよ惚れて、愛ちゃんの着る洋服のバランスこそが娘。と世界とを往復する愛ちゃんの距離感のバランスなんじゃないか!とさえ思いこみ一人で大興奮する。愛ちゃんという地上に点在してゆく世界のかけら。俺の知る余地も無いガールズブランドのなかに「Pants☆Diesel 」なんて文字が躍っていればそれは惚れる。「ディーゼルだって?、あのちょっぴり高級みたいなイタリアのドキュンブランドか?」。そしてコンバースきゅん。

5/7

いちばん娘。ではないと思っていたその子が、自分にとって今、この世界において、この子こそが真に娘。を娘。で居させる事のできている鍵になっている女の子であるその事実について

高橋愛その人の事をどうにか文章に書かなければいけないという事を強く意識はするがしかし、

良く言われる事ではあるが、この女の子は別にたいして昔から変化はないのだと、この子はぜんぜん変わってはいないのだと、昔からその子を愛していた多くの男が口を揃えてそう叫ぶがしかしそれは愛者の絶対的なおごりであり、変化は存在するはずなのだ、絶対に彼女はどこかで変わっているはずなのだ、その変化とも言い難いニュアンスと、変わらずにある呼吸とを繋ぐ。。。。


娘。で居るという事の神聖な脈動を計り知る事はできないがやはり、娘。で居るという事はとてつもない力を必要とするのだ、もしかしたら、娘。になる事よりも娘。で居続けることの方がよっぽど大変なのかもしれない。



それはあまりにも膨大なあらゆる時間と物語とで娘。の内膜を外側に露出させる事に似てとても辛い作業になりかねない。娘。たちが誰でもない娘。たちの手によって娘。を壊しそうになったあの頃のあらゆる事変についても参照せねばいけないはずだが、結局それは「それでもその時に娘。で居ることのできた内部の彼女率いる娘。たち妹集団は、かつてのどの娘。たちよりも幼い身体と幼い強靱な魂でそれを乗り越えた。」というような事にまで触れなければいけないのでまた敵を作りかねない。しかしだ、どうにも自分にはかつての何人かの娘。を否定的に語る事はきょうの娘。の素晴らしさを語るうえでは不可欠であるとさえ思いこんでるふしがある。なにかを誉めるときなにかを同時に貶さなければ語れない人間の知能の低さを嘆くだけの精神状態を持ち合わせてはいるが、それでもやはり、どこまでも重要なのは、ある瞬間に娘。であった人間こそが今の娘。にとって、もっとも残忍な存在になってしまったという事実があり、言い方は悪いが、ある瞬間にある娘。たちは娘。を捨てて世界を取ったのだ、これは暴言だろうか?、世界というものがずっと娘。を軽視しあんな乙女集団はただの遊びだ一過性の遊戯だなどと「もーむす」などと彼女たちを呼ぶ世界に彼女たちは去ったのだ、それでも今の娘。はそれに打ち勝ち、いや、もしかしたら、愛ちゃん率いる娘。たちの威力というのはそうしたかつての娘。たちが手の届かない領域に到達する事で自らを奮い立たせ彼女たちが君臨する事によってでしか、そうした娘。たちをも許す事などできなかったのではないか、ある種の、訣別を、肉体的な躍動による世界との接点をも、愛の重さを見出さなければいけないのだ。
彼女は異質だ?、まさか。

というか、今の娘。というのは愛ちゃんなのだ。

どこまでも愛ちゃんなのだ、この子が鍵なのだ、五期にまったく萌えずに、その中でも高橋愛という譜面が読めるというアカデミックな力を手にしながら娘。に入ってきた彼女こそが、今もなお、更新する世界の情報と美術との断絶を行わないで、アカデミックな世界からの引用を断絶する膜のなかの毒に鳴りかねないその栄養を、娘。のなかに静かに注ぎつづけついには、娘。という存在を神格的童話の乙女ではなく生身の乙女たちの躍動にまで還らせたという事を言葉にせねばならない、ある種の、愛情ゆえの自然的な閉鎖を娘。の膜が逃れていられるこの今の現状のバランス、愛ちゃんというひな鳥のような親鳥は娘。という膜のなかから飛び出しては世界でいろんなもの見ては惚れ惚れして世界に魅了されそれを娘。に持ち帰る、愛ちゃんの素晴らしい所は世界をお口のなかで身体で噛み砕くという事だ、世界をそのまま娘。の膜のなかに持ち込む事などけしてしない、いつでも世界は愛ちゃんのなかで愛ちゃんの視線と心音で噛み砕かれ娘。たちのなかに身体の伝達によって伝えられる、それがダンスの領域での愛ちゃん発の花の伝染病だ、語るべき事を拡散して俺はこうも横暴に語るが、こうした錯乱する文章のなかにひとつでも彼女の真実がきらめけば、

「愛」「きゅん」


いよいよ俺にとってのあまりにも生気溢れた幸福の時間ってものが過ぎ去ってしまった訳だ。今ツアーの終結は彼女の「春」の到来を感じると言った言葉のなかにかたちあるものとして浮かび上がっては、彼女の「始まりあれば終わりあり」また会えますよだなんて言う時間的遠距離の到来を告げる優しさで。

好きだ、愛している、抱きしめたい、という幼稚で神聖にいびってる絶対的なこの感情以外に、彼女についての言葉を悪魔的な客観性にまで逃がすように葬り去ってまでだ、彼女のついて何かを書かなければいけないという使命ではなく欲望に取り憑かれ俺は、あらゆる世界との接点を断絶し、彼女とその姉妹たちと何人かの友人との歩みとのなかに潜り込んではいるのだが、瀕死の状況にうなされるだけであり、今のところ、彼女についての決定的だと自身で崇める事のできる程の言葉などは生まれては来ない。

俺だけだろうか、彼女がそのかわいさを世界に輝かせた時に、俺は彼女の名前を呼ぶ「愛、きゅん」
なぜ俺は彼女を「愛きゅん」と呼ぶのか、なぜ「愛ちゃん」ではその時には似つかわしくないと思い込むのか、一種のファンである事の、絶対的な魅力下に降参したあまりにも解りやすい遊戯的な降参の遊びのチックなのだろうか、意味のない、誰もが陥るありがちな、無意味で熱のない、いや、どうしても、この「愛きゅん」という名で愛ちゃんを呼ぶという事自体にでさえ、あまりにも膨大な彼女たちと俺たちとの歴史が、愛してしまうまでの俺たちとの歴史が蠢いてる気がする、彼女の名を呼ぶ音に熱が宿るまでの。

愛してしまうまでの歴史?、愛してはいなかった?

「第一章 高橋愛 大嫌い または五期の不在」

そうなのだ、ここだ、現状の愛情の熱にうなされればうなされるほどに、彼女を愛していなかったどころか、彼女を嫌っていたその事実さえ語らなければ真に彼女を俺が、語っている事にはならないのだ。

大嫌いから大好きへ

俺が年老いて、その間に俺が愛する女が妊婦になり、俺の魂が俺が変わっただけなのか?、彼女は本当に変わっては居ないのか?。

彼女に甘えるように甘く溶かした彼女の呼び名である「きゅん」冷静に吐いた魂の漂いのなかに投射させる程の、強烈な身体的愛の労働に、ああ、身体的愛の労働、俺が足を踏み入れるべきなのかずっと苦悩してきた、そうだ、身体的愛の労働は俺を壊す、彼女の魅力を語ろうとすれば魂と肉体とを繋ぐ全動脈の歪みを軋ませ俺と彼女のすべてを改竄してゆく、愛していると呟くことよりも、重要な行為への責任だんなんて呼びたくもないこの行為だけが、彼女の胸の花に愛をかすめられるならば。

君の魅力を語る事を、誰にも明け渡すものか、何度呟いただろう、星空で寝っ転がる膨大な光どものクエン酸の頬張りがこの意思の内膜をまだ生かしている限りは俺は「ラブスラング」を呟いてごらんと彼女に要求し、彼女の欲望が、あの無菌にまで高められた精神の無期懲役のような筋肉質の彼女の太腿の肥大する紐の束のその構造のなかを紐解くまでに医学的な視線の挑みに、彼女の肉体のあの一瞬も揺らがない強固な意思の結界のような佇まいはどうだ、そうとも!、けれども、あの肉体をアカデミックなスポーツ医学で喝采してもまったくの無意味だ、あの肉体からして彼女は凶暴な不透明さのなかに居る、小さな身長に彼女の四肢の持つ意味を、上半身の


第一期 大嫌い

彼女について語らなければいけない事への恐怖は結局のところ、彼女に出会った時には彼女が嫌いだったという過去の事実がそびえ立ち、その精神状態に立ち戻らなければいけない。
彼女が娘。としてこの世界に姿を見せていたその瞬間から彼女を愛せた者たちへの無謀な宣戦布告になりかねないその認識こそがしかし実のところ、もっとも重大な彼女とこの世界との聖戦において、重要な鍵になる、つまり、俺は、彼女が「嫌い」で彼女が「好き」だったのだ。

大嫌いを大好きにした彼女の力とは。

女の輝きの真の魅力など、こちらの男性的精神状態と男根の疼きに由来する身勝手な参謀者なき痙攣だって事を全否定する、なぜなら、俺は、ほとんど彼女を語りはじめるその瞬間から間違いだけを犯しつづける、なぜに、今の彼女のダンスを、その表現を、己がこの世界において唯一感激し乙女の生命を召還する表現だと惹かれているのかという表明には辿り着けない気がして、ずっと避けてきた、愛している理由など、惹かれている理由など考えなくてもいい、ただ、愛しているという、惹かれているという事実だけがそこにあればいいと言える程にはあらゆる罪は雪解けてはいない。

彼女の生い立ちや、それこそ、彼女の「ただの田舎者」かも知れないと言う発言を拾い上げて、譜面が読める娘。として娘。のなかに入ってきた彼女が、4期の特に辻加護の天才的な幼児性とその















高橋愛という女の人の魅力とはなにか、

好きだ、愛している、抱きしめたい、という幼稚で神聖になっちまってる絶対的なこの感情以外に、彼女についての言葉を悪魔的な客観性にまで葬り去ってだ、冷静に吐いた魂の漂いのなかに投射させる程の強烈な身体的愛の労働に、俺が足を踏み入れるべきなのかずっと苦悩してきた、そうだ、身体的愛の労働、彼女の魅力を語ろうとすれば魂と肉体とを繋ぐ全動脈の歪みを正さなければいけない、愛していると呟くことよりも重要な行為への責任とは呼びたくないこの行為だけが彼女の胸の花に愛をかすめられるならばと思うのだ。

君の魅力を語る事を、誰にも明け渡すものか、この意思がまだ生きている限り。


第一期 大嫌い

彼女について語らなければいけない事への恐怖は結局のところ、彼女に出会った時には彼女が嫌いだったという過去の事実がそびえ立ち、その精神状態に立ち戻らなければいけない。
彼女が娘。としてこの世界に姿を見せていたその瞬間から彼女を愛せた者たちへの無謀な宣戦布告になりかねないその認識こそがしかし実のところ、もっとも重大な彼女とこの世界との聖戦において、重要な鍵になる、つまり、俺は、彼女が「嫌い」で彼女が「好き」だったのだ。

大嫌いを大好きにした彼女の力とは。

女の輝きの真の魅力など、こちらの男性的精神状態と男根の疼きに由来する身勝手な参謀者なき痙攣だって事を全否定する、なぜなら、俺は、ほとんど彼女を語りはじめるその瞬間から間違いだけを犯しつづける、なぜに、今の彼女のダンスを、その表現を、己がこの世界において唯一感激し乙女の生命を召還する表現だと惹かれているのかという表明には辿り着けない気がして、ずっと避けてきた、愛している理由など、惹かれている理由など考えなくてもいい、ただ、愛しているという、惹かれているという事実だけがそこにあればいいと言える程にはあらゆる罪は雪解けてはいない。

彼女の生い立ちや、それこそ、彼女の「ただの田舎者」かも知れないと言う発言を拾い上げて、譜面が読める娘。として娘。のなかに入ってきた彼女が、4期の特に辻加護の天才的な幼児性とその

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Dear Morning Musume。 君のキャワキャワをキャッチだぜ!