2010年5月29日土曜日

与えられたもののなかに与えるという事

彼女が「与えられたものいかにこなすか」というだけの存在ではなく、「与えれらて育て文体をカエル、さらっとうたわないようにする」、与えられたそれ以上のものを自らに「与えている」存在であるというのならば、彼女が創造したものを挙げてみればいいはずなのに、それを容易く言葉にできない俺はやはり完全に破綻しているか彼女を見ている力が未だに貧弱なのだ、あの振り付けのところがこうだ、あの瞬間に彼女の創造した動きを入れていると言った具合には説明不可能だ、例えば、今ツアーのリゾナントブルーでの彼女は曲も作れないし、彼女は振り付けだってできやしない、それこそ、彼女自身やDさんが発言する通り「与えられたものをいかにこなすか」というその領域で娘。たちも彼女たちも闘ってきているはずだ、けれども、近頃の娘。に感じる、与えられたものを壊す寸前にまで自らの濃度を高めてしまう身体の動きというのはたしかに存在していると思うのだ、それは愛ちゃんをはじめ絵里ちゃんにも強く感じる事だ、娘。にはつんくというプロデューサーも居るのだし、舞台構成のスタッフやダンスの振り付け師だった居る、つまり、彼女たちに「与える」大人の存在がいくつも居るのだ、この曲はこうして踊るべきでこうした歌声で歌うべきだとか、この曲にはこうしたメッセージが込められているだとか、あらゆる大人の創造者が彼女たちに思考を美意識を物語を授けようとするはずだ、俺がいちばん不可解に思ったことはこの春ツアーがはじまる直前までリハーサルがうまく行かずに怒られたというその事実だ、なぜ娘。たちを与える創造者どもが怒ったのか、単に振り付けを覚えられなかったのか、表現が彼らの創造したものと違うからなのか、良くはわからない、しかし思うのは、創造者の奢りとでも言うのか、バレエのDVDを見ていても結局は踊りをその表現を肉体に最終的に与える事ができる存在というのは踊る本人でしか可能ではないのだ、それなのに、なぜ、俺は彼女が「与えられたものをいかにこなすか」という領域の話では落ち着けないのか。
与えられたものをいかにこなすかというその無垢さなり純粋さなり、
彼女が苺いちえを一から創ってきた番組だからというような発言をしている事も考えなければいけない。

涙ッチ、ハロモニ。遊んでいるのにそこで娘。たちの動く、ソロ曲柄でリゾナント、あの衣装も

小春喪失をジュンジュンが元気玉みたいになる。。。

メドレーが与えれれたものが変貌する、生まれ変わる、不安定さが、さゆが振り付け問題、ジュンジュン、娘。を模倣から、

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Dear Morning Musume。 君のキャワキャワをキャッチだぜ!