2010年5月31日月曜日

彼女が「リゾナントブルー」に騎乗した瞬間の事

どちらも諦めていない、つまり、軽さも、重さも、リゾナントの動きと、歌声の軽さ

彼女について考える事の目眩に酔いしれている時の鼓動の往生際の悪さを憎むべきではあるのだろうけども自分にはその瞬間しか住み心地が良くないものだから好き勝手に鼓動させておくのですが、だからといって、ここまで狂暴な彼女の残り香への執着にはいいかげん自分でも嫌気が差してこないはずもない、しかしだ、彼女がなぜこんなにも執拗に俺のなかで舞いつづけるのかという事を考えるまでもなく考え出すから彼女がただ俺のなかになにか美しい瞬間の記念撮影でもされた写真のように君臨してくれれば良いのだが彼女の君臨はまさしく先に述べたように「舞って」いる、かわいらしくただ俺のなかに写真のようにしとやかに君臨すればよいものをなぜ彼女は舞うのか、いや、なぜ俺は舞っている彼女をこんなにも思い出し浮かべるのか、彼女の踊りがそんなに好きなのか、いや、好きという訳ではないだろうに、なぜなら、彼女をひとりの娘として女としてみるのならばだ、はしたなくかわいくラー油を粗末な宅配弁当の白米のうえにかけようとしている姿にこそ見惚れるのだ、だから、彼女に恋している心情の過剰な領域に心音が高鳴っている時はただそうした彼女のなんでもない肉体の運動をその瞳の佇まいをそのフォルムに見惚れ大事にしたいと思うだろうに、なぜ、そうした彼女のかわいらしい姿に見惚れる事を犠牲にしてまでも、こんなにも「舞う」彼女を夢見るのか、いや、見惚れているのか、執拗に執拗に、こんなにも彼女の事を書かなければいけないという意識に呪われている奥底には彼女の事と言うよりも「舞う」という彼女の状態にこそ興味があるのではないか、なぜその瞬間の彼女にそれほどまでに執着するのか、俺の「書く」という行為と彼女の「舞う」という行為の一騎打ちを企てたいのか、それはつまり、彼女との情事に至れない事の代理的な愛撫なのか、彼女を愛撫する手段なのか、不可解だ、自身でもこの使命とも欲望とも違うだろう意識が厄介でしょうがない、














振りを変革するのは愛情だったりする事があるが、自分の肉体と連動sあせる

リゾナントブルーでなぜ彼女はリゾナントブルー(地球(その時、娘。たちはスタージの床に地球に立っているのではなく曲のうえに立っているのだ))に跨り乗馬してみせたのだろうか、それもあまりにも突然にだ、あの時、俺は彼女側の席だった、あれは。。。最後のサビの繰り返しの時だっただろうか、彼女が突然に、まさしく視界から「消えて」しまったのだ、彼女はステージから一瞬にして姿を消してしまった、いったいどの表現者がどんな思惑を抱いて行うって言うんだろうか、いや、消えたはずの彼女を見つけるのに2秒もいらなかった、彼女は立つことをやめて地面に完全に座り込むのでもなく、まさに馬に跨り砂漠地帯を疾走するかのように、地球に、地面に跨り踊っていたのだ、その時の彼女の「舞」が焼き付いて離れないのは彼女が一瞬だけ行方を娘。から眩ましてしまった事による彼女の不在感ではないその存在証明の遂行の花の形相だ、彼女の肉体は地面に触れるか触れないかの瀬戸際で重力をありえない方向にぶちまけていた、ここで語る重力というものは地球が彼女を引き寄せ直立させ吊し上げているその重力ではない、そうした重力と攻防する彼女自体の重力の事だ、彼女の身体は極限まで無駄な私情を感情をないがしろにしながらなにか、そうだ、ただ純粋に生命を躍動する臓器のように、彼女は心臓になっていた、娘。の集団から消えてしまった彼女の立ち位置の上部の空間には穴が空いていた、そのすぐ下の空間では彼女が小さくしかしとてつもない巨大さで両膝を尽き地面に肘で鞭を入れ上半身と下半身の結界を説き解きただ躍動する心臓になっていた、今までのリゾナントブルーの彼女に唯一残念に思っていた事は彼女のあの野生の鳴声のように美しいフェイクに打ち勝つ肉体の躍動がなかった気がしたからだ、彼女はあのフェイクの瞬間に客席の一人に狙いを定め視線を外さずにフェイクすると36回目の苺いちえで言っていたが、そうした野蛮さに打ち勝つ肉体の躍動がどうしても生まれなかった、しかしだ、彼女はついに、あのフェイクと聖戦できる肉体の動きを創造し生んでみせたのだ、いや、またこう述べなければいけないのだろうか?、事実関係としてはその動きをはじめて確認できたのは突然に神戸であったと、そして、その動きが彼女が独断で瞬間的に創造し生み出し遂行したものなのかはわからないと、しかし、そうした事をすべてないがしろに横に放り投げても俺は言いたいのだ、彼女がとうとうあのフェイクを越える肉体の瞬間をリゾナントブルーで踊っていると、リゾナントブルーでさえ進化可能なのだと、彼女というひとりの存在のなかで巻き起こる肉体と歌声の凄まじい戦いがある、その事だ、ずっと俺が思い浮かべる彼女の「舞」と「歌声」の、今ツアーでの彼女のどこかで優雅な余裕とでも言うのか力を抜いているかのように、筋肉質な感情と烈火と物語りへ服従を軽蔑でもするかのような突然の放棄を、いや、たしかに彼女はどこかでなにかに反抗し放棄していた気がするのだ、そしてそのダンスはなにかもしかしたら今の彼女の表現のひとつの到達なのだろうかとさえ思わせる異様な瞬間だったのだ、しかしあまりにも、その力を抜いた優しい彼女の躍動がつづく事も、優雅さやそのかろやかさは凶暴な印象を俺に与えた、静かな四肢の優雅さがただの優雅さではなくどこかでとてつもなく恐ろしい瞬間への序章のような気がしてならなかったのだ、彼女は優雅さリゾナントブルーという曲は彼女にとっても娘。にとっても俺にとってもとてつもなく大事な曲だ、あの曲はとても野蛮だ、その野蛮さはどこか彼女の野生に似ている、リゾナントブルーは今の娘。の恐ろしさが朧気にもその骨格を抱きはじめた刻印のような曲でありとてつもない運動で躍動してゆくのだという肉付きしてゆく瞬間そのものだったつまり!、リゾナントブルーという曲のどこか普通ではない蠢きと狂気と運動を秘めた不気味に美しい曲の「生きている」のだというその現在進行形の躍動の動きこそ今の娘。の動脈なのではないか、

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