2010年5月31日月曜日

5/31

リゾナントブルーの彼女のあの「騎乗」について下書きを書いているのだが、どうにもうまく書けない。(書き始めたくとも、そもそもがあの騎乗がほんとうに彼女がはじめて騎乗したのかどうかという事については俺は彼女のすべてのリゾナントブルーをみているわけではないからわかりえないので、この世界から見た彼女の騎乗瞬間現実の確認と、そんな事はさしおいて、俺のなかでの彼女のリゾナントブルー騎乗の生まれた瞬間を書けばいいのだと言う葛藤がある)
なにもそんなに難しく書くことなどないはずだ。
つまりは、彼女があの「リゾナントブルー」でさえも、どかで到達と言うか、頂点というか、もうあれ以上はないだろう表現の限界領域のようだった「リゾナントブルー」でさえも、あの神戸で完全に新しい領域に誘ってしまったというその事実だろう、リゾナントブルーでさえ彼女は進化させてしまったというその事実についてなのだ、突然に神戸で彼女が地球に騎乗してみせた事についてだ、踊り歌う瞬間の娘。たちの地球というのはステージの床でもなくその下の地球そのものでもない曲のうえなのだ、だから、彼女はリゾナントブルーのうえに立つことをやめてついにリゾナントブルーに騎乗したのだ、リゾナントブルーでの彼女の最大の悲劇は彼女のあの乙女の野生鳴声のように響くフェイクの歌声に肉体が打ち勝つ事の困難さだった、いや、あのフェイクでさえ彼女の肉体を敗北させた事などたしかに無いのだが、しかし、あのフェイクは君臨するのだ、彼女の肉体の躍動のそのうえにだって、だから、俺はいつもただ唯一、彼女の肉体があのフェイクのうえに君臨する瞬間をどこかで夢見ていた、彼女を形成する肉体と歌声のどちらかに勝敗をあげるなど馬鹿げているだろうと判決されてもしかたないが、
だが、それは現実にいつも起きている事だ、彼女という一つの存在のあらゆる領域が聖戦し合ってるのだ、だからこそ肉体と歌声の戦いもある、もちろんだからこそ、それらが抱擁し合った瞬間に彼女の輝きが噴火する、あのフェイク、彼女が客席の一人をしとめるかのように見つめるというあのフェイク、さんまのラジオのプロデューサーの結婚披露宴でさんまに「なにか娘。の曲を少し歌え」と言われ彼女はこのフェイクを披露したという、リゾナントブルーのフェイク、あの瞬間のうえにまで君臨する瞬間を彼女が肉体で表現できるなんて考えもしなかったのだ、それもこの季節にあまりにも唐突に、しかもだ、今ツアーでの彼女というのはどこかで肉体の狂気的なまでの躍動を鎮めた女の子であり人間である彼女の心音を踊るかのように優しくかろやかな表現であったはずがだ、突然に封じていた躍動のすべてが噴火するように彼女はリゾナントブルーに騎乗してみせたのだ、あれはたしか、神戸だった、それぞれのソロ曲が披露され6期たちの激きゃわ激愛しい激リアル曲である「大きい瞳」が終わったその瞬間にいつものようにリゾナントブルーの音が湧きあがって空間を覆った、彼女は「あの日に戻りたい」の衣装であるワンピースにデニムのライダースにボヘミアンな髪飾り(これはしていたか正直、思い出せない)という姿そのままに再び出現する、圏外も強く言っていたが、今ツアーのリゾナントブルーの素晴らしさは、それぞれの期がソロ曲を歌い終えた後に、しかも、バラバラの衣装そのままに再び集結し踊り歌ってしまう事にあった、それもだ、彼女たちの纏っている衣装がどれも普通の女の子たちのお洋服なのだ(もちろん開拓時代を思わせるなどいくらでも洋服に意味を持たす事は可能だが今となってはカウガールの意味はその時代の女という意味ではなくただただ「女の子」なのだ)、彼女はワンピース姿でリゾナントブルーを踊り歌うのだ、「あの日に」で彼女が彼女を司りながらも不自由にさせていたあの傘を置いて(あの日の彼女の傘を持つことによって起こる拘束される肉体の不自由ささえ踊ってしまったかのようなその美しさときたら、いや、踊らずにただ傘を差し歩きそこに居る彼女の)、肌の露出がほとんどないくらいに四肢も身体全体をも包むワンピースの裾を彼女は掴んでは握りたくしあげながら歌い踊っていた、ワンピースの上着のデニムを掴んでは放しては、その日のリゾナントブルーもいつものように凄まじい領域で俺を魅了していた、彼女がフェイクする、俺は絶叫したくなるほどに射抜かれる、曲はつづく、リゾナントブルーという地球がその時空が起こっている、ほとんど意識不明の昏睡のようにリゾナントブルーのなかに俺は漂っていた、あのフェイクを終え娘。たちの躍動と歌声はいよいよサビの連続発動によって頂点に突入してゆくようだった、しかしだ、その瞬間に、彼女だけがリゾナントブルーのなかから消失してしまったのだ、わずか一秒の速さで、彼女は行方不明になった、行方を眩ました彼女を再び発見するのはとても簡単な事だった、見失ったわずか2秒後に、彼女がリゾナントブルーの地上に膝をついて跨り上半身と下半身と四肢と頭のすべてで踊っていたのだ、その姿はまさしく馬に騎乗する乙女のようであり、俺はそのあまりにも恐ろしい躍動と美しさに客席で「うおおお」と絶叫し暴れるように身体を痙攣させたのだ、彼女は、とうとうあのフェイクに肉体の躍動で追いついたのだと思った、いや、リゾナントブルーというもはや創造する透き間など無く娘。のすべてが充満している世界でさえも、彼女がまだ変化させ進化させる事ができるというその事実に俺は立ち会ってしまったのだ、はたして、あの動きがあの瞬間に奇跡のように彼女自身から生まれたものであるのか、それとも、振り付け師などと相談しての動きであるのかは憶測でしかないのだからどちらかはわかりえない、しかし、彼女があの瞬間にきょうのこの季節にだ、リゾナントブルーに新たな躍動を踊ってみせた事の重大さだけは誰かが宣言しておかなければいけない事なのだ、ここから先は、とてつもなくながく破綻した彼女の肉体の躍動についての憶測考察になってゆくだろうが、しかし、どうしても、この重大な踊りについてはどうしようが書かなければいけないのだ、





彼女が「リゾナントブルー」に騎乗した瞬間の事


彼女について考える事の目眩に酔いしれている時の鼓動の往生際の悪さを憎むべきではあるのだろうけども自分にはその瞬間しか住み心地が良くないものだから好き勝手に鼓動させておくのですが、だからといって、ここまで狂暴な彼女の残り香への執着にはいいかげん自分でも嫌気が差してこないはずもない、しかしだ、彼女がなぜこんなにも執拗に俺のなかで舞いつづけるのかという事を考えるまでもなく考え出すから彼女がただ俺のなかになにか美しい瞬間の記念撮影でもされた写真のように君臨してくれれば良いのだが彼女の君臨はまさしく先に述べたように「舞って」いる、かわいらしくただ俺のなかに写真のようにしとやかに君臨すればよいものをなぜ彼女は舞うのか、いや、なぜ俺は舞っている彼女をこんなにも思い出し浮かべるのか、彼女の踊りがそんなに好きなのか、いや、好きという訳ではないだろうに、なぜなら、彼女をひとりの娘として女としてみるのならばだ、はしたなくかわいくラー油を粗末な宅配弁当の白米のうえにかけようとしている姿にこそ見惚れるのだ、だから、彼女に恋している心情の過剰な領域に心音が高鳴っている時はただそうした彼女のなんでもない肉体の運動をその瞳の佇まいをそのフォルムに見惚れ大事にしたいと思うだろうに、なぜ、そうした彼女のかわいらしい姿に見惚れる事を犠牲にしてまでも、こんなにも「舞う」彼女を夢見るのか、いや、見惚れているのか、執拗に執拗に、こんなにも彼女の事を書かなければいけないという意識に呪われている奥底には彼女の事と言うよりも「舞う」という彼女の状態にこそ興味があるのではないか、なぜその瞬間の彼女にそれほどまでに執着するのか、俺の「書く」という行為と彼女の「舞う」という行為の一騎打ちを企てたいのか、それはつまり、彼女との情事に至れない事の代理的な愛撫なのか、彼女を愛撫する手段なのか、不可解だ、自身でもこの使命とも欲望とも違うだろう意識が厄介でしょうがない、















リゾナントブルーでなぜ彼女はリゾナントブルー(地球(その時、娘。たちはスタージの床に地球に立っているのではなく曲のうえに立っているのだ))に跨り乗馬してみせたのだろうか、それもあまりにも突然にだ、あの時、俺は彼女側の席だった、あれは。。。最後のサビの繰り返しの時だっただろうか、彼女が突然に、まさしく視界から「消えて」しまったのだ、彼女はステージから一瞬にして姿を消してしまった、いったいどの表現者がどんな思惑を抱いて行うって言うんだろうか、いや、消えたはずの彼女を見つけるのに2秒もいらなかった、彼女は立つことをやめて地面に完全に座り込むのでもなく、まさに馬に跨り砂漠地帯を疾走するかのように、地球に、地面に跨り踊っていたのだ、その時の彼女の「舞」が焼き付いて離れないのは彼女が一瞬だけ行方を娘。から眩ましてしまった事による彼女の不在感ではないその存在証明の遂行の花の形相だ、彼女の肉体は地面に触れるか触れないかの瀬戸際で重力をありえない方向にぶちまけていた、ここで語る重力というものは地球が彼女を引き寄せ直立させ吊し上げているその重力ではない、そうした重力と攻防する彼女自体の重力の事だ、彼女の身体は極限まで無駄な私情を感情をないがしろにしながらなにか、そうだ、ただ純粋に生命を躍動する臓器のように、彼女は心臓になっていた、娘。の集団から消えてしまった彼女の立ち位置の上部の空間には穴が空いていた、そのすぐ下の空間では彼女が小さくしかしとてつもない巨大さで両膝を尽き地面に肘で鞭を入れ上半身と下半身の結界を説き解きただ躍動する心臓になっていた、今までのリゾナントブルーの彼女に唯一残念に思っていた事は彼女のあの野生の鳴声のように美しいフェイクに打ち勝つ肉体の躍動がなかった気がしたからだ、彼女はあのフェイクの瞬間に客席の一人に狙いを定め視線を外さずにフェイクすると36回目の苺いちえで言っていたが、そうした野蛮さに打ち勝つ肉体の躍動がどうしても生まれなかった、しかしだ、彼女はついに、あのフェイクと聖戦できる肉体の動きを創造し生んでみせたのだ、いや、またこう述べなければいけないのだろうか?、事実関係としてはその動きをはじめて確認できたのは突然に神戸であったと、そして、その動きが彼女が独断で瞬間的に創造し生み出し遂行したものなのかはわからないと、しかし、そうした事をすべてないがしろに横に放り投げても俺は言いたいのだ、彼女がとうとうあのフェイクを越える肉体の瞬間をリゾナントブルーで踊っていると、リゾナントブルーでさえ進化可能なのだと、彼女というひとりの存在のなかで巻き起こる肉体と歌声の凄まじい戦いがある、その事だ、ずっと俺が思い浮かべる彼女の「舞」と「歌声」の、今ツアーでの彼女のどこかで優雅な余裕とでも言うのか力を抜いているかのように、筋肉質な感情と烈火と物語りへ服従を軽蔑でもするかのような突然の放棄を、いや、たしかに彼女はどこかでなにかに反抗し放棄していた気がするのだ、そしてそのダンスはなにかもしかしたら今の彼女の表現のひとつの到達なのだろうかとさえ思わせる異様な瞬間だったのだ、しかしあまりにも、その力を抜いた優しい彼女の躍動がつづく事も、優雅さやそのかろやかさは凶暴な印象を俺に与えた、静かな四肢の優雅さがただの優雅さではなくどこかでとてつもなく恐ろしい瞬間への序章のような気がしてならなかったのだ、彼女は優雅さリゾナントブルーという曲は彼女にとっても娘。にとっても俺にとってもとてつもなく大事な曲だ、あの曲はとても野蛮だ、その野蛮さはどこか彼女の野生に似ている、リゾナントブルーは今の娘。の恐ろしさが朧気にもその骨格を抱きはじめた刻印のような曲でありとてつもない運動で躍動してゆくのだという肉付きしてゆく瞬間そのものだったつまり!、リゾナントブルーという曲のどこか普通ではない蠢きと狂気と運動を秘めた不気味に美しい曲の「生きている」のだというその現在進行形の躍動の動きこそ今の娘。の動脈なのではないか、

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