2010年5月27日木曜日

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彼女が乙女の命の形成を無限に変容させる事のできる「形の無いもの」であると言うなら、それはある視線からすれば間違いではないし一方では大きな間違いでもある。

間違いではないというのは。

たぶん、今の彼女をある生命の呼び名やその領域に確定指名する事は横暴でおこがましさ事で、その事への提起として作用するもっとも優れたものは彼女の行動や彼女の言葉であって、それらは春ツアーの「エロかわいい目標」発言で愛ちゃん自身の声によって公に世界に提起され、「形」のメイキングDVDの冒頭での「あなた次第で「リアル」になる」という、ほとんど惨い程に、彼女の演じる事への掟や、彼女を見る者の掟、その両方を放棄させてしまうような完全に路頭に迷わす言葉を彼女は言ってしまっている、なぜならその二つの発言は一人の女の子がひとつの意思によって発したものだとは思えない破綻があるし、どっちつかずなのだ、その言葉の状態こそ今の愛ちゃんの難しさにつながっているんじゃないだろうか。今の愛ちゃんを語ることやその魅力がなんであるのか「難しい」と呟ける人間だけが今の愛ちゃんをしっかりと認識できているはずだ。「高橋愛劇場」と安易にヲタが呼ぶその表現の領域なのだとかたをつける人間も、愛ちゃんの表現をアカデミックな表現芸術の文脈で優れているのだと強く語る愛ちゃん愛者たちも、その両極者たちは信用などできないのだ。

私自身も、それらの愛ちゃんへの言葉のように、愛ちゃんを「形のない者のように、めまぐるしく演じ、いくつもの存在へと表情を肉体を変える事ができる表現者で」あり、「「高橋劇場」の唯一のメンバーで唯一の主演女優でその独りよがりが鼻につく」というようなこの両極の思想で愛ちゃんを語れるならどんなに気が安らぐだろうか、しかし、真実は、きょうの愛ちゃんは演じる事よりも演じない事を通り越しそのどちらの瞬間でもない彼女を表現してしまってきているし、「高橋劇場」と呼んでいたその存在さえしなかった幻影の箱でさえとっくに彼女自身によって崩壊され、独りよがりどころか、人々が独りよがりだと責めた立てた狂気の孤高の表現領域は、もはや彼女ひとりのよがりではなく、他の娘。たちが表現領域と聖戦するときの誘発にさえなっている。

愛ちゃんはもう、「私は、私ではない完全な他者のホールガールを演じています」とも、「私はホールガールなど演じてはいません、あれは私そのものです」とも言ってはくれない、愛ちゃんはもう愛ちゃんの存在状態をオフィシャルな愛ちゃんの意思言語では解説してはくれないのだ。

しかし、一方で間違っているというのは。

たぶん、演じることが上手だと世界から言われなにより自分でもそう思っていた女の子が、いよいよ、演じる事よりも演じない事を選んだのなら、いやいや、自らの思想や思考によって湧き起こった革命意思ではなく、ほとんど自然に穏やかに曲線化してゆく愛ちゃんの身体のそのながれのように、極自然にだ、愛ちゃんの意思とはほとんど遠い場所から愛ちゃんのもとへ到達し乙女の流れ星のように授かってしまった意思であるのなら、そして、もしもその意思が、演じている最中にほとんど無意識に演じてはいない瞬間を遂行していたのなら、演じる自己と演じない自己の聖戦のように、他者を、物語を。。。。。。演じているという肉体と、演じないという肉体の攻防やその歪みやそのノイズのその2重の肉体のずっと奥に静かに躍動している肉体こそ演じる肉体と演じない肉体が彼女に生まれるまえからずっと彼女に存在している形あるものなのではないか、ただただ彼女だというその白い生地の肉体と感情こそ彼女の形なのではないか。。。彼女を称して「頑固」だとガキさんが言うのであれば、まさしく彼女の奥底には彼女という「頑固な形」があるのだ。彼女が強く演じるその瞬間の頂点探求の途中で瞬間的に顔を出す彼女の仕草や言葉や瞳やあの佇まいの強烈な形こそが、演じる彼女でも演じていない彼女でもなく真に彼女が出現するという奇跡なのではないか、その頑固な強烈な形なのではないか、そうやって、彼女は生まれてからずっと何者でもなくただただ強く彼女という形で躍動していたはずなのだ。

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Dear Morning Musume。 君のキャワキャワをキャッチだぜ!